中世社会(読み)ちゅうせいしゃかい

改訂新版 世界大百科事典 「中世社会」の意味・わかりやすい解説

中世社会 (ちゅうせいしゃかい)

日本の近代史学史のなかで,中世という時代区分が定着したのは,西欧の封建制と日本の鎌倉・室町・戦国時代の社会との酷似を見いだした原勝郎,福田徳三,中田薫らによってであり,そこで中世は,近世と規定された江戸時代とは異なる一個の時代としてとらえられたのである。この見方は第2次大戦後,封建制を農奴に対する領主の支配(農奴制,領主制)に基礎をおく社会とする石母田正らのマルクス主義史家に継承された。やがてそのなかから江戸時代をも農奴制に基づく社会とみなすことによって,中世・近世をあわせて封建社会=中世社会とし,中世をその前期,近世を後期とに区分しつつも全体として領主制の形成から崩壊までの過程を考えようとする永原慶二らの見解が生まれた。一方,中世と近世との差異を本質的とみて,中世を家父長的奴隷制社会,近世を農奴制社会とする安良城(あらき)盛昭の説も現れた。こうした安良城による中世社会の規定については異論も多いが,中世を近世社会と区別された独自な社会とする見方は最近では広く認められるようになっている。

 これに対し,天皇による全人民の支配を理想とする立場から,武家の支配する中世を否定的にとらえる見方は幕末・明治初年以来存在したが,1930年代以後,とくに平泉澄(きよし)らによって主唱され,敗戦まで世を風靡(ふうび)した。天皇の政治的実権がまったく失われる契機となった南北朝内乱は,この観点から時代を区分する画期として注目された。他方,西田直二郎の提唱した文化史学の潮流のなかで,中村直勝は文化・思想・経済の大きな転換期としてこの動乱をとらえ,やや異なった観点に立って先の立場を押し出した。この中村の見方は〈転向〉後の清水三男によって受けつがれ,清水は領主の私的な支配下におかれない百姓とその村落に目を注ぎ,中世社会の公的な側面を明らかにしようと試みたのである。

 敗戦後,マルクス主義史家のなかで石母田に対してやや批判的立場に立つ松本新八郎は,平泉らとまったく逆の立場から南北朝の動乱を古代と中世とを分かつ画期ととらえ,永原もその見方の影響をうけている。しかしこの時期には石母田に代表される領主制説に基づく中世社会論が支配的であったが,1950年代後半以降,これに対する反省・批判が表面化するとともに,清水の説が新たに再評価されはじめる。公家(くげ),寺家(じけ),社家(しやけ),武家(ぶけ)など,相互補完関係に立つ諸権門による農民(百姓)の支配に,中世社会の基本的な支配関係を見いだす黒田俊雄をはじめとして,大田文(おおたぶみ)に登録された公田(こうでん)を重視し,領主の私的隷属下におかれた下人(げにん)と異なる平民百姓を〈自由民〉と規定,領主に対する百姓の抵抗を評価する説が台頭してきた。石井進はこれを領主制説に対する反領主制説としているが,この2潮流は相互に交錯しつつも,二つの中世社会論として現在にいたっている。

 このうち領主制説が東国の実態に比重をおき,武家政権中心にその説をたて,分権的・多元的にこの社会をとらえるのに対し,反領主制説は西国(さいごく)の状況に立脚して朝廷,大寺社に焦点を合わせ,この社会の集権的・集中的な側面に注目する。前者の立場からは東国国家,東国政権の存在を主張し,鎌倉幕府,江戸幕府の成立にそれぞれ中世,近世の起点を求める見方がでてくるが,南北朝の動乱の社会的・政治的意義を重視し,室町幕府の確立に封建国家成立の重要な画期を見いだす見解は,どちらかといえば後者の説に親近性をもつといえよう。

 ここでは北海道,沖縄を除き,荘園公領制という一応共通した土地制度の上に立ち,後期には村・町制に移行しはじめる社会を中世社会ととらえ,院政期から江戸初期までを視野に入れて,社会体制,社会的諸関係,諸集団などについて概説する。

中世社会における被支配者の身分は,大きく自由民と不自由民とに区分され,自由民はさらに平民(平民百姓)と職人とに分けることができる。不自由民は主の意志によって売買・質入れされ,譲与の対象となった下人であり,これを奴隷とみるか,農奴とみるか,議論が分かれているが,奴隷と見るほうが自然であろう。

平民

平民は人口の最も多くの部分を占めており,荘園・公領の支配者に対して年貢公事(くじ),夫役(ぶやく)を負担した。平民のなかには,屋敷をもち,荘園・公領の田畠を(みよう)として請け負うほどの平民上層(本百姓,本在家(ほんざいけ)(在家))と,姻戚関係を含む血縁をおもな紐帯(ちゆうたい)としてそれと結びついた小共同体をなす平民下層(小百姓,脇在家(わきざいけ))の階層があり,平民上層を中心に,荘園・公領を単位とし,在地の神社などを支柱とする共同体をなしていた。あとから移住してきた人は間人(亡土)(もうと)とよばれ,共同体の成員とは認められなかった。

 平民の家族形態は明らかではないが,生活の単位は親子を中心とする小家族で,平民上層は下人を若干所有する場合もあった。田畠の耕作や名田畠の請負は,通常男性の名で行われたが,南北朝期までは少ないながら女性の名主(みようしゆ)の事例も西国には存在し,女性による田畠の売買も行われ,男女の権利の差はさほど大きくなかったと思われる。15歳以下は共同体の成員権のない(わらべ)で,男子の場合,烏帽子(えぼし)をつける成人式(元服)後に成員として認められた。しかし童は逆に共同体のさまざまな縁から自由で,神に近い存在とみられていた。60~70歳をこえた老人,翁(おきな)もこれに近く,古老として重んぜられた。ただこうした年齢による階梯が重視されたのは西国のことで,東国の実情は十分明らかにし難い。

荘園・公領の年貢・公事賦課の単位となった水田は,検注によって確定された定田(じようでん),大田文に登録された田地が公田といわれたように,祭りや行事などにもかかわる公的・共同体的な性格が強く,平民の日常生活は畠,あるいは焼畑などに依存するところが大であり,山野河海における漁猟・採集も無視し難い比重をもっていた。また絹,糸や油などの生産,海辺での製塩,山地での木器・紙の生産,さらに製鉄も平民によって行われた。年貢は基本的に田地を単位として賦課されたが,平民は下行(げぎよう)された米をこうした特産物と交易するかたちで貢納を行うことが多かった。それゆえ,米年貢は畿内,瀬戸内海地域,九州,北陸などの西国に見いだされるが,そこでもけっして一般的ではなく,東国の年貢は絹,綿,布のような繊維製品が圧倒的だったのである。しかし平民自身の生活のなかでは,布,小袖,帷子(かたびら)などは,鍬,犂(すき),手斧(ちような),鉞(まさかり)や鍋,金輪などの鉄製品,弓や刀などの武器とともにたいせつな財産であった。平民の負担にはそのほかに,年中行事の費用,荘園・公領の支配者の代官や使などの饗応,三日厨(みつかくりや),その送迎の人夫,佃(つくだ)の耕作などの公事・夫役があったが,地頭下司(げし)や預所(あずかりどころ)などの領主,その代官も,農事の開始に当たっての種子や農料の下行,出挙米(すいこまい)や利銭の貸与,行事のさいの酒などの給付を当然のこととして行わなくてはならなかった。

 これらの年貢・公事などは,平民にとって公への奉仕と意識されていた。鎌倉後期以降,荘園・公領の支配者が公方(くぼう),年貢・公事が公平(くびよう)といわれた理由はそこにある。それは同時に共同体成員すなわち自由民としての義務とうけとられていたので,これを果たしていれば平民の移動の自由は保証されたが,種子・農料の下行や出挙をうけながら,年貢・公事を未進(みしん)することは,自分自身あるいは子供を身代(みのしろ)として贖(あがな)わなくてはならない罪であった。中世社会にはこのような未進,それに伴う借銭によって下人に身を落とす人々が多く,なかには共同体から離脱・逃散ちようさん)して浮浪するものも少なくなかったのである。

 しかも田畠はまだ荒れやすく,川成(かわなり)・不作として休耕しなくてはならないこともしばしばで,畿内とその周辺などでは田畠の年貢部分をこえる得分(とくぶん),加地子(かじし)の得分や耕作権が売買の対象になっているが,全般的には不安定な田畠に対する平民の権利は弱体であった。それゆえ,天災はたちまち寛喜(1229-32)や正嘉(1257-59)のような大飢饉をよびおこし,多くの人々が餓死し,浮浪人となった。

これに加えて,平安末期には勅事(ちよくじ),院事(いんじ)などの臨時雑役(りんじぞうやく)が頻々と賦課され,官使,国使らによる追求はきびしく,鎌倉幕府成立後,とくに承久の乱(1221)後の西国では,地頭に補任(ぶにん)された東国御家人の乱妨(らんぼう)・非法も著しいものがあった。当時の社会では盗み放火,殺人が大犯(だいぼん)としてきびしく罰せられたが,地頭はこうした慣習を逆手にとって,わずかな盗犯などに対しても多額の科料(かりよう)を課した。また神に起請(きしよう)するさい祭物をささげる習俗を利用し,訴訟にさいして起請を要求,祭物を徴収し,さらにわずかな未進でもきびしく追求,それらを弁償できないと直ちに身代をとり,たまらず逃散する平民の家内を追捕(ついぶ)し,妻子を質にとった。これは地頭がの首長の側面をもち,家父長的な同族関係が発達していた東国社会のあり方と,平民上層を中心とする横の連帯,自治の発達した西国社会との矛盾・摩擦の顕現ともみることができる。

 こうした地頭などの非法に対し,平民たちは〈権門勢家(けんもんせいか)領〉〈神社仏寺領〉などといわれ,不入の特権をもつ荘園に逃散することも多かった。とくに天皇家・摂関家領,仏神領はアジールとしての機能をもっており,下人がそこに逃亡することもしばしばあったのである。また,平民上層(名主)たちを中心に荘園・公領の支配者を通じて幕府に訴訟をおこし,地頭の非法を糾弾することも行われた。これに対して,幕府も〈撫民〉の姿勢をもって平民にのぞむことを地頭に求め,非法を行った地頭代を罷免した。

 鎌倉後期になると,平民たちは天災による損免や地頭・代官の非法を理由に,荘園・公領の支配者に減免を要求,公然と未進するようになる。年貢・公事は〈公平〉でなくてはならなかったのであり,限度をこえた負担を平民たちは積極的に拒否したのである。さらに南北朝時代にかけて,上層・下層のすべての平民たちが〈惣百姓〉〈惣荘〉の名において,一味同心(いちみどうしん)・一揆を結び,代官の罷免を要求して逃散することも広く見られるようになってくる。逃散は古くから,〈山林に交じる〉といわれたが,聖地でありアジールであった山林に,平民たちは実際にこもり,また室町時代には柿帷(かきかたびら)や蓑笠をつけて乞食の姿をし,世俗の縁から切れたことをみずからの衣装で示すことも行ったとみられる。この動きの背景には,田畠に対する平民の権利の強化・安定があったのであり,しだいに動揺・形骸化する荘園公領制のもとに,新たな自治的な村落が成長してくるのである。

職人

このような平民に対し,みずからの身につけた職能を通じて,天皇家,摂関家,仏神と結びつき,供御人(くごにん),殿下細工寄人(よりうど),神人(じにん)などの称号を与えられて奉仕するかわりに,平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか,交通上の特権などを保証され,その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられることもあった職能民を,ここでは職人と規定しておく。

中世社会には農業以外の生業に主として携わる非農業民(原始・古代以来の海民,山民,芸能民,呪術的宗教者,それに商工民など)が少なからず生活していた。これらの人々のなかには平民として非水田的な年貢を貢納する人々もあったが,その一部を品部(しなべ)・雑戸(ざつこ)として組織していた律令制の解体とともに,それぞれの職能に即して自立した集団をなし,もっぱらみずからの職能に依存しつつ,交易などによって生活する非農業民集団も少なくなかったのである。そのなかには鍛冶,番匠などのように,建築などの仕事場を求めて働く人々もあったが,広狭の差はあれ,遍歴して交易に従事する人々が大部分であったといってよい。

 こうした遍歴する非農業民は(つ),(とまり)などに本拠をおき,平民の共同体,荘園・公領の範囲をこえた〈無主〉の場,山野河海,河原,中州,(いち),宿(しゆく)などをその活動の場としていた。そうした〈無主〉の場,交通路に対する支配権は,鎌倉幕府成立までは究極的に天皇,幕府成立後は西国では天皇,東国では将軍が掌握しており,遍歴民は中世に入ると各地の渡し(わたし),津,泊などに立てられた関を自由に通行するための保証を天皇・将軍に求めたのである。それとともに,平民と区別された遍歴する職能民としてのみずからの立場を鮮明にするためにも,これらの人々は先のように天皇家,摂関家,仏神と結びつくことを必要とした。それは天皇家領,摂関家領,仏神領がアジールの機能をもったのと同様の意味をもち,みずからを天皇に直属,あるいは〈寺奴〉〈神奴〉とすることによって,遍歴民は世俗の縁から切れた〈聖〉なる存在であることを社会に認めさせようとしたのである。その背景には,日本の社会にきわめて古くからの習俗として存在した,漂泊する〈異人〉〈まれびと〉に対する平民の畏敬があったとみることもできよう。まだ十分に解明されていないが,神人が黄衣を着用し,狩人が蓑帽子をかぶったように,遍歴民はその衣装においても平民と異なる姿をしていたと思われる。

院政期以降,職能民を組織しようと競合する諸権門,権門との結びつきを求めて流動する職能民の相互の動きのなかで,供御人交名(きようみよう),神人交名などによって,職人の身分は確定する。これらの人々は自然発生的な共同体を基盤としつつ,それぞれの職能神などを中心とした職能的な共同体をなしていた。西国において,それは平民の共同体にもみられた老若(ろうにやく),﨟次(ろうじ)の秩序をより明確にもつ的な性格をもち,供御人・神人(職人)の正員と認められたのは老衆で,正員には若干の脇住が属していたが,職人の制度的な整備とともに,灯炉供御人の称号をもつ鋳物師(いもじ)のような全国的な大組織をはじめ,国ごとの組織もみられるようになった。職能は西国では世襲的な傾向が顕著であったが,男系だけでなく,職能によっては桂女(かつらめ)のように女系の母子相承の場合もあり,生魚商人や綿商人のように女性の遍歴民(職人)も広くみられたのである。そしてこうした女性も特有の被り物(かぶりもの)によって,平民の女性からみずからを区別していた。

 遊女,白拍子(しらびようし),傀儡(くぐつ)なども基本的には同様で,そのなかには正式の職人として認められた人々もあったのである。鍛冶,番匠,檜物師などと同様に荘園・公領に給免田を与えられた傀儡の存在や,遊女・白拍子は〈公庭〉に属する人といわれている点などによって,それは明らかである。また,病や罪,死や血に触れるなど,さまざまな理由による穢(けがれ)のために,平民の共同体から排除・差別された非人河原者(かわらもの)の場合にも,清目(きよめ)をその職能とする寄人・神人の集団があり,やはり公的に職人と認められていた。さらに異国人(唐人)の商工民についてもまったく同様であった。

 一方,鎌倉時代以後は領主として支配者の立場に立った西国の御家人,非御家人など,のちに国人(こくじん)といわれた人々の場合も,御家人交名によってその地位を確定され,荘園・公領に給免田を保証されて下司,公文(くもん),田所(たどころ)などの特定の職掌をもつ荘官となっている点で,職人に近似しており,〈職人〉の言葉も本来はこの人々をさす語であった。実際,西国御家人のなかには商工民集団の統轄者や神人を兼ねた人もありえたのである。

 以上述べた職人のあり方は西国の実態に即したことであるが,もちろん東国においても〈道々の輩〉といわれた職能民もおり,将軍家細工所の寄人などの職人のいたことは確認しうる。しかし座的な組織は鎌倉など,ごく一部にみられるのみで,東国の職能民の組織のあり方は西国とはかなり異なるものがあったと思われる。また広大な郡を請け負って所領とし,多くの従者を従えた東国御家人も,もとより職人とは異質であり,逆に職人としての非人も,やはり鎌倉を除くとほとんど確認されていない。このように,東国の職人の実態には不明な点が多く,その解明は今後の課題である。

 全体としてみると,中世前期の職人は鋳物師が布,絹,穀類を,唐人,傀儡が櫛などを交易したように,また多少とも給免田畠に依存するところがあったように,職能がなお未分化であった。しかし南北朝期以降,商人,手工業者,芸能民,さらにそのそれぞれの職能の分化が進み,一方では商人を別として,多くの職人は本拠地の津,泊,渡などに〈屋〉を構えて集住,あるいは河原・中州などに立つ市・宿に定着し,遍歴の範囲を狭めていった。こうして,元来アジール的な性格をもつそのような場に,みずからを公界(くがい)と称する自治体,会合衆(えごうしゆう)などに指導される自治的な都市)が成長していくのである。

下人

平民,職人と異なり,特定の主の私的な保護・隷属の下におかれ,売買・譲与された不自由民(下人あるいは所従(しよじゆう))が社会のなかでどの程度の比重を占めていたかは明らかでない。しかし未進による債務の身代として,また飢饉により,さらになんらかの罪を犯し,それを償いえずに,下人に身を落とす人はかなりの数に及んだものと思われる。こうしたとき,平民はみずからの自由の放棄を明らかにした曳文(引文),いましめ状を書いたのである。公家,武家はともに人身売買を禁じていたが,寛喜の飢饉のさい,幕府が一時的にせよそれを認めたことから,餓死の危険,飢饉を理由に,やむをえぬこととして人身の売買を公然と行うのがふつうになり,こうした広範な下人の存在が中世社会のあり方の一面を規定していたことはまちがいない。

 もとより下人の境遇は,《山椒大夫》の安寿・厨子王の運命に象徴されるように過酷なものがあったが,一方には捨子や身寄りのないものを養い保護する慣習もあり,下人の実態は,永続的ではないとしても家族をもち,主から給与された田畠を耕作するなど,平民とさほど異ならないところもあったのである。また下人はしばしば,前述した仏神領などや,戦国期に〈無縁所〉〈公界寺〉などといわれた寺院をはじめ,市・町などのアジールに逃亡し,主を変えることもあった。主は曳文に,いかなる場においてもその身を捕らえうるという担保文言(もんごん)を書かせ,南北朝期になると,領主たちは相互に契約を結び,逃亡した下人の相互返還(人返し)を行うなど,下人の掌握につとめている。

 このように下人を集積したのは,荘園・公領の支配者ではなく,年貢・公事の徴収を請け負い,検断権をもつ在地の領主であり,西国でも安芸の田所氏が100人以上の下人をもっていたような例はあるが,相対的に東国あるいは南九州の領主のほうが,下人の所有においては卓越していたと推定される。近世初頭にいたるまで,この地域ではなお多くの下人を所有する土豪の存在を確認することができるのである。

以上のように,下人だけでなく,平民・職人のあり方まで含めて,東国と西国ではその社会のあり方にかなりの相違があった。婚姻形態についても,西国では婿入婚(一時的訪婚)が行われたのに対し,東国では早くから嫁入婚ではなかったか,といわれている。こうした相違は支配者の秩序においても顕著であり,職能の世襲される傾向の強かった西国では,さまざまなレベルの職掌を世襲的に請け負う〈(しき)の重層的体系〉が諸権門による荘園・公領の支配体制として顕著な発達をみせたのに対し,東国においては職はきわめて単純でほとんど発達せず,むしろ惣領制的な一族関係を基礎とする主従制を支柱として,荘園・公領が維持されたのである。日本列島の主要部に,境相論(さかいそうろん)の裁定権,交通路の支配権などの統治権を分割した,鎌倉幕府(東国国家)と,王朝国家(西国国家)の二つの国家があったことを主張する説は,こうした事実を前提としている。そして東国の中では東北,西国のなかでは九州が,それぞれ自立した政治権力を成長させうるだけの伝統と基盤とをもっていた。中世の政治過程のなかで,後白河法皇が奥州藤原氏と結び,源頼朝は九州を押さえてこれと対抗するとか,後醍醐天皇が東北に陸奥将軍府をおいたのに対し,鎌倉の足利尊氏・直義が九州の軍事指揮権を掌握するなど,東北と畿内に対する関東と九州という対立の構図がしばしばみられるのは,これらの地域が独自な政治勢力であったことを前提にしなくては理解し難い。

 北陸も古くからそうした条件を潜在させていたが,南北朝期以降,甲信,東海,中国,四国などの地域も,それぞれに独自な政治勢力をもつ地域として,しだいにその姿を現してくる。そして15世紀に入れば,沖縄には琉球国が成立し,北海道にも〈夷千島王〉を自称して,朝鮮に遣使するような政治勢力が形成されつつあったのである。

 中世社会の多元的な性格は,このような点にもよく現れているが,これらの諸地域は海を通じて,相互に,あるいは列島外の地域と,活発に交流し,結びついていた。列島内の各地で焼かれた焼物の広範囲にわたる分布,中国大陸,朝鮮半島の陶磁器の列島全域に及ぶ大量な出土は,このことを如実に物語っている。そしてこうした海による交流によって,列島内でも先の諸地域と交錯しつつ,古くからの瀬戸内海地域だけでなく,太平洋沿岸地域,日本海沿海地域が形成され,列島の外までふくめての日本海地域や〈倭寇世界〉を想定することが可能となるような状況がみられたのである。実際,唐人の飴売,薬売,石工などが列島内で活動し,朝鮮国王の慶事には信濃善光寺を東限として西日本海辺の多数の領主たちが慶賀の使を送り,若狭一・二宮の禰宜(ねぎ)が明の元号を使用した事実は,国家間の公的な貿易のみにとどまらない,諸地域の独自な列島外地域との交流が活発であったことを示している。このように中世の列島社会は,現在の沖縄,北海道を除く列島主要部においても,単一の国家の下にあったとは断定し難いものがあり,その諸地域は海を媒介に列島外に開かれ,それぞれに独自な結びつきを保っていた。

 しかしその反面には,東は〈外ヶ浜〉(現,青森県陸奥湾岸一帯)を境に〈夷島〉を異域とし,西は〈鬼界島〉(現,鹿児島県)にいたる範囲を日本国とする意識が,鎌倉時代には生まれていた。とくにモンゴル襲来以降,異域は人ならぬ〈異類異形〉のものの住むところとし,異人を拒否・差別する村落社会の一面の習俗を背景に,異国人を〈異類〉とみるような差別意識がしだいに強まってきたことも見逃してはならない。日本国を〈島国〉とするような観念は,そのなかから姿を現しつつあったのである。
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日本中世社会は,それに先立つ古代社会,あとにつづく近世社会とくらべて,統一的な制度の枠組みが明瞭なかたちで存在せず,多元性,分裂性がその大きな特徴とされている。

 中世社会の法的構造においても,王朝国家の公家法,武家政権の幕府法,荘園領主の本所法など公的法のみならず,僧侶集団の寺院法,の掟たる家法,さらには村落集団の村法など,多数の私的集団の法が分立併存し,また重層的に存在していた。そして,これら私的集団の多数の法は成文化されず,その多くは先例,傍例,習(ならい),大法(たいほう)などとよばれた慣習法よりなっていた。当国の習,諸荘園の習,所(ところ)の法例など大小さまざまの地域・権力圏のほか,武家の習,釈門の法,百姓の習,商人の故実といった職能的集団に特有の慣習法が存在した。そして中世の人々は,これらの習,先例などによって現実の生活を営むとともに,他者に対しては,これらを根拠にして正義の名において自己の権益を守ることを目的に自己主張したのである。当然のことながら,これらの法の相互関係においては,異質の法理が共在したが,それぞれの法理による主張がなされること自体,主張者にとっても社会一般にとっても矛盾とは考えられていなかったのである。幕府の御家人が自分のつごうによって公家や本所の裁判所で幕府法の法理を主張することも自由であったし,本所の雑掌(ざつしよう)が幕府の裁判で公家法や本所法を盾にとって自己の主張を行い,それによって勝訴に導くことも可能であったのである。このような多様な価値観に対する融則(ゆうそく)の精神構造もまた,中世社会の特色といえる。

このような社会の多元性,分裂性は,いうまでもなく法・裁判の分野にとどまるものではなく,人々の日常生活,交易,収取の基礎をなす度量衡の単位においても同じであった。とくに(ます)や田畠の面積の単位はいちじるしく多様であった。個々の荘園領主は十合枡,十三合枡,七合枡といった単位を異にする枡をもち,同じ領主のそれぞれの荘園によっても枡を異にし,さらに米を量る枡と油を量る枡,納枡(おさめます)と下行枡(げぎようます)もその大きさが異なっていたのである。また地積も町・段・歩制で完全に統一されていたわけではなく,辺境地帯はもちろん,畿内においても代(しろ),畝(せ),杖(つえ)などの単位がみられ,苅(かり)や蒔(まき)など収穫量や播種量によって面積を表示する方法も全国的にひろくみられた。

 律令国家の定めた公定枡,班田制の基礎をなす町・段・歩制は,このような中世社会の実態からみるとき,社会の基層部においては,完全な形では浸透しなかったことを示すといえる。そして中世社会における,苅とか蒔とかいういわば原始的地積単位の広範な残存状況は,中世社会を国家の側からでなく,人々の生活の側から問題とするとき,律令国家に完全に編成された古代社会が存在し,その崩壊によって中世社会が成立するという把握のしかたより,中世社会は,原始社会の存在形態の発展をベースに,普遍的原理をもつ律令制,普遍的価値観をもつ仏教,儒教などの文明との接触,累積的混交によって形成されつつある社会と規定する見解のほうが,より実態に即しているといえる。

 中世陶磁器史の研究によれば,中国,朝鮮などの先進技術の導入によって日本の陶磁器は発展していくが,その過程は,けっして日本固有の諸技術体系を全面的に駆逐することなく,その諸技術を多くそのまま遺存せしめるという累積型の展開,それに基づく多様な諸技術の混在をその特徴としている。先にみた多種の集団,それに応じた多種の法,価値観の分立などに典型化される中世社会の多様・分裂・重層性は,このような日本社会の歴史的進化のなかに位置づけられるといえる。

 このように成立期の中世社会は,なお未開の野性,原始社会の呪術的世界が生命力をもっていきづいていた社会であったが,やがて中世後期,南北朝時代から戦国時代にかけて,仏教の民衆化,貨幣流通,文字の浸透などを媒介にして,近代社会の祖型的な社会へと転回しはじめる。その意味では,神々(自然)の世界から人間の世界への,未開社会から文明社会への分水嶺的位置を占めるともいえる。この転換の過程は,多元性を特徴とする中世社会の基本的な要因である多種多様な集団の存在,そこにおける多様な価値観,行動様式などの再編・統合という形をとって進行するが,この集団の再編・統合は,おおまかにいえば,血縁的結合から地縁的結合,職能別統合をベースにして,タテ型編成とヨコ型編成という両軸のからみあいのなかで進行する。

中世の支配体制が,〈まつりごと〉を行う朝廷を中心にした公家,聖の世界をつかさどる寺社勢力,軍事・検断をつかさどる幕府の三つの権門の相互補完関係より成り立っていたといわれるように,その出発点においてすでに職能的に編成された集団より成り立っていた。これらの職能集団は,その集団として職能に見合った独自の価値観,集団編成の原理などをもつ界をつくりあげていた。もちろんこの界は,中世社会においてこの三つだけの界ではなく,各種の職能に応じ,また職能とはかかわりのない性別・年齢別の界,さらには同じ界のなかでの特別の時間,また特別の空間においてのみその論理が通用する界など,多種多様の界が存在した。これらの集団,またはその構成する界は,この時代なお流動的であり,かつ集団がいくつもの界に属するようなゆるやかなものであったが,これらはしだいに純化,統合,固定化の方向にすすみ,その過程で身分の枠組みを形成していったのである。

中世前期社会においては,鎌倉幕府の主従の基礎が惣領制であったことからもうかがわれるように,なお氏族的・族団的性格を色濃くのこす集団が支配的であったが,この状況のなかから族的結合の紐をすでに断ち切った集団を形成し,そこに仏法興隆を目的とした独自の世界を営んでいたのは仏教寺院の集団であった。

 古代律令国家の寺院統制の弛緩,寺社勢力の強大化などの条件のなかで,自律的・自治的集団としての中世寺院が成立した。ここでは僧侶の平等・和合という原始仏教の僧伽(そうぎや)(サンガ)の思想が継承され,寺院の意志決定方式として,集会(しゆうえ)という合議制が,鎌倉時代に一般的制度として定着した。この非族縁的な自律集団の集会は,原則として平等な成員の自治によって運営され,その意志決定は多数決による一味(いちみ)同心,一揆の評定(ひようじよう)として特別の効力をもつものとされた。この寺院の集会のあり方は,同じく非族縁的結合の惣村(そうそん)の意志決定方式,さらには村法の制定にも大きな影響を与えた。

 この寺院の集会によって一味同心の法として制定された法は,寺院集団の内部規範としてだけでなく,寺領荘園の法にまで及ぶが,仏の権威をかりつつ王法に対する別の次元の対等の効力をもつ法であると寺院勢力によって主張された。仏法のなかにいる僧侶,この界に存在するものは,俗界の人間のものではなく〈仏の物〉であるという論理のもとで,鎌倉時代いったん寺院に寄進した土地は〈仏物〉となり,寄進者は再びこれをとりもどして〈人物〉とすることができないという仏陀法など,この界特有の新しい法理を生みだしたのである。やがて鎌倉仏教の広布,その一向専修的傾向が強化されるなかで,この論理は信者集団,その所有する土地財産をふくめた世界にまで拡大していく。戦国時代には,この集団に属するすべての人,財物がすべて阿弥陀仏に帰するという一向宗の仏法領,同じく日蓮宗の釈尊領(しやくそんりよう)という観念が実態化・定着していき,俗的権力,俗的論理の及ばない新しいアジールである寺内町などを各地に生みだした。またこの観念は,俗的権力の強大化という状況のなかで,一向一揆,日蓮宗不受不施派など反権力の戦いの思想的基盤となって結実していったのである。

 ところで,このような寺社勢力は純粋に聖の世界に限定されて存在したのではなく,彼らは荘園領主でもあったように俗的な権力としても存在していた。そして,俗界とのかかわりでも,多くの独特な文化,芸能,産業を発展させるとともに,それをになう職能集団を編成していた。これら神人,寄人などとよばれる奉仕集団は,神仏との関係においては,一種の主従制的関係で結ばれていたが,集団内部の結合原理はヨコ型の座的構造をとっていた。能などの芸能の座は有名であるが,そのほか寺院経済のにない手として商業,金融,手工業,交通など多くの集団が存在し,分業の発展に大きく寄与していた。一方,これら聖の世界をになう寺社勢力は,中世社会において陰陽道(おんみようどう)と結びついて拡大再生産された強固な穢の観念の存在のもとで,その祓(はらえ)/(はらい)をひとつの重要な役割としていた。そのため非人などを集団としてその内部にかかえこむとともに,穢の現実の処理などを神人,寄人などに職能としてゆだねたため,穢の観念を媒介にして,卑賤視される職能集団を生みだす結果となった。

律令国家の官僚集団の後裔である公家勢力は,律令国家の解体過程で10世紀から12世紀にかけて王朝国家を完成した。この新しく形成された王朝国家の制度的特質は,律令官僚体制にみられる太政官を頂点とする大小官司の統属関係が解体し,独立した個々の官司が,それぞれ完結的な業務を行うこと,その官庁運営方式が,その官僚としての業務活動と収益とが不可分の関係で結ばれていること,そして,それぞれの官司が特定の氏族なり家によって請け負われていることにあるといわれる。

 このように王朝国家の官僚制は,特定氏族が独占的にその運営を請け負っているのであり,個々の氏族の立場からいえば,その氏族の家業であり,その業務の運営がそのまま収益を生みだすあり方からいえば家産であったのであり,これら公家勢力は氏族専業に基づく家業集団として存在した。これらの家業集団は,王朝国家の統治権に基づく広域支配権,商工業の全国的中心である京都の支配権,その貢進体系などをてこに,それぞれの専業化した家業に応じ,山の民,川の民などの非農業民,遍歴する技能集団との結びつきを強め,これらを再編していった。これら公家集団の集団としての結合は官僚制的結合をとり,それぞれ官位に応じた家格を形成し,全体として重層的構造をとるが,必ずしも支配-従属関係がそこにつらぬかれていたわけではない。また公家の個々の家は,主従結合をその内部に生みだしていたが,その家自体が,武士の家のような家父長制的原理で成り立っていなかったためか,その主従関係は契約的性格が比較的強いものであった。

中世社会を特色づける武士団も,武芸をもって支配階級に仕える職能団体といわれるように,その本質は職能団体であったが,鎌倉幕府の御家人が,開発領主であり,根本私領,本領とよばれる所領をもつ存在であったように,その多くのものは農業経営を行う在地領主であった。これら武士団の系譜は,国造(くにのみやつこ)以来の地方豪族,中央貴族が土着した地方豪族などであるが,彼らは国衙(こくが)によって武士身分への帰属を認められ,11世紀の末ごろ朝廷の警固を目的とする内裏大番(だいりおおばん)制に国別に編成された。平安時代後期,国司の国軍は〈国の兵(つわもの)〉とよばれるこれら地方豪族と〈館(たち)の者〉とよばれる私的従者の二つより成っていたが,国司はこれら〈国の兵〉の軍事動員をてこに,彼らを国の押領使(おうりようし),検非違使(けびいし)などに任命することをとおして,私的主従制にくみこんでいく傾向がみられる。このような私的主従制の拡大を多数の国において実現し,〈武家の棟梁〉とよばれたのが清和源氏などの武家の権門であった。このような状況のもとで鎌倉幕府の御家人制は成立した。

 これら御家人は将軍と主従関係を結ぶことにより,地頭職,荘官職などをとおしてその所領を保証されていた。その所領支配は家の独立・不可侵性を核とした家支配,開発に基づく地主の支配に基づき,完結性,独立性を特徴としていた。このような族団としての武士の家は,分割相続制にみられるように,その家族内部になお血縁紐帯(ちゆうたい)に基づく共和的性格をのこしていたが,この家にかかえこまれた家子(いえのこ),郎従などの従者は,宅(たく)の論理のもとにおかれ,その主従関係は隷属性の強いものであった。鎌倉時代の武士団の家は土地と強く結びつき,その自立性を保持し,その集団の行動基準は自力救済を基本としていた。家の名誉をかけた紛争,土地をめぐる紛争などは,名誉のための戦い,権利のための戦いとして,私戦,私闘というかたちで行われ,またその裁判上の手続も自力救済観念に基づく当事者主義が原則となっていた。

 ところが鎌倉時代末から南北朝時代にかけて,武士団が解体しはじめるとともに,後述する惣村とよばれる土地と結びついた強い村落結合が成立し,武士の性格は大きく転換していった。族的結合の解体のなかで,長子相続制に基づく家父長制的家が一般化し,一族家督の家臣となることを余儀なくされ,家督を頂点とする階層的な構成をとる家が形成された。これらの家は,その家を存続させるため,より大きな家と主従関係を結びタテ型に編成されていったが,一方その家の自立性を維持するため地縁的結合を結ぶものも多く,各地に国人一揆(国一揆),郡中惣などのヨコ型の領主連合が生まれた。これらの領主連合としての一揆は,族縁的結合原理を断ち切り,自主的に公共の場をつくりだした点など大きな意義が認められるが,その紛争解決を一揆の裁定にゆだねるなど,個々の領主の自立性,自力救済の観点からいえば,それは自己否定の過程ともいえる。

 このような武士を地域権力として家臣化していったのが大名であり,在地から遊離し,しだいに自立性を失いつつある武士の家に主人権をとおして大名の力が及ぶようになった。家の相続,従者の決定などにも大名の意志が入りこむとともに,所領も貫高(かんだか),石高(こくだか)とよばれる単なる収益をもとに定量的に把握され,それに見合った軍役が賦課される体制がつくりあげられたのである。彼らと大名の関係は軍事集団として主従関係で結ばれていたのは当然であるが,彼らは大名の家のなかに家中としてくりこまれ,一門,一族など多様な擬制的な家格序列を与えられ,統治集団として家産官僚的性格をも強めていったのである。

 このように家の原理で結集した武士が統治階級となることにより,日本社会の特徴といわれる家型・タテ型結合の特徴がより強く規定されることになったが,もうひとつの特徴である村型・ヨコ型結合の基盤となったが生まれたのも中世後期であった。

鎌倉時代の後期より,畿内およびその周辺部に,宮座(みやざ)などを媒介にして惣村とよばれる地縁的な農民の共同体が成立し,その後東国地方などの辺境部にも血縁的・同族的な性格の強い村落が成立した。これらの村落が,近代まで日本社会を基礎づけた村の母体であり,この村と家の成立が,日本社会を近代につづく社会へと転換させたのであり,中世後期の政治的・社会的混乱は,このような村を基盤とした政治・社会体制への移行より生じたものといえる。

 中世前期の百姓は必ずしも土地との結びつきが強くはなかった。中世における土地所有の正当性の根源は,器量と職(しき)で表示される相伝の由緒であったが,それを認められたのは領主階級などの特定者であり,百姓は非職(ひしき)・非器(ひき)の仁(じん)とよばれ,正当な所有を認められなかった。所領内のなどを占有し,みずから農業経営を行う領主の勧農(かんのう)とよばれる行為が,浮浪人を招き,種子や農料を給付し土地を耕作させることであったことからもうかがわれるように,根本住人とよばれた土着の有力農民を除き,百姓の多くは土地を請作(うけさく)するのが基本的なものであった。鎌倉幕府の《御成敗式目》が定めた〈百姓の去留(きよりゆう)の自由〉は,このような百姓のあり方を前提にしていたといえる。

 やがてこれらの百姓は,長年にわたる耕作の事実をとおして土地への結びつきを強め,権利として上から与えられるというよりは,事実的占有をとおして,〈所持〉という語に表現される農民的土地所有権を獲得していった。室町時代には,百姓は土地に結びついたもの,土地とは切り離せないもの,という農民としての百姓の観念が社会的に広く認められ,職能に結びついた身分としての百姓が生まれた。そして,この百姓身分の形成を基軸に,分業の発展に基づいて,職能と結びついた士・農・工・商の身分が社会的に実態化していったのである。

 この百姓の定住によって惣村が生まれ,また惣村の成立によって百姓の存在を保持しえたといえる。この自生的につくりだされた村落は自治集団であり自立性を特色としていた。集団の内部規範である村法を定め,村の秩序維持のため地下(じげ)検断をも行使した。これら村落は,沙汰人(さたにん)・番頭(ばんとう)などとよばれる有力農民によって実質的に指導されたが,村の意志決定は,村落民全員の集会である寄合で決定された。その構成は年齢階梯制をとるものも多く,〈百姓の習は一味〉と主張されたように,ヨコ型結合の原理が強くはたらいていた。

 この村落は,他の族的集団,主従集団と同じく集団としての強い凝縮性が特徴で,集団と個人の関係は,村落があってはじめて個人が存在しうるという一種の運命共同体的性格をもっていた。このような完結体としての村落は,用水,神事などをとおして,他村落と相互に契約を結び,惣郷,惣荘,惣国といった個別領主の支配領域をこえたヨコの結合の輪をひろげていったのである。

 ところで,このような性格をもつ村落の形成は,荘園支配の基礎を大きく変えてしまったが,その変化の最大の契機は,村として一括して領主の年貢を請け負う村請(むらうけ)制の成立であった。荘園制の支配は,その基本台帳たる実検帳が示すように,領内の個別の農民,その耕地,年貢量などを把握してその個別的な関係を軸に支配する原理に基づいていたといえるが,村請制によってその支配原理はくずれてしまったのである。領主は,村落という集団との契約に基づき,一定の年貢をとる権利をもつにすぎなくなり,その所領,領民から切り離された存在となったのである。逆にいえば,村請制によって村が村民を支配するかたちが完成したのであり,年貢の負担割付・徴収などはすべて村によって行われた。そして灌漑施設の維持,上部権力に対する礼銭一献料(いつこんりよう)など村の維持存続などの費用は村がこれを村入目(いりめ)として負担し,これを村民に対して家役(いえやく)というかたちで賦課したのである。村法には,この家役の賦課・負担に関するものが多く定められているが,この家役の負担が村落成員のあかしとして,村民に〈公界(くがい)のつとめ〉と意識されていたのである。村人にとって,年貢を納入する〈公〉とは別の,みずからがそこに存在し,参加してつくりあげた,村というもうひとつの〈公〉の世界が出現したのであり,後者の〈公〉こそが彼らの自由と保護を現実に保証する存在であったといえる。

 このような村請制は,ほぼ室町時代から戦国時代にかなり一般化していき,これが貫高制・石高制の基礎となったことを考えるならば,この時代を,荘園制から村町制への転換の画期として把握することも可能であろう。
鎌倉時代 →戦国時代 →中世法 →南北朝時代 →室町時代
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中世社会」の意味・わかりやすい解説

中世社会
ちゅうせいしゃかい

ヨーロッパ

ヨーロッパ中世社会像とヨーロッパ歴史像
中世社会像確立への潮流

ヨーロッパ人が中世社会をそれ独自のものと意識するようになったのは、20世紀に入ってからのことである。

 すでに18世紀においてビーコあるいはヘルダーは、啓蒙(けいもう)主義の中世無視の風潮に抗して、共感的想像力をすべての時代、すべての文明に対して及ぼすことを要請し、19世紀のランケも、少なくとも若いころには、「すべての時代は神に直結する」と、過去の時代の内在的理解を歴史家の務めとした。あるいはブルクハルトは、15、6世紀のイタリア社会を見本にとって、一つの独特の型の社会と文化を認知する試みを示した。

 けれども概して19世紀の歴史学は、歴史は近代社会ないし国家に帰結すると考える傾向をみせた。この進歩史観の前に、「近代以前」は近代前史としての意味しかもちえなかった。晩年のランケとその祖述者たち、ブルクハルトの亜流、またフランス「実証主義」史学の立場がこれであった。

 1890年代の「ランプレヒト論争」は、ランプレヒトの著述のでき・不できはともかくも、そのような近代主義的進歩史観の横行に歯止めをかける役割を担うべきはずであったが、ヨーロッパの歴史意識はいまだ目覚めの時を迎えていなかった。その薄明にあって、しかし、とりわけ美術史の分野において中世的美意識の独自性を認知する試みがなされ(ウォリンガー)、あるいはホイジンガは14、5世紀の北ヨーロッパを対象に「中世の秋」を記述し、ハスキンズは12世紀に中世文化の胎動を覚知した。ブロックはフランス農村社会に持続する中世的体質を洗い、やがて「封建社会」像を構想するに至る。

 以上は、20世紀初期の数世代においてヨーロッパ史の近代主義的見取り図を批判した人々のうち、ほんの少数の名前をあげたにすぎない。中世に近代国家を投影させたドイツの「古典理論」に対するダンネンバウアー、マイヤーなどの批判も1930、40年代に開始されている。これらの批判は中世社会についての、まさに「実証的」調査研究を伴い、ヨーロッパはヨーロッパの「近代以前」について、それまでとは比較にならないほど豊富な情報と適正な情報の読みを獲得するに至った。ここに「中世社会」像の全面的見直しは必然の事態であった。

[堀越孝一]

ヨーロッパ社会のルーツとしての中世

しかも、およそヨーロッパ的理念と体制に対する「大戦間」の世代の不安、第二次世界大戦後の世代の懐疑は、ヨーロッパ人をしてヨーロッパ史の見直しを促すものであった。ヨーロッパがヨーロッパであるのはいかなる歴史的構造に基づくか。この疑問は「中世社会」像の問題を「ヨーロッパ史」像の問題のうちに位置づけるものとなった。旧来の三大時代区分の有効性に疑問符が打たれた。ヨーロッパはいつ、いかなる状況において、一つの独特の社会として成立したか。この発生論的観点にたつとき、ヨーロッパ中世社会の歴史像は、ヨーロッパ社会の成立を占う図絵として構想されなければならないであろう。ほんの一例をあげれば、1957年にウィスコンシン大学の中世・ルネサンス研究所で催されたシンポジウムの報告書は「12世紀のヨーロッパと近代社会の基礎」(1961)と題されたのであった。

[堀越孝一]

ヨーロッパ中世社会――その成立と展開
外民族侵入の影響

ブロックはその著『封建社会』(1939、40)の冒頭に「外民族の侵入」を記述している。8世紀から10世紀にかけてバイキング、マジャールイスラム教徒と三方向から外圧を受けた内陸ヨーロッパは、たまたまこの時期がフランク王国の政治組織の分解と同調したこともあって、混乱に陥った。この混乱は社会的結合の諸形態に多大の変更をもたらし、ヨーロッパ内陸に、一つの独特の型の社会をつくる方向に作用した。

 ブロックの中世社会論はここに立論の起点を求めていて、その見取り図は現在妥当なものと考えられている。「侵入以前」のヨーロッパ社会との間に断絶はない。しかし、11世紀なかばを境に、ネウストリアアクィタニアなどとよばれたライン川の西の土地に、数個ないし十数個の村を抱えた城主領が群生した。村は、侵入以前と形態を変え、居住集落の周辺に耕地を広げる集村型である。ライン川とロアール川の間では、共同耕作による三圃(さんぽ)制酪農経営が一般であり、侵入以前に比べて鉄製農具の普及、水車動力の利用など、農業技術革新の動きが著しい。12世紀に入れば風車動力の利用も始まる。

[堀越孝一]

城主領と諸侯伯領の新展開

城主と農民の関係は防衛と生産との相互補完関係であり、慣行として形を整えていく権利・義務の関係は、やがて13世紀に入ると慣習法として成文化されることになる。それは同時に農民という身分団体の成立を意味し、そのころにはすでに騎士身分もその閉鎖的性格を強めている。騎士身分はすなわち、城主と、その家臣である一般の領主と、さらには王侯伯を名のるほどの存在をも含めた身分概念である。

 城主は、侵入以前のフランク王国の地方行政区であるパグスを分け取って城を構えた。したがって、城主のなかにはパグスの長官コメスあるいはその代官ウィカリウスに名分を借りたのもある。だが多くその実体はその土地の実権者であって、とりわけ「強いやつ」が改めてコメスすなわち伯を名のる。あるいは、これまたフランク王国カロリング王家が設定した官職ドゥカトゥスすなわち侯を名のる。

 彼ら諸侯伯が城主層を束ね、諸侯伯領を経営する。中世ヨーロッパは諸侯伯領の国際関係である。ところがすでに10世紀後半、フランクの分国諸王家の家系が絶えたのを機に、彼らは王を選挙していた。イル・ド・フランスのカペー家であり、ライン川の東のザクセン家である。王権の理念はフランク王権に、ひいてはローマ帝権に由来し、これは侵入以前の社会的結合理念の持続とみなされる。したがって「封建王政」とは矛盾した概念であり、中世ヨーロッパはこの矛盾の関係をむしろばねとして歴史を刻む。

 部族的結合の伝統の根強いライン川以東にあっても、11世紀なかばの聖職叙任権闘争以後、村―領主領(城主領)―諸侯伯領の体系を目ざす再編成の過程が進む。ザクセン家に始まる王権はローマ帝国の復活を標榜(ひょうぼう)したが、その実、諸侯伯の国際関係の現実は領邦分裂を固定せしめた。

 イングランドにおいては、フランク王国に相当するのがアングロ・サクソン王国である。そのシャイア‐ハンドレッドの地方行政区は、11世紀なかば、ノルマンディー侯家のイングランド征服とその結果としてのノルマン王家の成立以後も強固に残り、王家によって設定された領主領(マナー)、伯領(カウンティ)は既存の体制を否定するものではなく、王家はむしろそれを利用して王国支配の実をあげた。12世紀なかば、アンジュー(プランタジネット)王家の開幕以後、領主層は王権に対して一個の身分団体と自己規定し、議会をもって王権との協議機関とする。等族制の段階はイングランドにおいてもっとも早い時期に到達されたのである。

[堀越孝一]

都市の形成

等族とは身分のことであって、騎士、農民と並んで、都市住民もまた一個の身分をつくる。侵入以後、商業の復活と商人団体の定住を「中世都市」形成の原因とみるピレンヌの考えは批判の余地がある。旧ローマ都市、フランク王国のコメスないしウィカリウスの「城下町」、侵入時に修道院を核として形成された町、市(いち)の町。発生と原型は異なっても、村‐城主領の形成と大根(おおね)においては同質の力学が町の形成において働いた。侵入の経験が、ある状況において都市的環境をつくる方向に作用した。

 その後の展開がブルゲンシス(町人)という身分団体をつくった。侵入以後、貨幣流通経済の活性化が町人のうちメルカトーレス(商人)層の指導的立場を導き、諸侯伯権、さらにはこれを越えて王権がこれと交渉をもつ。これら王朝的諸権力との関係の強弱が一つの要因として働いて、北イタリアのコムーネ都市、北フランスの国王代官都市、諸侯伯権と共存したネーデルラント・フランドル諸都市、あるいは北ドイツのハンザ都市と、各地に特有の都市圏が形成される。

 他方、フランドルの毛織物など各地特産物の展開は職人層の充実を結果し、彼らのつくる職能団体(ギルド)の市政参加が、13世紀以降どこの都市圏にあっても問題になる。商人ギルド、職人ギルドの対立は、全体としてみれば町人という身分団体の閉鎖化を意味し、都市的環境のヨーロッパ的型の展開を示している。

[堀越孝一]

教会の活性化とその役割

もう一つの身分団体「教会」はどうか。キリスト教会もまた侵入以前から持続する要素である。けれども、教会は侵入以後、侵入以前の隆盛をふたたび取り戻したと考えては、事態を見誤ることになる。実情は、侵入以後、ヨーロッパ内陸にようやく信仰共同体の形成がみられたのであって、活性化の核となったのは、侵入に際し地域住民の保全を図った地方教会と修道院であった。侵入後、教区組織が整備され、村‐城主領と教区の関係が調整された。11世紀なかばは美術史でいうロマネスク教会堂建築の第一次隆盛期である。ヨーロッパ内陸社会はようやく開発の時代に入り、村人は森林沼沢を開墾して耕地を広げ、石の城を築き、石造りの教会堂を建てた。社会の全局面が共通のリズムにのっていた。

 教会人(聖職者)身分の第一の役割は信者の霊魂の救済にある。超自然的な力の観念に浸されていた中世人にとって、この役割指定は疑念の余地のないところであった。ベネディクト修道会の戒律「祈り、そして働け」のことばの順序がこれを示している。しかし「働け」もまた戒律の根本にあり、彼ら修道士は、フランク王国時代のアイルランド教会系修道士に範をとって、開墾に、農事指導に働いた。教会領、修道院領は、どこの土地にあっても領地経営の範型となった。

 教会人はまた社会福祉の担い手であった。16世紀に入り、都市の肥大化に伴う社会問題の増大は、貧民救済の「世俗化」、すなわち都市当局による肩代りを促した。ここに中世カトリック教会の社会的役割の重要な部分が滑落したのである。

 教会はまた教育と文化の機関であって、ラテン語を保守して古典の学芸を伝承し、年代記の形で歴史を記述した。王侯伯の家政の文書部局の長は13世紀末に至るまで教会人が独占した。12世紀はイスラム文化圏を介する古典の学芸摂取の時代であり、13世紀に入れば都市におけるもう一つの身分団体「大学」の形成をみる。その過程はまた、ヨーロッパ固有の思考の形成、すなわちスコラ哲学形成の過程でもあった。

[堀越孝一]

言語の定着

言語は「ラインとマースの間」を境にして北東のチュートン語圏、南西のロマンス語圏がようやく定まった。後者はケルト語に洗われたラテン語を母胎とし、北のオイル語、南のオック語に分かれ、前者の叙事詩、後者の叙情詩の制作は11世紀の末にまでさかのぼる。13世紀以降、オック語圏が分解し、ロマンス語系諸国語の形成をみる。チュートン語は南ドイツからイングランドにかけて展開し、13世紀には、侵入以前の記憶を叙事詩に成文化する。ヨーロッパ社会はようやく自前の言語で思考し、歴史を記述するまでに自意識を高めたのである。

[堀越孝一]

インド

中世社会設定に関する諸説

インド史において、どの時代を中世とよぶかは人によって違いがある。旧来は、11世紀までのヒンドゥー諸王朝時代を古代、12世紀から18世紀までのムスリム諸王朝の時代を中世とよぶ場合が多かった。しかし、近年、経済構造をメルクマールとして、中世=封建制と理解する立場が一般化してきた。この立場にたつ人々の間にも、中世の始期については諸説に分かれ、グプタ朝解体期の6世紀、ハルシャ朝崩壊後の8世紀を始期とする説などがある。これらの諸説に共通しているのは、インドにおける中世の成立を、〔1〕地方における領主的階層の成立、〔2〕諸カースト(=ジャーティのこと。いわゆるバラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラという古代インドの種姓制とは異なり、カースト=ジャーティとは現実的な人々の社会集団のことである)の形成とカースト制の完成、〔3〕それと表裏をなす村落共同体の形成、〔4〕ヒンドゥー教あるいはヒンドゥー的文化の形成、に求めることである。このように、今日ともすれば超時代的なインド社会の特徴とされるものは、ほとんどすべて、8~10世紀ごろ、いわゆる中世の成立期に姿を現すのであって、太古以来存続したというようなものではけっしてない。

[小谷汪之]

経過と特徴

こうして形成されてきたインド的中世社会は、12世紀から18世紀のムスリム諸王朝の支配期にも基本的にはそのまま存続し、さらに発展していったと考えられる。12世紀初頭、北インドに初めて成立したムスリム王朝(奴隷王朝)ののち、北インドではハルジー朝、トゥグルク朝など四王朝が続き、デリー諸王朝と称せられる。これらの王朝支配期の社会については、史料が乏しく、あまりよくわからないが、イスラム神秘主義(スーフィー)の諸派が農村部にまで進入し、イスラム教の底辺への浸透をある程度実現していったことが知られている。この時代、14世紀中ごろにはムスリム政権がデカン高原地方にも成立(バフマン朝)し、こののちデカン・ムスリム五王朝と称される王朝が成立して、南インドのビジャヤナガル王朝と抗争したが、ビジャヤナガルは16世紀初め衰退し、ムスリム権力がさらに南にまで及んだ。16世紀初めムガル帝国が成立すると、しだいに版図を拡大し、ほぼインド全域を支配した。しかし、ムガルの支配は版図の拡大の裏で弱体化し始めており、北インドにおけるシク教徒領主層の成長、ジャート人領主層の強大化、デカン地方におけるマラータ諸勢力の台頭によって足元から動揺し始めた。これらの領主層が、8~10世紀以来成立してきた領主層と直接につながるものなのか、あるいはそれらとは性格の異なるものなのか、今日の研究段階では十分明らかにすることができないが、ただ、中世成立期に形成された村落共同体の変質過程から成長してきたものであることは、ほぼ明らかとなっている。こうして、ムガルは1707年アウランゼーブの死後、急速に解体に向かうことになった。しかし、インド的中世社会を決定的に解体したのは、18世紀中ごろからのイギリスのインド植民地支配であった。

[小谷汪之]

中国

時代区分設定の意義と問題点

19世紀から世界の一体化が進むなかで、固有の伝統文化を背負う非西欧世界においても、近代化の歩調に加わることは、ほぼ普遍で不可逆の課題となりつつある。こうした内在状況が、発展の普遍史と各世界文化の独自性の交差のなかで、近現代のルーツを探り、そこに中世を設けるとすればどこまでさかのぼったらよいか、また中世社会のどのような転換が近現代との関連でだいじなのかという問題を生み出すのである。

 世界史を古代、中世、近代と3分する構想は、人類史の普遍性を見定めるうえで重要であるものの、比較の尺度には西欧世界の発展史が暗黙のモデルとされてきた。しかし、その封建制や資本主義文明の相対的で特殊な状況が自覚されてきた今日では、かりに三区分法を非西欧世界に用いるにしても、その比較の尺度は文化の個別性を意識した柔軟なものでなければならない。中国についてこうした試みはまだ緒についたばかりである。

[斯波義信]

中国の歴史的独自性

まず下限からみると、普通、中国の近代化は19世紀なかばのアヘン戦争が起点とされている。ただし19世紀の中国は、旧社会の絶頂期と破局期が並び立つ特異な状況であったから、明確な近代化の歩みは1895年の下関(しものせき)条約以後とする見解も成り立つ。こうすると初期近代の上限、さらに中世社会の始源はという問題が生ずるが、その前に文化の連続と官僚制の存在を考えておく必要がある。

 三千余年の中国史は、初期伝統の成立期であり氏族制にたつ先秦(しん)千余年の古典期ないし都市国家期と、秦・漢~清(しん)二千余年の官僚的中華帝国期とに二大分するのが自然である。その指標は国家形成原理の特異性にあり、中国が早熟的に巨大人口規模と高度の生産力・生産量、経済・軍事・組織の技術、そして巨大空間の政治単位を達成し、二千年の官僚政治の帝国を持続したことは、比較史上の特例なのである。この種の官僚制は前近代世界では古代エジプトと並ぶ異例であり、帝国は東西ローマより長命であった。また文化主義というべき中華的世界観に裏づけられた一元支配の構造も、教会と国家の二元社会が法の下に均衡する西欧とは異質であり、西欧的経験の所産である国民国家も中国にはなじまない存在であった。

[斯波義信]

中国史における歴史的転期

さて文化の早熟、連続、独自性を前提としたうえでなら、中国の社会経済体制、国家組織、技術関連の相関において、発展と進化の転期を画することは可能である。古典期を除けば中華帝国期は初期(秦・漢~唐)、中期(唐末~明(みん)末)、晩期(明末~清末)に3分できる。この際、普通、帝国の大分水嶺(ぶんすいれい)的転換期とされる唐・宋(そう)変革期(9~13世紀)が、中世革命期、中世的転換期となる。

 まず国家の形成原理からみると、効率的な行政組織の始原は秦・漢にあるが、内容が進化を遂げ、官吏登用法(科挙(かきょ))が確立し、新人登用、昇進、行政監察、職務の系列化(三省六部(りくぶ))、文治が徹底して独裁機構がなり、ことに科挙を通じて教養、富、才能による競合的才能主義が社会の普遍価値として定着し、社会は統合と安定を強化した。こうして六朝(りくちょう)以来の門閥貴族、武人の専権が一掃され、新興の地主、富商、その母胎の地方エリート(郷紳(きょうしん))が支配層に登場し、政治の社会支持層が広くかつ流動的となった。両税法(唐末~明末)はこの拡大に対応し、政府の世俗勢力(地主、富商)に対する統制が柔軟化するとともに、貨幣経済が国の財政基盤を拡大強化し、膨大な常備軍、官僚集団が生まれ、交通、産業開発、教育文化の施設も拡充し、社会に安定と活力を与えた。一方、社会の都市化と自律化も進化した。宋以後の社会では、都鄙(とひ)の分化や相補・相克関係がはっきりしてきた。県城の総数は人口増=生産増に相関せず不変であったが、地方農村に鎮(ちん)(町)や市場地が無数に発生し、日常の交換でつくられる村々と市場からなる小社会経済空間ブロックが細胞状に広がり、鎮を介し、さらに県を介して都市間経済の網の目に組み込まれ、社会は自給性を脱して分化した有機的、流動的な状況を呈し、ギルド、結社が育ち、地域的、社会経済的な自律の組織が発達した。民衆は徴税、治安、教化、科挙については国の一元支配の下にたったが、社会経済生活では前述の市場ブロック、結社、ギルド、郷紳、郷族(きょうぞく)の下で自律の幅を広げた。

 こうした活力と安定は、生産、技術、商業、交通の発達、人口増、都市民衆文化(小説、戯曲など)を導き、元・清という異民族の支配下でも一貫した社会の成長を許した。この状況は、原基工業化期の西欧に数世紀は先行する社会の充実を示している。しかし社会の高度に進んだ分化は、巨大な人口圧を吸収して保守的惰性を生み、一見して一枚岩にみえる行政、経済は、前近代交通の隘路(あいろ)に妨げられて実質的統合を欠いていた。半自給的市場ブロックが清末・民国まで生き続ける一方、着実に増加する人口に対し、行政枠組みと組織は依然旧規模を保守し続けた。

 人口規模とともに漸増する社会経済の発達が、行政の惰性とのずれを露呈し始めるのは明末である。科挙の社会統合・周流作用はまだ働いていたが、膨れた地方エリート層に供給できる官職は限られ、銀の大量流入による商業の躍進は都鄙の相克、富の分配の不均衡を生み、局地的、散発的に発生した資本主義萌芽(ほうが)の状況は流産した。この期になお人口増が続いたのは、生産技術の開発よりはむしろ辺地拓殖のゆえであり、しかも開発効率の期待できる未開地はますます乏しくなった。

 明末清初はこうした新しい芽が生じつつも、国家組織の惰性の下で流産を繰り返す状況がみられ、初期近代へ向けての過渡を示している。

 こうした見方とは別に、中国学界では近代・前近代を二分し、宋以後を後期封建社会とする区分法などがあり、日本でも宋以後を中世農奴制とする説、あるいは近世社会とみ、五胡(ごこ)十六国から隋(ずい)・唐を門閥貴族中心の中世社会とみる説がある。西欧の中国学でも宋以後を初期近代とみる説もあるが、多くは中華帝国中期とし、以上の説明に近い見方をとっている。

[斯波義信]

日本

「日本中世」という概念

日本でも歴史を「古代(上代)」「中世」「近代(近世)」などに分ける、いわゆる三区分法的呼称は古くから行われていたが、現在歴史学で用いられている「中世」という概念は、明治以後の近代歴史学の発達のなかで成立したものである。それは一般的には、源頼朝(よりとも)の武家政治開始のころから、織田・豊臣(とよとみ)の全国統一政権の出現以前までの期間であり、政権所在地を指標とする時代名称でいえば鎌倉・南北朝・室町・戦国の諸時代、西暦では1180年代から1560年代までの約400年間をさす。しかし、武士の活動が社会的に顕著になった平安後期(院政期)を中世の初期または成立期とみたり、戦国時代を「近世」に傾いた時期として扱うことも多い。

 このような時代区分観は、一つには、古代(上代)はおおむね公家(くげ)(天皇・貴族)が政治権力を掌握していたのに対し、中ごろに武士の政権が現れ、明治以後はまた天皇中心の政治体制に復した、とみた明治期の知識人の歴史観に基づいており、もう一つには、西欧の歴史における古代・中世・近代の三段階に日本の歴史をなぞらえる見方に基づいていた。ただし、庶民の経済・文化が発展した江戸時代は、明治にとっては同時代に近いので、「近世」とみなされたのである。日本史学史上、日本史に「中世」の概念を確立した最初は、原勝郎(かつろう)『日本中世史』(1906)といわれ、江戸時代を「近世」とする見方は、内田銀蔵『日本近世史』(1903)にみられる。こうして日本の中世は、一般に武家政治、封建制の時代であり、荘園(しょうえん)制の社会と理解されているが、実際には貴族や寺社の勢力も政治上・社会上軽視できないものがある。また社会の体制や生活形態も段階的に変化したので、鎌倉末期ごろまでを中世前期、以後を中世後期と区分することが多い。

[黒田俊雄]

農民経営の性格と農村

中世社会を支える生産活動の基本的なものは農業であったが、なかでも米作が重視されていた。農民には、数町歩の耕地を保有して比較的大規模な経営をもつ者も、数段歩をあてがわれているだけの小経営農民も、さらには有力農の保有地や村堂の付属地を下請けするだけの不安定な農民もあったが、畿内(きない)などの先進地域では、中世初期には小経営農民の自立がかなり広くみられた。そういうところでは、公家・寺社などの荘園領主が、雑掌(ざっしょう)などの荘官を荘園現地に派遣して、耕地や営農料の割当てをする「勧農(かんのう)」にあたらせるとともに、有力農民を名主(みょうしゅ)にして耕地と農民をいくつかの「名」に編成し、年貢や公事(くじ)などの賦課・減免にあたらせていた。また、中央から比較的遠く、地方豪族や武士の勢力の強い東国・九州などの後進地域では、農民の自立が弱く、農民は一定規格の屋敷・田畠(でんばた)とともに「在家(ざいけ)」として地頭(じとう)などの在地領主に人格的に隷属し、自分にあてがわれた田畠の耕作だけでなく、領主直営地の耕作や家内労働、建設・運搬などの雑役にも駆使された。農民の自立性は地域によってかなり格差があったが、先進地域では中世中期(14世紀)には小農民層がさらに広範に成立し、貨幣経済も浸透して、名主層を中心に村落結合も進み、荘園領主や守護勢力への抵抗もみられた。また地頭などの在地領主の強い支配の下にあった辺境でも、領主や代官の館(やかた)を中心に村落の秩序があった。だが村落の区域は、荘園や在地領主の所領とはかならずしも一致せず、村はいつでも農業経営と農民生活のよりどころを意味していた。ただし、このような農民のほかに、定住して保有地をもつことのない、浮浪的な弱小農民もかなりあったとみられ、また農耕民のほかに山林・河海で種々の生業を営む漂泊的な非農業民も各地にみられた。

[黒田俊雄]

都市および交通路

中世の都市は、荘園制社会を基盤に、まず権門体制下の都市として発達し、やがて各地の港湾・宿駅・城郭を中心として商工都市が発展していった。京都は律令(りつりょう)体制下の帝都から、11世紀を境に権門体制の王都として新しく発展した。弁官(べんかん)局・蔵人(くろうど)所・検非違使(けびいし)庁その他の官衙(かんが)とその付属の厨町(くりやまち)、内裏(だいり)や権門貴族の殿舎、その家司(けいし)・舎人(とねり)・雑仕(ぞうし)などの執務所・厨房・細工所・宿衛所・倉庫が建ち並び、これに付随して文筆・工芸・祈祷(きとう)・音曲などの芸能者、商人、雑芸民などが街区に住み、市場・見世棚(みせだな)も現れた。東・北の郊外には権門の御願寺・菩提(ぼだい)所はじめ今宮・北野・祇園(ぎおん)その他の寺社が建ち並んでいた。このような権門の都市としての基本的特色は、興福寺・東大寺を中心とした奈良および幕府の館・邸のあった鎌倉にもみられた。

 地方では、諸国の国府で国衙が在地武士勢力によって維持されるようになり、さらに大工・織工・仏師・図師など高級技術者や職人が住み、市場が発達したりして、中世都市に変貌(へんぼう)していた。また、京都から地方に延びる大路や河川・海上などの交通・運輸の道も、一種の都市的空間で、その要所には宿(しゅく)・泊(とまり)・津(つ)が発達し、問丸(といまる)が栄えた。中世末には、城下町・寺内(じない)町・門前町も新たに出現した。これらの都市は、農村が個別領主の各種所領または村落共同体の領域としてその強力な統制下にあったのに対し、いわば国家公権のもとに雑多な階層が比較的自由に居住し往来する地域であった。そして中世後期には、商工業者を主とする都市共同体が成立して、自治都市的傾向の著しいところも各所にみられた。

[黒田俊雄]

家族および社会集団

中世社会で安定的な生活のよりどころとなっていたのは「いえ」――家族的結合と住屋(城館)と家産――であった。「いえ」の主体である家族には、時代・地域・階層により種々の形態がみられた。すなわち、下人(げにん)・所従(しょじゅう)などの隷従者や親類・扶養人などを含む大家族的なものから、夫婦と子供だけの単婚小家族まで、多様であった。しかしこのほかにも、安定した「いえ」とはいえない小屋住みまたは半浮浪の、父子・母子・やもめなど不完全な家族や独住者も少なからずあった。「いえ」または個人は、通常なんらかの社会集団(団体)に所属していた。社会集団は一般的には「衆(しゅう)」「輩(ともがら)」「党(とう)」などとよばれ、とくに盟約し結束して行動する集団は「一揆(いっき)」といわれた。集団のうち一つの「いえ」ないし血縁関係を基本にしたものを「族(やから)」「氏」「一門」などといい、家長である惣領(そうりょう)に率いられていた。とくに顕貴の公家・武家などの政治的、社会的に大きな勢力をもつ集団は「権門」とよばれた。また農民の「いえ」の集まりである「村」も、独自の社会集団であった。商工業や芸能に携わる人々もそれぞれ集団をつくっていたが、これらは一般に兄部(このこうべ)・長吏(ちょうり)などに率いられて「座」を結成していた。さらに、「いえ」や世俗の集団から離れて出家した僧侶(そうりょ)も、大寺社をはじめとする「大衆(だいしゅ)」の諸組織および本末関係で結ばれ、巨大な権門的集団を構成していた。そしてその内部には、公的な寺院統制機構だけでなく、種々の職掌や権利や信仰によって組織されたいくつもの「衆」「方(かた)」とよばれる集団があり、その集団内部にも普通、﨟次(ろうじ)(出家後の年数)により個々人の地位に序列があった。また別に師弟・被護・血縁などによる「門流」「門徒」といわれる私的な集団もあった。神社の社司・祠官(しかん)の集団には、世俗の「族」「氏」に近いものも多かった。このように、すべて人々の生活が集団への所属によって保証される社会であったので、世を捨てた聖(ひじり)たちも山間の「別所(べっしょ)」に集団生活をし、乞食(こじき)・非人も「坂(さか)」「宿(しゅく)」「散所(さんじょ)」などに座的な集団をつくっていることが多かった。

[黒田俊雄]

支配体制と身分

中世社会は各種の支配と集団関係から複雑に成り立っていたが、総体的にみれば、その根幹になっていたのは、王家(天皇家)、摂関家をはじめとする顕貴の公家、南都北嶺(ほくれい)をはじめとする大寺社、武家すなわち幕府など、もろもろの権門の支配体制であった。権門はその伝統的権威と慣例と社会的実力とによって、それぞれに公的な職能的権限を分掌し、広大な荘園・公領の諸「職(しき)」を領有し、その勢力下に中下級貴族・在地領主および百姓以下勤労人民を組織していた。

 中世社会では、国家の法によって身分が統一的に制定されたことはなかったが、この権門支配の秩序に応じて身分の序列・階層が慣習的に成立していた。鎌倉幕府法には「侍―百姓―下人」の身分的区別(階層)がみられるが、公家・武家・寺社を通じてみれば、(1)貴種、(2)司・侍、(3)平民(百姓)、(4)下人、(5)非人、が基本的な身分階層であった。このうち(1)(2)が封建的領主階級である支配階層を形成し、(5)は基本的には社会秩序からの脱落者・被疎外者とみなされていた。

 このような中世的な身分秩序は、戦国時代になると荘園体制の崩壊によってなによりも貴種が没落したため、部分的な慣習や名目的な呼称に近いものになり、ついで織豊(しょくほう)政権の登場によって近世的な身分構成に移行し始めるのである。

[黒田俊雄]

『堀米庸三・堀越孝一著『ヨーロッパ世界の成立』(1977・講談社)』『今野國雄著『西洋中世世界の発展』(1979・岩波書店)』『マルク・ブロック著、新村猛監訳『封建社会1・2』(1973、76・みすず書房)』『山崎利男著『インドにおける中世世界の成立』(『中世史講座1 中世世界の成立』所収・1982・学生社)』『『世界の歴史24 変貌のインド亜大陸』荒松雄・小谷汪之執筆分(1978・講談社)』『E. Reischauer, J. Fairbank & A. Cr A. CraigEast Asia, Tradition and Transformation (1973, George Allen and Unwin Ltd., London)』『M. ElvinThe Pattern of the Chinese Past (1973, Eyre Methuen, London & Stanford University Press, Stanford)』『堀敏一著『中国における中世世界の成立』(『中世史講座1 中世世界の成立』所収・1982・学生社)』『黒田俊雄著『荘園制社会』(『体系日本歴史2』1967・日本評論社)』『黒田俊雄著『寺社勢力――もう一つの中世社会』(岩波新書)』『永原慶二著『日本中世の社会と国家』(1982・日本放送出版協会)』『大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』『網野善彦著『無縁・公界・楽』(1978・平凡社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中世社会」の意味・わかりやすい解説

中世社会
ちゅうせいしゃかい
Medieval society

歴史的にみて古代社会と近代社会の中間に位置する段階の社会。ヨーロッパ中世は西ローマ帝国崩壊後,5~6世紀のゲルマン民族大移動ののち,ゲルマン諸部族の国家形成の時点,ことにフランク国家の形成期から始り,百年戦争の終結とビザンチン帝国滅亡 (1453) の時点にいたるまでの歴史的段階を占める社会を意味する。この社会では 11世紀以降封建国家が形成され農奴制に基づく封建的生産様式が社会の基礎をなした。東アジアでは古代社会と中世社会の歴史的画期を明瞭にしがたく,そのため3世紀の三国時代から 10世紀の唐末あるいは 16世紀の明末までを中世とする考え方と,唐朝滅亡後,五代十国時代から宋・元朝を経て,元・明時代までを中国史上の中世社会とする考え方がある。インドでは奴隷王朝 (1206~90) に始るイスラム諸王朝の登場からムガル帝国成立 (1526) までの時期にこれを指定できよう。西アジアでは,ムハンマドを中心としたイスラム勢力の勃興した時期から,ヨーロッパ資本主義勢力の西アジア進出と,それに対抗して,西アジア諸国の側で展開されたいわゆる「近代化」の時期にいたるまでの時代をさす。この時代の社会構造の中心をなしたのは広い意味でのイクター制であった。

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