改訂新版 世界大百科事典 「中世社会」の意味・わかりやすい解説
中世社会 (ちゅうせいしゃかい)
時代区分と特質
日本の近代史学史のなかで,中世という時代区分が定着したのは,西欧の封建制と日本の鎌倉・室町・戦国時代の社会との酷似を見いだした原勝郎,福田徳三,中田薫らによってであり,そこで中世は,近世と規定された江戸時代とは異なる一個の時代としてとらえられたのである。この見方は第2次大戦後,封建制を農奴に対する領主の支配(農奴制,領主制)に基礎をおく社会とする石母田正らのマルクス主義史家に継承された。やがてそのなかから江戸時代をも農奴制に基づく社会とみなすことによって,中世・近世をあわせて封建社会=中世社会とし,中世をその前期,近世を後期とに区分しつつも全体として領主制の形成から崩壊までの過程を考えようとする永原慶二らの見解が生まれた。一方,中世と近世との差異を本質的とみて,中世を家父長的奴隷制社会,近世を農奴制社会とする安良城(あらき)盛昭の説も現れた。こうした安良城による中世社会の規定については異論も多いが,中世を近世社会と区別された独自な社会とする見方は最近では広く認められるようになっている。
これに対し,天皇による全人民の支配を理想とする立場から,武家の支配する中世を否定的にとらえる見方は幕末・明治初年以来存在したが,1930年代以後,とくに平泉澄(きよし)らによって主唱され,敗戦まで世を風靡(ふうび)した。天皇の政治的実権がまったく失われる契機となった南北朝内乱は,この観点から時代を区分する画期として注目された。他方,西田直二郎の提唱した文化史学の潮流のなかで,中村直勝は文化・思想・経済の大きな転換期としてこの動乱をとらえ,やや異なった観点に立って先の立場を押し出した。この中村の見方は〈転向〉後の清水三男によって受けつがれ,清水は領主の私的な支配下におかれない百姓とその村落に目を注ぎ,中世社会の公的な側面を明らかにしようと試みたのである。
敗戦後,マルクス主義史家のなかで石母田に対してやや批判的立場に立つ松本新八郎は,平泉らとまったく逆の立場から南北朝の動乱を古代と中世とを分かつ画期ととらえ,永原もその見方の影響をうけている。しかしこの時期には石母田に代表される領主制説に基づく中世社会論が支配的であったが,1950年代後半以降,これに対する反省・批判が表面化するとともに,清水の説が新たに再評価されはじめる。公家(くげ),寺家(じけ),社家(しやけ),武家(ぶけ)など,相互補完関係に立つ諸権門による農民(百姓)の支配に,中世社会の基本的な支配関係を見いだす黒田俊雄をはじめとして,大田文(おおたぶみ)に登録された公田(こうでん)を重視し,領主の私的隷属下におかれた下人(げにん)と異なる平民百姓を〈自由民〉と規定,領主に対する百姓の抵抗を評価する説が台頭してきた。石井進はこれを領主制説に対する反領主制説としているが,この2潮流は相互に交錯しつつも,二つの中世社会論として現在にいたっている。
このうち領主制説が東国の実態に比重をおき,武家政権中心にその説をたて,分権的・多元的にこの社会をとらえるのに対し,反領主制説は西国(さいごく)の状況に立脚して朝廷,大寺社に焦点を合わせ,この社会の集権的・集中的な側面に注目する。前者の立場からは東国国家,東国政権の存在を主張し,鎌倉幕府,江戸幕府の成立にそれぞれ中世,近世の起点を求める見方がでてくるが,南北朝の動乱の社会的・政治的意義を重視し,室町幕府の確立に封建国家成立の重要な画期を見いだす見解は,どちらかといえば後者の説に親近性をもつといえよう。
ここでは北海道,沖縄を除き,荘園公領制という一応共通した土地制度の上に立ち,後期には村・町制に移行しはじめる社会を中世社会ととらえ,院政期から江戸初期までを視野に入れて,社会体制,社会的諸関係,諸集団などについて概説する。
被支配者の諸身分
中世社会における被支配者の身分は,大きく自由民と不自由民とに区分され,自由民はさらに平民(平民百姓)と職人とに分けることができる。不自由民は主の意志によって売買・質入れされ,譲与の対象となった下人であり,これを奴隷とみるか,農奴とみるか,議論が分かれているが,奴隷と見るほうが自然であろう。
平民は人口の最も多くの部分を占めており,荘園・公領の支配者に対して年貢,公事(くじ),夫役(ぶやく)を負担した。平民のなかには,屋敷をもち,荘園・公領の田畠を名(みよう)として請け負うほどの平民上層(本百姓,本在家(ほんざいけ)(在家))と,姻戚関係を含む血縁をおもな紐帯(ちゆうたい)としてそれと結びついた小共同体をなす平民下層(小百姓,脇在家(わきざいけ))の階層があり,平民上層を中心に,荘園・公領を単位とし,在地の神社などを支柱とする共同体をなしていた。あとから移住してきた人は間人(亡土)(もうと)とよばれ,共同体の成員とは認められなかった。
平民の家族形態は明らかではないが,生活の単位は親子を中心とする小家族で,平民上層は下人を若干所有する場合もあった。田畠の耕作や名田畠の請負は,通常男性の名で行われたが,南北朝期までは少ないながら女性の名主(みようしゆ)の事例も西国には存在し,女性による田畠の売買も行われ,男女の権利の差はさほど大きくなかったと思われる。15歳以下は共同体の成員権のない童(わらべ)で,男子の場合,烏帽子(えぼし)をつける成人式(元服)後に成員として認められた。しかし童は逆に共同体のさまざまな縁から自由で,神に近い存在とみられていた。60~70歳をこえた老人,翁(おきな)もこれに近く,古老として重んぜられた。ただこうした年齢による階梯が重視されたのは西国のことで,東国の実情は十分明らかにし難い。
年貢と公事
荘園・公領の年貢・公事賦課の単位となった水田は,検注によって確定された定田(じようでん),大田文に登録された田地が公田といわれたように,祭りや行事などにもかかわる公的・共同体的な性格が強く,平民の日常生活は畠,あるいは焼畑などに依存するところが大であり,山野河海における漁猟・採集も無視し難い比重をもっていた。また絹,糸や油などの生産,海辺での製塩,山地での木器・紙の生産,さらに製鉄も平民によって行われた。年貢は基本的に田地を単位として賦課されたが,平民は下行(げぎよう)された米をこうした特産物と交易するかたちで貢納を行うことが多かった。それゆえ,米年貢は畿内,瀬戸内海地域,九州,北陸などの西国に見いだされるが,そこでもけっして一般的ではなく,東国の年貢は絹,綿,布のような繊維製品が圧倒的だったのである。しかし平民自身の生活のなかでは,布,小袖,帷子(かたびら)などは,鍬,犂(すき),手斧(ちような),鉞(まさかり)や鍋,金輪などの鉄製品,弓や刀などの武器とともにたいせつな財産であった。平民の負担にはそのほかに,年中行事の費用,荘園・公領の支配者の代官や使などの饗応,三日厨(みつかくりや),その送迎の人夫,佃(つくだ)の耕作などの公事・夫役があったが,地頭,下司(げし)や預所(あずかりどころ)などの領主,その代官も,農事の開始に当たっての種子や農料の下行,出挙米(すいこまい)や利銭の貸与,行事のさいの酒などの給付を当然のこととして行わなくてはならなかった。
これらの年貢・公事などは,平民にとって公への奉仕と意識されていた。鎌倉後期以降,荘園・公領の支配者が公方(くぼう),年貢・公事が公平(くびよう)といわれた理由はそこにある。それは同時に共同体成員すなわち自由民としての義務とうけとられていたので,これを果たしていれば平民の移動の自由は保証されたが,種子・農料の下行や出挙をうけながら,年貢・公事を未進(みしん)することは,自分自身あるいは子供を身代(みのしろ)として贖(あがな)わなくてはならない罪であった。中世社会にはこのような未進,それに伴う借銭によって下人に身を落とす人々が多く,なかには共同体から離脱・逃散(ちようさん)して浮浪するものも少なくなかったのである。
しかも田畠はまだ荒れやすく,川成(かわなり)・不作として休耕しなくてはならないこともしばしばで,畿内とその周辺などでは田畠の年貢部分をこえる得分(とくぶん),加地子(かじし)の得分や耕作権が売買の対象になっているが,全般的には不安定な田畠に対する平民の権利は弱体であった。それゆえ,天災はたちまち寛喜(1229-32)や正嘉(1257-59)のような大飢饉をよびおこし,多くの人々が餓死し,浮浪人となった。
非法と逃散
これに加えて,平安末期には勅事(ちよくじ),院事(いんじ)などの臨時雑役(りんじぞうやく)が頻々と賦課され,官使,国使らによる追求はきびしく,鎌倉幕府成立後,とくに承久の乱(1221)後の西国では,地頭に補任(ぶにん)された東国御家人の乱妨(らんぼう)・非法も著しいものがあった。当時の社会では盗み,放火,殺人が大犯(だいぼん)としてきびしく罰せられたが,地頭はこうした慣習を逆手にとって,わずかな盗犯などに対しても多額の科料(かりよう)を課した。また神に起請(きしよう)するさい祭物をささげる習俗を利用し,訴訟にさいして起請を要求,祭物を徴収し,さらにわずかな未進でもきびしく追求,それらを弁償できないと直ちに身代をとり,たまらず逃散する平民の家内を追捕(ついぶ)し,妻子を質にとった。これは地頭が郡・郷の首長の側面をもち,家父長的な同族関係が発達していた東国社会のあり方と,平民上層を中心とする横の連帯,自治の発達した西国社会との矛盾・摩擦の顕現ともみることができる。
こうした地頭などの非法に対し,平民たちは〈権門勢家(けんもんせいか)領〉〈神社仏寺領〉などといわれ,不入の特権をもつ荘園に逃散することも多かった。とくに天皇家・摂関家領,仏神領はアジールとしての機能をもっており,下人がそこに逃亡することもしばしばあったのである。また,平民上層(名主)たちを中心に荘園・公領の支配者を通じて幕府に訴訟をおこし,地頭の非法を糾弾することも行われた。これに対して,幕府も〈撫民〉の姿勢をもって平民にのぞむことを地頭に求め,非法を行った地頭代を罷免した。
鎌倉後期になると,平民たちは天災による損免や地頭・代官の非法を理由に,荘園・公領の支配者に減免を要求,公然と未進するようになる。年貢・公事は〈公平〉でなくてはならなかったのであり,限度をこえた負担を平民たちは積極的に拒否したのである。さらに南北朝時代にかけて,上層・下層のすべての平民たちが〈惣百姓〉〈惣荘〉の名において,一味同心(いちみどうしん)・一揆を結び,代官の罷免を要求して逃散することも広く見られるようになってくる。逃散は古くから,〈山林に交じる〉といわれたが,聖地でありアジールであった山林に,平民たちは実際にこもり,また室町時代には柿帷(かきかたびら)や蓑笠をつけて乞食の姿をし,世俗の縁から切れたことをみずからの衣装で示すことも行ったとみられる。この動きの背景には,田畠に対する平民の権利の強化・安定があったのであり,しだいに動揺・形骸化する荘園公領制のもとに,新たな自治的な村落が成長してくるのである。
このような平民に対し,みずからの身につけた職能を通じて,天皇家,摂関家,仏神と結びつき,供御人(くごにん),殿下細工,寄人(よりうど),神人(じにん)などの称号を与えられて奉仕するかわりに,平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか,交通上の特権などを保証され,その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられることもあった職能民を,ここでは職人と規定しておく。
遍歴する非農業民
中世社会には農業以外の生業に主として携わる非農業民(原始・古代以来の海民,山民,芸能民,呪術的宗教者,それに商工民など)が少なからず生活していた。これらの人々のなかには平民として非水田的な年貢を貢納する人々もあったが,その一部を品部(しなべ)・雑戸(ざつこ)として組織していた律令制の解体とともに,それぞれの職能に即して自立した集団をなし,もっぱらみずからの職能に依存しつつ,交易などによって生活する非農業民集団も少なくなかったのである。そのなかには鍛冶,番匠などのように,建築などの仕事場を求めて働く人々もあったが,広狭の差はあれ,遍歴して交易に従事する人々が大部分であったといってよい。
こうした遍歴する非農業民は津(つ),泊(とまり)などに本拠をおき,平民の共同体,荘園・公領の範囲をこえた〈無主〉の場,山野河海,河原,中州,境,道,市(いち),宿(しゆく)などをその活動の場としていた。そうした〈無主〉の場,交通路に対する支配権は,鎌倉幕府成立までは究極的に天皇,幕府成立後は西国では天皇,東国では将軍が掌握しており,遍歴民は中世に入ると各地の渡し(わたし),津,泊などに立てられた関を自由に通行するための保証を天皇・将軍に求めたのである。それとともに,平民と区別された遍歴する職能民としてのみずからの立場を鮮明にするためにも,これらの人々は先のように天皇家,摂関家,仏神と結びつくことを必要とした。それは天皇家領,摂関家領,仏神領がアジールの機能をもったのと同様の意味をもち,みずからを天皇に直属,あるいは〈寺奴〉〈神奴〉とすることによって,遍歴民は世俗の縁から切れた〈聖〉なる存在であることを社会に認めさせようとしたのである。その背景には,日本の社会にきわめて古くからの習俗として存在した,漂泊する〈異人〉〈まれびと〉に対する平民の畏敬があったとみることもできよう。まだ十分に解明されていないが,神人が黄衣を着用し,狩人が蓑帽子をかぶったように,遍歴民はその衣装においても平民と異なる姿をしていたと思われる。
身分の確定
院政期以降,職能民を組織しようと競合する諸権門,権門との結びつきを求めて流動する職能民の相互の動きのなかで,供御人交名(きようみよう),神人交名などによって,職人の身分は確定する。これらの人々は自然発生的な共同体を基盤としつつ,それぞれの職能神などを中心とした職能的な共同体をなしていた。西国において,それは平民の共同体にもみられた老若(ろうにやく),﨟次(ろうじ)の秩序をより明確にもつ座的な性格をもち,供御人・神人(職人)の正員と認められたのは老衆で,正員には若干の脇住が属していたが,職人の制度的な整備とともに,灯炉供御人の称号をもつ鋳物師(いもじ)のような全国的な大組織をはじめ,国ごとの組織もみられるようになった。職能は西国では世襲的な傾向が顕著であったが,男系だけでなく,職能によっては桂女(かつらめ)のように女系の母子相承の場合もあり,生魚商人や綿商人のように女性の遍歴民(職人)も広くみられたのである。そしてこうした女性も特有の被り物(かぶりもの)によって,平民の女性からみずからを区別していた。
遊女,白拍子(しらびようし),傀儡(くぐつ)なども基本的には同様で,そのなかには正式の職人として認められた人々もあったのである。鍛冶,番匠,檜物師などと同様に荘園・公領に給免田を与えられた傀儡の存在や,遊女・白拍子は〈公庭〉に属する人といわれている点などによって,それは明らかである。また,病や罪,死や血に触れるなど,さまざまな理由による穢(けがれ)のために,平民の共同体から排除・差別された非人・河原者(かわらもの)の場合にも,清目(きよめ)をその職能とする寄人・神人の集団があり,やはり公的に職人と認められていた。さらに異国人(唐人)の商工民についてもまったく同様であった。
一方,鎌倉時代以後は領主として支配者の立場に立った西国の御家人,非御家人など,のちに国人(こくじん)といわれた人々の場合も,御家人交名によってその地位を確定され,荘園・公領に給免田を保証されて下司,公文(くもん),田所(たどころ)などの特定の職掌をもつ荘官となっている点で,職人に近似しており,〈職人〉の言葉も本来はこの人々をさす語であった。実際,西国御家人のなかには商工民集団の統轄者や神人を兼ねた人もありえたのである。
以上述べた職人のあり方は西国の実態に即したことであるが,もちろん東国においても〈道々の輩〉といわれた職能民もおり,将軍家細工所の寄人などの職人のいたことは確認しうる。しかし座的な組織は鎌倉など,ごく一部にみられるのみで,東国の職能民の組織のあり方は西国とはかなり異なるものがあったと思われる。また広大な郡を請け負って所領とし,多くの従者を従えた東国御家人も,もとより職人とは異質であり,逆に職人としての非人も,やはり鎌倉を除くとほとんど確認されていない。このように,東国の職人の実態には不明な点が多く,その解明は今後の課題である。
全体としてみると,中世前期の職人は鋳物師が布,絹,穀類を,唐人,傀儡が櫛などを交易したように,また多少とも給免田畠に依存するところがあったように,職能がなお未分化であった。しかし南北朝期以降,商人,手工業者,芸能民,さらにそのそれぞれの職能の分化が進み,一方では商人を別として,多くの職人は本拠地の津,泊,渡などに〈屋〉を構えて集住,あるいは河原・中州などに立つ市・宿に定着し,遍歴の範囲を狭めていった。こうして,元来アジール的な性格をもつそのような場に,みずからを公界(くがい)と称する自治体,会合衆(えごうしゆう)などに指導される自治的な町(都市)が成長していくのである。
平民,職人と異なり,特定の主の私的な保護・隷属の下におかれ,売買・譲与された不自由民(下人あるいは所従(しよじゆう))が社会のなかでどの程度の比重を占めていたかは明らかでない。しかし未進による債務の身代として,また飢饉により,さらになんらかの罪を犯し,それを償いえずに,下人に身を落とす人はかなりの数に及んだものと思われる。こうしたとき,平民はみずからの自由の放棄を明らかにした曳文(引文),いましめ状を書いたのである。公家,武家はともに人身売買を禁じていたが,寛喜の飢饉のさい,幕府が一時的にせよそれを認めたことから,餓死の危険,飢饉を理由に,やむをえぬこととして人身の売買を公然と行うのがふつうになり,こうした広範な下人の存在が中世社会のあり方の一面を規定していたことはまちがいない。
もとより下人の境遇は,《山椒大夫》の安寿・厨子王の運命に象徴されるように過酷なものがあったが,一方には捨子や身寄りのないものを養い保護する慣習もあり,下人の実態は,永続的ではないとしても家族をもち,主から給与された田畠を耕作するなど,平民とさほど異ならないところもあったのである。また下人はしばしば,前述した仏神領などや,戦国期に〈無縁所〉〈公界寺〉などといわれた寺院をはじめ,市・町などのアジールに逃亡し,主を変えることもあった。主は曳文に,いかなる場においてもその身を捕らえうるという担保文言(もんごん)を書かせ,南北朝期になると,領主たちは相互に契約を結び,逃亡した下人の相互返還(人返し)を行うなど,下人の掌握につとめている。
このように下人を集積したのは,荘園・公領の支配者ではなく,年貢・公事の徴収を請け負い,検断権をもつ在地の領主であり,西国でも安芸の田所氏が100人以上の下人をもっていたような例はあるが,相対的に東国あるいは南九州の領主のほうが,下人の所有においては卓越していたと推定される。近世初頭にいたるまで,この地域ではなお多くの下人を所有する土豪の存在を確認することができるのである。
自立的な諸地域
以上のように,下人だけでなく,平民・職人のあり方まで含めて,東国と西国ではその社会のあり方にかなりの相違があった。婚姻形態についても,西国では婿入婚(一時的訪婚)が行われたのに対し,東国では早くから嫁入婚ではなかったか,といわれている。こうした相違は支配者の秩序においても顕著であり,職能の世襲される傾向の強かった西国では,さまざまなレベルの職掌を世襲的に請け負う〈職(しき)の重層的体系〉が諸権門による荘園・公領の支配体制として顕著な発達をみせたのに対し,東国においては職はきわめて単純でほとんど発達せず,むしろ惣領制的な一族関係を基礎とする主従制を支柱として,荘園・公領が維持されたのである。日本列島の主要部に,境相論(さかいそうろん)の裁定権,交通路の支配権などの統治権を分割した,鎌倉幕府(東国国家)と,王朝国家(西国国家)の二つの国家があったことを主張する説は,こうした事実を前提としている。そして東国の中では東北,西国のなかでは九州が,それぞれ自立した政治権力を成長させうるだけの伝統と基盤とをもっていた。中世の政治過程のなかで,後白河法皇が奥州藤原氏と結び,源頼朝は九州を押さえてこれと対抗するとか,後醍醐天皇が東北に陸奥将軍府をおいたのに対し,鎌倉の足利尊氏・直義が九州の軍事指揮権を掌握するなど,東北と畿内に対する関東と九州という対立の構図がしばしばみられるのは,これらの地域が独自な政治勢力であったことを前提にしなくては理解し難い。
北陸も古くからそうした条件を潜在させていたが,南北朝期以降,甲信,東海,中国,四国などの地域も,それぞれに独自な政治勢力をもつ地域として,しだいにその姿を現してくる。そして15世紀に入れば,沖縄には琉球国が成立し,北海道にも〈夷千島王〉を自称して,朝鮮に遣使するような政治勢力が形成されつつあったのである。
中世社会の多元的な性格は,このような点にもよく現れているが,これらの諸地域は海を通じて,相互に,あるいは列島外の地域と,活発に交流し,結びついていた。列島内の各地で焼かれた焼物の広範囲にわたる分布,中国大陸,朝鮮半島の陶磁器の列島全域に及ぶ大量な出土は,このことを如実に物語っている。そしてこうした海による交流によって,列島内でも先の諸地域と交錯しつつ,古くからの瀬戸内海地域だけでなく,太平洋沿岸地域,日本海沿海地域が形成され,列島の外までふくめての日本海地域や〈倭寇世界〉を想定することが可能となるような状況がみられたのである。実際,唐人の飴売,薬売,石工などが列島内で活動し,朝鮮国王の慶事には信濃善光寺を東限として西日本海辺の多数の領主たちが慶賀の使を送り,若狭一・二宮の禰宜(ねぎ)が明の元号を使用した事実は,国家間の公的な貿易のみにとどまらない,諸地域の独自な列島外地域との交流が活発であったことを示している。このように中世の列島社会は,現在の沖縄,北海道を除く列島主要部においても,単一の国家の下にあったとは断定し難いものがあり,その諸地域は海を媒介に列島外に開かれ,それぞれに独自な結びつきを保っていた。
しかしその反面には,東は〈外ヶ浜〉(現,青森県陸奥湾岸一帯)を境に〈夷島〉を異域とし,西は〈鬼界島〉(現,鹿児島県)にいたる範囲を日本国とする意識が,鎌倉時代には生まれていた。とくにモンゴル襲来以降,異域は人ならぬ〈異類異形〉のものの住むところとし,異人を拒否・差別する村落社会の一面の習俗を背景に,異国人を〈異類〉とみるような差別意識がしだいに強まってきたことも見逃してはならない。日本国を〈島国〉とするような観念は,そのなかから姿を現しつつあったのである。
執筆者:網野 善彦
社会的諸集団
日本中世社会は,それに先立つ古代社会,あとにつづく近世社会とくらべて,統一的な制度の枠組みが明瞭なかたちで存在せず,多元性,分裂性がその大きな特徴とされている。
中世社会の法的構造においても,王朝国家の公家法,武家政権の幕府法,荘園領主の本所法など公的法のみならず,僧侶集団の寺院法,家の掟たる家法,さらには村落集団の村法など,多数の私的集団の法が分立併存し,また重層的に存在していた。そして,これら私的集団の多数の法は成文化されず,その多くは先例,傍例,習(ならい),大法(たいほう)などとよばれた慣習法よりなっていた。当国の習,諸荘園の習,所(ところ)の法例など大小さまざまの地域・権力圏のほか,武家の習,釈門の法,百姓の習,商人の故実といった職能的集団に特有の慣習法が存在した。そして中世の人々は,これらの習,先例などによって現実の生活を営むとともに,他者に対しては,これらを根拠にして正義の名において自己の権益を守ることを目的に自己主張したのである。当然のことながら,これらの法の相互関係においては,異質の法理が共在したが,それぞれの法理による主張がなされること自体,主張者にとっても社会一般にとっても矛盾とは考えられていなかったのである。幕府の御家人が自分のつごうによって公家や本所の裁判所で幕府法の法理を主張することも自由であったし,本所の雑掌(ざつしよう)が幕府の裁判で公家法や本所法を盾にとって自己の主張を行い,それによって勝訴に導くことも可能であったのである。このような多様な価値観に対する融則(ゆうそく)の精神構造もまた,中世社会の特色といえる。
多様な尺度
このような社会の多元性,分裂性は,いうまでもなく法・裁判の分野にとどまるものではなく,人々の日常生活,交易,収取の基礎をなす度量衡の単位においても同じであった。とくに枡(ます)や田畠の面積の単位はいちじるしく多様であった。個々の荘園領主は十合枡,十三合枡,七合枡といった単位を異にする枡をもち,同じ領主のそれぞれの荘園によっても枡を異にし,さらに米を量る枡と油を量る枡,納枡(おさめます)と下行枡(げぎようます)もその大きさが異なっていたのである。また地積も町・段・歩制で完全に統一されていたわけではなく,辺境地帯はもちろん,畿内においても代(しろ),畝(せ),杖(つえ)などの単位がみられ,苅(かり)や蒔(まき)など収穫量や播種量によって面積を表示する方法も全国的にひろくみられた。
律令国家の定めた公定枡,班田制の基礎をなす町・段・歩制は,このような中世社会の実態からみるとき,社会の基層部においては,完全な形では浸透しなかったことを示すといえる。そして中世社会における,苅とか蒔とかいういわば原始的地積単位の広範な残存状況は,中世社会を国家の側からでなく,人々の生活の側から問題とするとき,律令国家に完全に編成された古代社会が存在し,その崩壊によって中世社会が成立するという把握のしかたより,中世社会は,原始社会の存在形態の発展をベースに,普遍的原理をもつ律令制,普遍的価値観をもつ仏教,儒教などの文明との接触,累積的混交によって形成されつつある社会と規定する見解のほうが,より実態に即しているといえる。
中世陶磁器史の研究によれば,中国,朝鮮などの先進技術の導入によって日本の陶磁器は発展していくが,その過程は,けっして日本固有の諸技術体系を全面的に駆逐することなく,その諸技術を多くそのまま遺存せしめるという累積型の展開,それに基づく多様な諸技術の混在をその特徴としている。先にみた多種の集団,それに応じた多種の法,価値観の分立などに典型化される中世社会の多様・分裂・重層性は,このような日本社会の歴史的進化のなかに位置づけられるといえる。
このように成立期の中世社会は,なお未開の野性,原始社会の呪術的世界が生命力をもっていきづいていた社会であったが,やがて中世後期,南北朝時代から戦国時代にかけて,仏教の民衆化,貨幣流通,文字の浸透などを媒介にして,近代社会の祖型的な社会へと転回しはじめる。その意味では,神々(自然)の世界から人間の世界への,未開社会から文明社会への分水嶺的位置を占めるともいえる。この転換の過程は,多元性を特徴とする中世社会の基本的な要因である多種多様な集団の存在,そこにおける多様な価値観,行動様式などの再編・統合という形をとって進行するが,この集団の再編・統合は,おおまかにいえば,血縁的結合から地縁的結合,職能別統合をベースにして,タテ型編成とヨコ型編成という両軸のからみあいのなかで進行する。
界と集団
中世の支配体制が,〈まつりごと〉を行う朝廷を中心にした公家,聖の世界をつかさどる寺社勢力,軍事・検断をつかさどる幕府の三つの権門の相互補完関係より成り立っていたといわれるように,その出発点においてすでに職能的に編成された集団より成り立っていた。これらの職能集団は,その集団として職能に見合った独自の価値観,集団編成の原理などをもつ界をつくりあげていた。もちろんこの界は,中世社会においてこの三つだけの界ではなく,各種の職能に応じ,また職能とはかかわりのない性別・年齢別の界,さらには同じ界のなかでの特別の時間,また特別の空間においてのみその論理が通用する界など,多種多様の界が存在した。これらの集団,またはその構成する界は,この時代なお流動的であり,かつ集団がいくつもの界に属するようなゆるやかなものであったが,これらはしだいに純化,統合,固定化の方向にすすみ,その過程で身分の枠組みを形成していったのである。
寺院集団
中世前期社会においては,鎌倉幕府の主従の基礎が惣領制であったことからもうかがわれるように,なお氏族的・族団的性格を色濃くのこす集団が支配的であったが,この状況のなかから族的結合の紐をすでに断ち切った集団を形成し,そこに仏法興隆を目的とした独自の世界を営んでいたのは仏教寺院の集団であった。
古代律令国家の寺院統制の弛緩,寺社勢力の強大化などの条件のなかで,自律的・自治的集団としての中世寺院が成立した。ここでは僧侶の平等・和合という原始仏教の僧伽(そうぎや)(サンガ)の思想が継承され,寺院の意志決定方式として,集会(しゆうえ)という合議制が,鎌倉時代に一般的制度として定着した。この非族縁的な自律集団の集会は,原則として平等な成員の自治によって運営され,その意志決定は多数決による一味(いちみ)同心,一揆の評定(ひようじよう)として特別の効力をもつものとされた。この寺院の集会のあり方は,同じく非族縁的結合の惣村(そうそん)の意志決定方式,さらには村法の制定にも大きな影響を与えた。
この寺院の集会によって一味同心の法として制定された法は,寺院集団の内部規範としてだけでなく,寺領荘園の法にまで及ぶが,仏の権威をかりつつ王法に対する別の次元の対等の効力をもつ法であると寺院勢力によって主張された。仏法のなかにいる僧侶,この界に存在するものは,俗界の人間のものではなく〈仏の物〉であるという論理のもとで,鎌倉時代いったん寺院に寄進した土地は〈仏物〉となり,寄進者は再びこれをとりもどして〈人物〉とすることができないという仏陀法など,この界特有の新しい法理を生みだしたのである。やがて鎌倉仏教の広布,その一向専修的傾向が強化されるなかで,この論理は信者集団,その所有する土地財産をふくめた世界にまで拡大していく。戦国時代には,この集団に属するすべての人,財物がすべて阿弥陀仏に帰するという一向宗の仏法領,同じく日蓮宗の釈尊領(しやくそんりよう)という観念が実態化・定着していき,俗的権力,俗的論理の及ばない新しいアジールである寺内町などを各地に生みだした。またこの観念は,俗的権力の強大化という状況のなかで,一向一揆,日蓮宗不受不施派など反権力の戦いの思想的基盤となって結実していったのである。
ところで,このような寺社勢力は純粋に聖の世界に限定されて存在したのではなく,彼らは荘園領主でもあったように俗的な権力としても存在していた。そして,俗界とのかかわりでも,多くの独特な文化,芸能,産業を発展させるとともに,それをになう職能集団を編成していた。これら神人,寄人などとよばれる奉仕集団は,神仏との関係においては,一種の主従制的関係で結ばれていたが,集団内部の結合原理はヨコ型の座的構造をとっていた。能などの芸能の座は有名であるが,そのほか寺院経済のにない手として商業,金融,手工業,交通など多くの集団が存在し,分業の発展に大きく寄与していた。一方,これら聖の世界をになう寺社勢力は,中世社会において陰陽道(おんみようどう)と結びついて拡大再生産された強固な穢の観念の存在のもとで,その祓(はらえ)/(はらい)をひとつの重要な役割としていた。そのため非人などを集団としてその内部にかかえこむとともに,穢の現実の処理などを神人,寄人などに職能としてゆだねたため,穢の観念を媒介にして,卑賤視される職能集団を生みだす結果となった。
公家集団
律令国家の官僚集団の後裔である公家勢力は,律令国家の解体過程で10世紀から12世紀にかけて王朝国家を完成した。この新しく形成された王朝国家の制度的特質は,律令官僚体制にみられる太政官を頂点とする大小官司の統属関係が解体し,独立した個々の官司が,それぞれ完結的な業務を行うこと,その官庁運営方式が,その官僚としての業務活動と収益とが不可分の関係で結ばれていること,そして,それぞれの官司が特定の氏族なり家によって請け負われていることにあるといわれる。
このように王朝国家の官僚制は,特定氏族が独占的にその運営を請け負っているのであり,個々の氏族の立場からいえば,その氏族の家業であり,その業務の運営がそのまま収益を生みだすあり方からいえば家産であったのであり,これら公家勢力は氏族専業に基づく家業集団として存在した。これらの家業集団は,王朝国家の統治権に基づく広域支配権,商工業の全国的中心である京都の支配権,その貢進体系などをてこに,それぞれの専業化した家業に応じ,山の民,川の民などの非農業民,遍歴する技能集団との結びつきを強め,これらを再編していった。これら公家集団の集団としての結合は官僚制的結合をとり,それぞれ官位に応じた家格を形成し,全体として重層的構造をとるが,必ずしも支配-従属関係がそこにつらぬかれていたわけではない。また公家の個々の家は,主従結合をその内部に生みだしていたが,その家自体が,武士の家のような家父長制的原理で成り立っていなかったためか,その主従関係は契約的性格が比較的強いものであった。
武家集団
中世社会を特色づける武士団も,武芸をもって支配階級に仕える職能団体といわれるように,その本質は職能団体であったが,鎌倉幕府の御家人が,開発領主であり,根本私領,本領とよばれる所領をもつ存在であったように,その多くのものは農業経営を行う在地領主であった。これら武士団の系譜は,国造(くにのみやつこ)以来の地方豪族,中央貴族が土着した地方豪族などであるが,彼らは国衙(こくが)によって武士身分への帰属を認められ,11世紀の末ごろ朝廷の警固を目的とする内裏大番(だいりおおばん)制に国別に編成された。平安時代後期,国司の国軍は〈国の兵(つわもの)〉とよばれるこれら地方豪族と〈館(たち)の者〉とよばれる私的従者の二つより成っていたが,国司はこれら〈国の兵〉の軍事動員をてこに,彼らを国の押領使(おうりようし),検非違使(けびいし)などに任命することをとおして,私的主従制にくみこんでいく傾向がみられる。このような私的主従制の拡大を多数の国において実現し,〈武家の棟梁〉とよばれたのが清和源氏などの武家の権門であった。このような状況のもとで鎌倉幕府の御家人制は成立した。
これら御家人は将軍と主従関係を結ぶことにより,地頭職,荘官職などをとおしてその所領を保証されていた。その所領支配は家の独立・不可侵性を核とした家支配,開発に基づく地主の支配に基づき,完結性,独立性を特徴としていた。このような族団としての武士の家は,分割相続制にみられるように,その家族内部になお血縁紐帯(ちゆうたい)に基づく共和的性格をのこしていたが,この家にかかえこまれた家子(いえのこ),郎従などの従者は,宅(たく)の論理のもとにおかれ,その主従関係は隷属性の強いものであった。鎌倉時代の武士団の家は土地と強く結びつき,その自立性を保持し,その集団の行動基準は自力救済を基本としていた。家の名誉をかけた紛争,土地をめぐる紛争などは,名誉のための戦い,権利のための戦いとして,私戦,私闘というかたちで行われ,またその裁判上の手続も自力救済観念に基づく当事者主義が原則となっていた。
ところが鎌倉時代末から南北朝時代にかけて,武士団が解体しはじめるとともに,後述する惣村とよばれる土地と結びついた強い村落結合が成立し,武士の性格は大きく転換していった。族的結合の解体のなかで,長子相続制に基づく家父長制的家が一般化し,一族は家督の家臣となることを余儀なくされ,家督を頂点とする階層的な構成をとる家が形成された。これらの家は,その家を存続させるため,より大きな家と主従関係を結びタテ型に編成されていったが,一方その家の自立性を維持するため地縁的結合を結ぶものも多く,各地に国人一揆(国一揆),郡中惣などのヨコ型の領主連合が生まれた。これらの領主連合としての一揆は,族縁的結合原理を断ち切り,自主的に公共の場をつくりだした点など大きな意義が認められるが,その紛争解決を一揆の裁定にゆだねるなど,個々の領主の自立性,自力救済の観点からいえば,それは自己否定の過程ともいえる。
このような武士を地域権力として家臣化していったのが大名であり,在地から遊離し,しだいに自立性を失いつつある武士の家に主人権をとおして大名の力が及ぶようになった。家の相続,従者の決定などにも大名の意志が入りこむとともに,所領も貫高(かんだか),石高(こくだか)とよばれる単なる収益をもとに定量的に把握され,それに見合った軍役が賦課される体制がつくりあげられたのである。彼らと大名の関係は軍事集団として主従関係で結ばれていたのは当然であるが,彼らは大名の家のなかに家中としてくりこまれ,一門,一族など多様な擬制的な家格序列を与えられ,統治集団として家産官僚的性格をも強めていったのである。
このように家の原理で結集した武士が統治階級となることにより,日本社会の特徴といわれる家型・タテ型結合の特徴がより強く規定されることになったが,もうひとつの特徴である村型・ヨコ型結合の基盤となった村が生まれたのも中世後期であった。
村の成立
鎌倉時代の後期より,畿内およびその周辺部に,宮座(みやざ)などを媒介にして惣村とよばれる地縁的な農民の共同体が成立し,その後東国地方などの辺境部にも血縁的・同族的な性格の強い村落が成立した。これらの村落が,近代まで日本社会を基礎づけた村の母体であり,この村と家の成立が,日本社会を近代につづく社会へと転換させたのであり,中世後期の政治的・社会的混乱は,このような村を基盤とした政治・社会体制への移行より生じたものといえる。
中世前期の百姓は必ずしも土地との結びつきが強くはなかった。中世における土地所有の正当性の根源は,器量と職(しき)で表示される相伝の由緒であったが,それを認められたのは領主階級などの特定者であり,百姓は非職(ひしき)・非器(ひき)の仁(じん)とよばれ,正当な所有を認められなかった。所領内の山,川,野などを占有し,みずから農業経営を行う領主の勧農(かんのう)とよばれる行為が,浮浪人を招き,種子や農料を給付し土地を耕作させることであったことからもうかがわれるように,根本住人とよばれた土着の有力農民を除き,百姓の多くは土地を請作(うけさく)するのが基本的なものであった。鎌倉幕府の《御成敗式目》が定めた〈百姓の去留(きよりゆう)の自由〉は,このような百姓のあり方を前提にしていたといえる。
やがてこれらの百姓は,長年にわたる耕作の事実をとおして土地への結びつきを強め,権利として上から与えられるというよりは,事実的占有をとおして,〈所持〉という語に表現される農民的土地所有権を獲得していった。室町時代には,百姓は土地に結びついたもの,土地とは切り離せないもの,という農民としての百姓の観念が社会的に広く認められ,職能に結びついた身分としての百姓が生まれた。そして,この百姓身分の形成を基軸に,分業の発展に基づいて,職能と結びついた士・農・工・商の身分が社会的に実態化していったのである。
この百姓の定住によって惣村が生まれ,また惣村の成立によって百姓の存在を保持しえたといえる。この自生的につくりだされた村落は自治集団であり自立性を特色としていた。集団の内部規範である村法を定め,村の秩序維持のため地下(じげ)検断をも行使した。これら村落は,沙汰人(さたにん)・番頭(ばんとう)などとよばれる有力農民によって実質的に指導されたが,村の意志決定は,村落民全員の集会である寄合で決定された。その構成は年齢階梯制をとるものも多く,〈百姓の習は一味〉と主張されたように,ヨコ型結合の原理が強くはたらいていた。
この村落は,他の族的集団,主従集団と同じく集団としての強い凝縮性が特徴で,集団と個人の関係は,村落があってはじめて個人が存在しうるという一種の運命共同体的性格をもっていた。このような完結体としての村落は,用水,神事などをとおして,他村落と相互に契約を結び,惣郷,惣荘,惣国といった個別領主の支配領域をこえたヨコの結合の輪をひろげていったのである。
ところで,このような性格をもつ村落の形成は,荘園支配の基礎を大きく変えてしまったが,その変化の最大の契機は,村として一括して領主の年貢を請け負う村請(むらうけ)制の成立であった。荘園制の支配は,その基本台帳たる実検帳が示すように,領内の個別の農民,その耕地,年貢量などを把握してその個別的な関係を軸に支配する原理に基づいていたといえるが,村請制によってその支配原理はくずれてしまったのである。領主は,村落という集団との契約に基づき,一定の年貢をとる権利をもつにすぎなくなり,その所領,領民から切り離された存在となったのである。逆にいえば,村請制によって村が村民を支配するかたちが完成したのであり,年貢の負担割付・徴収などはすべて村によって行われた。そして灌漑施設の維持,上部権力に対する礼銭,一献料(いつこんりよう)など村の維持存続などの費用は村がこれを村入目(いりめ)として負担し,これを村民に対して家役(いえやく)というかたちで賦課したのである。村法には,この家役の賦課・負担に関するものが多く定められているが,この家役の負担が村落成員のあかしとして,村民に〈公界(くがい)のつとめ〉と意識されていたのである。村人にとって,年貢を納入する〈公〉とは別の,みずからがそこに存在し,参加してつくりあげた,村というもうひとつの〈公〉の世界が出現したのであり,後者の〈公〉こそが彼らの自由と保護を現実に保証する存在であったといえる。
このような村請制は,ほぼ室町時代から戦国時代にかなり一般化していき,これが貫高制・石高制の基礎となったことを考えるならば,この時代を,荘園制から村町制への転換の画期として把握することも可能であろう。
→鎌倉時代 →戦国時代 →中世法 →南北朝時代 →室町時代
執筆者:勝俣 鎮夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報