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中世社会 ちゅうせいしゃかいMedieval society

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中世社会
ちゅうせいしゃかい
Medieval society

歴史的にみて古代社会と近代社会の中間に位置する段階の社会。ヨーロッパ中世は西ローマ帝国崩壊後,5~6世紀のゲルマン民族大移動ののち,ゲルマン諸部族の国家形成の時点,ことにフランク国家の形成期から始り,百年戦争の終結とビザンチン帝国滅亡 (1453) の時点にいたるまでの歴史的段階を占める社会を意味する。この社会では 11世紀以降封建国家が形成され農奴制に基づく封建的生産様式が社会の基礎をなした。東アジアでは古代社会と中世社会の歴史的画期を明瞭にしがたく,そのため3世紀の三国時代から 10世紀の唐末あるいは 16世紀の明末までを中世とする考え方と,唐朝滅亡後,五代十国時代から宋・元朝を経て,元・明時代までを中国史上の中世社会とする考え方がある。インドでは奴隷王朝 (1206~90) に始るイスラム諸王朝の登場からムガル帝国成立 (1526) までの時期にこれを指定できよう。西アジアでは,ムハンマドを中心としたイスラム勢力の勃興した時期から,ヨーロッパ資本主義勢力の西アジア進出と,それに対抗して,西アジア諸国の側で展開されたいわゆる「近代化」の時期にいたるまでの時代をさす。この時代の社会構造の中心をなしたのは広い意味でのイクター制であった。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちゅうせいしゃかい【中世社会】


時代区分と特質】
 日本の近代史学史のなかで,中世という時代区分が定着したのは,西欧の封建制と日本の鎌倉・室町・戦国時代の社会との酷似を見いだした原勝郎,福田徳三,中田薫らによってであり,そこで中世は,近世と規定された江戸時代とは異なる一個の時代としてとらえられたのである。この見方は第2次大戦後,封建制を農奴に対する領主の支配(農奴制,領主制)に基礎をおく社会とする石母田正らのマルクス主義史家に継承された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中世社会
ちゅうせいしゃかい

ヨーロッパ


ヨーロッパ中世社会像とヨーロッパ歴史像

中世社会像確立への潮流
ヨーロッパ人が中世社会をそれ独自のものと意識するようになったのは、20世紀に入ってからのことである。
 すでに18世紀においてビーコあるいはヘルダーは、啓蒙(けいもう)主義の中世無視の風潮に抗して、共感的想像力をすべての時代、すべての文明に対して及ぼすことを要請し、19世紀のランケも、少なくとも若いころには、「すべての時代は神に直結する」と、過去の時代の内在的理解を歴史家の務めとした。あるいはブルクハルトは、15、6世紀のイタリア社会を見本にとって、一つの独特の型の社会と文化を認知する試みを示した。
 けれども概して19世紀の歴史学は、歴史は近代社会ないし国家に帰結すると考える傾向をみせた。この進歩史観の前に、「近代以前」は近代前史としての意味しかもちえなかった。晩年のランケとその祖述者たち、ブルクハルトの亜流、またフランス「実証主義」史学の立場がこれであった。
 1890年代の「ランプレヒト論争」は、ランプレヒトの著述のでき・不できはともかくも、そのような近代主義的進歩史観の横行に歯止めをかける役割を担うべきはずであったが、ヨーロッパの歴史意識はいまだ目覚めの時を迎えていなかった。その薄明にあって、しかし、とりわけ美術史の分野において中世的美意識の独自性を認知する試みがなされ(ウォリンガー)、あるいはホイジンガは14、5世紀の北ヨーロッパを対象に「中世の秋」を記述し、ハスキンズは12世紀に中世文化の胎動を覚知した。ブロックはフランス農村社会に持続する中世的体質を洗い、やがて「封建社会」像を構想するに至る。
 以上は、20世紀初期の数世代においてヨーロッパ史の近代主義的見取り図を批判した人々のうち、ほんの少数の名前をあげたにすぎない。中世に近代国家を投影させたドイツの「古典理論」に対するダンネンバウアー、マイヤーなどの批判も1930、40年代に開始されている。これらの批判は中世社会についての、まさに「実証的」調査研究を伴い、ヨーロッパはヨーロッパの「近代以前」について、それまでとは比較にならないほど豊富な情報と適正な情報の読みを獲得するに至った。ここに「中世社会」像の全面的見直しは必然の事態であった。[堀越孝一]
ヨーロッパ社会のルーツとしての中世
しかも、およそヨーロッパ的理念と体制に対する「大戦間」の世代の不安、第二次世界大戦後の世代の懐疑は、ヨーロッパ人をしてヨーロッパ史の見直しを促すものであった。ヨーロッパがヨーロッパであるのはいかなる歴史的構造に基づくか。この疑問は「中世社会」像の問題を「ヨーロッパ史」像の問題のうちに位置づけるものとなった。旧来の三大時代区分の有効性に疑問符が打たれた。ヨーロッパはいつ、いかなる状況において、一つの独特の社会として成立したか。この発生論的観点にたつとき、ヨーロッパ中世社会の歴史像は、ヨーロッパ社会の成立を占う図絵として構想されなければならないであろう。ほんの一例をあげれば、1957年にウィスコンシン大学の中世・ルネサンス研究所で催されたシンポジウムの報告書は「12世紀のヨーロッパと近代社会の基礎」(1961)と題されたのであった。[堀越孝一]
ヨーロッパ中世社会――その成立と展開

外民族侵入の影響
ブロックはその著『封建社会』(1939、40)の冒頭に「外民族の侵入」を記述している。8世紀から10世紀にかけてバイキング、マジャール、イスラム教徒と三方向から外圧を受けた内陸ヨーロッパは、たまたまこの時期がフランク王国の政治組織の分解と同調したこともあって、混乱に陥った。この混乱は社会的結合の諸形態に多大の変更をもたらし、ヨーロッパ内陸に、一つの独特の型の社会をつくる方向に作用した。
 ブロックの中世社会論はここに立論の起点を求めていて、その見取り図は現在妥当なものと考えられている。「侵入以前」のヨーロッパ社会との間に断絶はない。しかし、11世紀なかばを境に、ネウストリア、アクィタニアなどとよばれたライン川の西の土地に、数個ないし十数個の村を抱えた城主領が群生した。村は、侵入以前と形態を変え、居住集落の周辺に耕地を広げる集村型である。ライン川とロアール川の間では、共同耕作による三圃(さんぽ)制酪農経営が一般であり、侵入以前に比べて鉄製農具の普及、水車動力の利用など、農業技術革新の動きが著しい。12世紀に入れば風車動力の利用も始まる。[堀越孝一]
城主領と諸侯伯領の新展開
城主と農民の関係は防衛と生産との相互補完関係であり、慣行として形を整えていく権利・義務の関係は、やがて13世紀に入ると慣習法として成文化されることになる。それは同時に農民という身分団体の成立を意味し、そのころにはすでに騎士身分もその閉鎖的性格を強めている。騎士身分はすなわち、城主と、その家臣である一般の領主と、さらには王侯伯を名のるほどの存在をも含めた身分概念である。
 城主は、侵入以前のフランク王国の地方行政区であるパグスを分け取って城を構えた。したがって、城主のなかにはパグスの長官コメスあるいはその代官ウィカリウスに名分を借りたのもある。だが多くその実体はその土地の実権者であって、とりわけ「強いやつ」が改めてコメスすなわち伯を名のる。あるいは、これまたフランク王国カロリング王家が設定した官職ドゥカトゥスすなわち侯を名のる。
 彼ら諸侯伯が城主層を束ね、諸侯伯領を経営する。中世ヨーロッパは諸侯伯領の国際関係である。ところがすでに10世紀後半、フランクの分国諸王家の家系が絶えたのを機に、彼らは王を選挙していた。イル・ド・フランスのカペー家であり、ライン川の東のザクセン家である。王権の理念はフランク王権に、ひいてはローマ帝権に由来し、これは侵入以前の社会的結合理念の持続とみなされる。したがって「封建王政」とは矛盾した概念であり、中世ヨーロッパはこの矛盾の関係をむしろばねとして歴史を刻む。
 部族的結合の伝統の根強いライン川以東にあっても、11世紀なかばの聖職叙任権闘争以後、村―領主領(城主領)―諸侯伯領の体系を目ざす再編成の過程が進む。ザクセン家に始まる王権はローマ帝国の復活を標榜(ひょうぼう)したが、その実、諸侯伯の国際関係の現実は領邦分裂を固定せしめた。
 イングランドにおいては、フランク王国に相当するのがアングロ・サクソン王国である。そのシャイア‐ハンドレッドの地方行政区は、11世紀なかば、ノルマンディー侯家のイングランド征服とその結果としてのノルマン王家の成立以後も強固に残り、王家によって設定された領主領(マナー)、伯領(カウンティ)は既存の体制を否定するものではなく、王家はむしろそれを利用して王国支配の実をあげた。12世紀なかば、アンジュー(プランタジネット)王家の開幕以後、領主層は王権に対して一個の身分団体と自己規定し、議会をもって王権との協議機関とする。等族制の段階はイングランドにおいてもっとも早い時期に到達されたのである。[堀越孝一]
都市の形成
等族とは身分のことであって、騎士、農民と並んで、都市住民もまた一個の身分をつくる。侵入以後、商業の復活と商人団体の定住を「中世都市」形成の原因とみるピレンヌの考えは批判の余地がある。旧ローマ都市、フランク王国のコメスないしウィカリウスの「城下町」、侵入時に修道院を核として形成された町、市(いち)の町。発生と原型は異なっても、村‐城主領の形成と大根(おおね)においては同質の力学が町の形成において働いた。侵入の経験が、ある状況において都市的環境をつくる方向に作用した。
 その後の展開がブルゲンシス(町人)という身分団体をつくった。侵入以後、貨幣流通経済の活性化が町人のうちメルカトーレス(商人)層の指導的立場を導き、諸侯伯権、さらにはこれを越えて王権がこれと交渉をもつ。これら王朝的諸権力との関係の強弱が一つの要因として働いて、北イタリアのコムーネ都市、北フランスの国王代官都市、諸侯伯権と共存したネーデルラント・フランドル諸都市、あるいは北ドイツのハンザ都市と、各地に特有の都市圏が形成される。
 他方、フランドルの毛織物など各地特産物の展開は職人層の充実を結果し、彼らのつくる職能団体(ギルド)の市政参加が、13世紀以降どこの都市圏にあっても問題になる。商人ギルド、職人ギルドの対立は、全体としてみれば町人という身分団体の閉鎖化を意味し、都市的環境のヨーロッパ的型の展開を示している。[堀越孝一]
教会の活性化とその役割
もう一つの身分団体「教会」はどうか。キリスト教会もまた侵入以前から持続する要素である。けれども、教会は侵入以後、侵入以前の隆盛をふたたび取り戻したと考えては、事態を見誤ることになる。実情は、侵入以後、ヨーロッパ内陸にようやく信仰共同体の形成がみられたのであって、活性化の核となったのは、侵入に際し地域住民の保全を図った地方教会と修道院であった。侵入後、教区組織が整備され、村‐城主領と教区の関係が調整された。11世紀なかばは美術史でいうロマネスク教会堂建築の第一次隆盛期である。ヨーロッパ内陸社会はようやく開発の時代に入り、村人は森林沼沢を開墾して耕地を広げ、石の城を築き、石造りの教会堂を建てた。社会の全局面が共通のリズムにのっていた。
 教会人(聖職者)身分の第一の役割は信者の霊魂の救済にある。超自然的な力の観念に浸されていた中世人にとって、この役割指定は疑念の余地のないところであった。ベネディクト修道会の戒律「祈り、そして働け」のことばの順序がこれを示している。しかし「働け」もまた戒律の根本にあり、彼ら修道士は、フランク王国時代のアイルランド教会系修道士に範をとって、開墾に、農事指導に働いた。教会領、修道院領は、どこの土地にあっても領地経営の範型となった。
 教会人はまた社会福祉の担い手であった。16世紀に入り、都市の肥大化に伴う社会問題の増大は、貧民救済の「世俗化」、すなわち都市当局による肩代りを促した。ここに中世カトリック教会の社会的役割の重要な部分が滑落したのである。
 教会はまた教育と文化の機関であって、ラテン語を保守して古典の学芸を伝承し、年代記の形で歴史を記述した。王侯伯の家政の文書部局の長は13世紀末に至るまで教会人が独占した。12世紀はイスラム文化圏を介する古典の学芸摂取の時代であり、13世紀に入れば都市におけるもう一つの身分団体「大学」の形成をみる。その過程はまた、ヨーロッパ固有の思考の形成、すなわちスコラ哲学形成の過程でもあった。[堀越孝一]
言語の定着
言語は「ラインとマースの間」を境にして北東のチュートン語圏、南西のロマンス語圏がようやく定まった。後者はケルト語に洗われたラテン語を母胎とし、北のオイル語、南のオック語に分かれ、前者の叙事詩、後者の叙情詩の制作は11世紀の末にまでさかのぼる。13世紀以降、オック語圏が分解し、ロマンス語系諸国語の形成をみる。チュートン語は南ドイツからイングランドにかけて展開し、13世紀には、侵入以前の記憶を叙事詩に成文化する。ヨーロッパ社会はようやく自前の言語で思考し、歴史を記述するまでに自意識を高めたのである。[堀越孝一]

インド


中世社会設定に関する諸説
インド史において、どの時代を中世とよぶかは人によって違いがある。旧来は、11世紀までのヒンドゥー諸王朝時代を古代、12世紀から18世紀までのムスリム諸王朝の時代を中世とよぶ場合が多かった。しかし、近年、経済構造をメルクマールとして、中世=封建制と理解する立場が一般化してきた。この立場にたつ人々の間にも、中世の始期については諸説に分かれ、グプタ朝解体期の6世紀、ハルシャ朝崩壊後の8世紀を始期とする説などがある。これらの諸説に共通しているのは、インドにおける中世の成立を、〔1〕地方における領主的階層の成立、〔2〕諸カースト(=ジャーティのこと。いわゆるバラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラという古代インドの種姓制とは異なり、カースト=ジャーティとは現実的な人々の社会集団のことである)の形成とカースト制の完成、〔3〕それと表裏をなす村落共同体の形成、〔4〕ヒンドゥー教あるいはヒンドゥー的文化の形成、に求めることである。このように、今日ともすれば超時代的なインド社会の特徴とされるものは、ほとんどすべて、8~10世紀ごろ、いわゆる中世の成立期に姿を現すのであって、太古以来存続したというようなものではけっしてない。[小谷汪之]
経過と特徴
こうして形成されてきたインド的中世社会は、12世紀から18世紀のムスリム諸王朝の支配期にも基本的にはそのまま存続し、さらに発展していったと考えられる。12世紀初頭、北インドに初めて成立したムスリム王朝(奴隷王朝)ののち、北インドではハルジー朝、トゥグルク朝など四王朝が続き、デリー諸王朝と称せられる。これらの王朝支配期の社会については、史料が乏しく、あまりよくわからないが、イスラム神秘主義(スーフィー)の諸派が農村部にまで進入し、イスラム教の底辺への浸透をある程度実現していったことが知られている。この時代、14世紀中ごろにはムスリム政権がデカン高原地方にも成立(バフマン朝)し、こののちデカン・ムスリム五王朝と称される王朝が成立して、南インドのビジャヤナガル王朝と抗争したが、ビジャヤナガルは16世紀初め衰退し、ムスリム権力がさらに南にまで及んだ。16世紀初めムガル帝国が成立すると、しだいに版図を拡大し、ほぼインド全域を支配した。しかし、ムガルの支配は版図の拡大の裏で弱体化し始めており、北インドにおけるシク教徒領主層の成長、ジャート人領主層の強大化、デカン地方におけるマラータ諸勢力の台頭によって足元から動揺し始めた。これらの領主層が、8~10世紀以来成立してきた領主層と直接につながるものなのか、あるいはそれらとは性格の異なるものなのか、今日の研究段階では十分明らかにすることができないが、ただ、中世成立期に形成された村落共同体の変質過程から成長してきたものであることは、ほぼ明らかとなっている。こうして、ムガルは1707年アウランゼーブの死後、急速に解体に向かうことになった。しかし、インド的中世社会を決定的に解体したのは、18世紀中ごろからのイギリスのインド植民地支配であった。[小谷汪之]

中国


時代区分設定の意義と問題点
19世紀から世界の一体化が進むなかで、固有の伝統文化を背負う非西欧世界においても、近代化の歩調に加わることは、ほぼ普遍で不可逆の課題となりつつある。こうした内在状況が、発展の普遍史と各世界文化の独自性の交差のなかで、近現代のルーツを探り、そこに中世を設けるとすればどこまでさかのぼったらよいか、また中世社会のどのような転換が近現代との関連でだいじなのかという問題を生み出すのである。
 世界史を古代、中世、近代と3分する構想は、人類史の普遍性を見定めるうえで重要であるものの、比較の尺度には西欧世界の発展史が暗黙のモデルとされてきた。しかし、その封建制や資本主義文明の相対的で特殊な状況が自覚されてきた今日では、かりに三区分法を非西欧世界に用いるにしても、その比較の尺度は文化の個別性を意識した柔軟なものでなければならない。中国についてこうした試みはまだ緒についたばかりである。[斯波義信]
中国の歴史的独自性
まず下限からみると、普通、中国の近代化は19世紀なかばのアヘン戦争が起点とされている。ただし19世紀の中国は、旧社会の絶頂期と破局期が並び立つ特異な状況であったから、明確な近代化の歩みは1895年の下関(しものせき)条約以後とする見解も成り立つ。こうすると初期近代の上限、さらに中世社会の始源はという問題が生ずるが、その前に文化の連続と官僚制の存在を考えておく必要がある。
 三千余年の中国史は、初期伝統の成立期であり氏族制にたつ先秦(しん)千余年の古典期ないし都市国家期と、秦・漢~清(しん)二千余年の官僚的中華帝国期とに二大分するのが自然である。その指標は国家形成原理の特異性にあり、中国が早熟的に巨大人口規模と高度の生産力・生産量、経済・軍事・組織の技術、そして巨大空間の政治単位を達成し、二千年の官僚政治の帝国を持続したことは、比較史上の特例なのである。この種の官僚制は前近代世界では古代エジプトと並ぶ異例であり、帝国は東西ローマより長命であった。また文化主義というべき中華的世界観に裏づけられた一元支配の構造も、教会と国家の二元社会が法の下に均衡する西欧とは異質であり、西欧的経験の所産である国民国家も中国にはなじまない存在であった。[斯波義信]
中国史における歴史的転期
さて文化の早熟、連続、独自性を前提としたうえでなら、中国の社会経済体制、国家組織、技術関連の相関において、発展と進化の転期を画することは可能である。古典期を除けば中華帝国期は初期(秦・漢~唐)、中期(唐末~明(みん)末)、晩期(明末~清末)に3分できる。この際、普通、帝国の大分水嶺(ぶんすいれい)的転換期とされる唐・宋(そう)変革期(9~13世紀)が、中世革命期、中世的転換期となる。
 まず国家の形成原理からみると、効率的な行政組織の始原は秦・漢にあるが、内容が進化を遂げ、官吏登用法(科挙(かきょ))が確立し、新人登用、昇進、行政監察、職務の系列化(三省六部(りくぶ))、文治が徹底して独裁機構がなり、ことに科挙を通じて教養、富、才能による競合的才能主義が社会の普遍価値として定着し、社会は統合と安定を強化した。こうして六朝(りくちょう)以来の門閥貴族、武人の専権が一掃され、新興の地主、富商、その母胎の地方エリート(郷紳(きょうしん))が支配層に登場し、政治の社会支持層が広くかつ流動的となった。両税法(唐末~明末)はこの拡大に対応し、政府の世俗勢力(地主、富商)に対する統制が柔軟化するとともに、貨幣経済が国の財政基盤を拡大強化し、膨大な常備軍、官僚集団が生まれ、交通、産業開発、教育文化の施設も拡充し、社会に安定と活力を与えた。一方、社会の都市化と自律化も進化した。宋以後の社会では、都鄙(とひ)の分化や相補・相克関係がはっきりしてきた。県城の総数は人口増=生産増に相関せず不変であったが、地方農村に鎮(ちん)(町)や市場地が無数に発生し、日常の交換でつくられる村々と市場からなる小社会経済空間ブロックが細胞状に広がり、鎮を介し、さらに県を介して都市間経済の網の目に組み込まれ、社会は自給性を脱して分化した有機的、流動的な状況を呈し、ギルド、結社が育ち、地域的、社会経済的な自律の組織が発達した。民衆は徴税、治安、教化、科挙については国の一元支配の下にたったが、社会経済生活では前述の市場ブロック、結社、ギルド、郷紳、郷族(きょうぞく)の下で自律の幅を広げた。
 こうした活力と安定は、生産、技術、商業、交通の発達、人口増、都市民衆文化(小説、戯曲など)を導き、元・清という異民族の支配下でも一貫した社会の成長を許した。この状況は、原基工業化期の西欧に数世紀は先行する社会の充実を示している。しかし社会の高度に進んだ分化は、巨大な人口圧を吸収して保守的惰性を生み、一見して一枚岩にみえる行政、経済は、前近代交通の隘路(あいろ)に妨げられて実質的統合を欠いていた。半自給的市場ブロックが清末・民国まで生き続ける一方、着実に増加する人口に対し、行政枠組みと組織は依然旧規模を保守し続けた。
 人口規模とともに漸増する社会経済の発達が、行政の惰性とのずれを露呈し始めるのは明末である。科挙の社会統合・周流作用はまだ働いていたが、膨れた地方エリート層に供給できる官職は限られ、銀の大量流入による商業の躍進は都鄙の相克、富の分配の不均衡を生み、局地的、散発的に発生した資本主義萌芽(ほうが)の状況は流産した。この期になお人口増が続いたのは、生産技術の開発よりはむしろ辺地拓殖のゆえであり、しかも開発効率の期待できる未開地はますます乏しくなった。
 明末清初はこうした新しい芽が生じつつも、国家組織の惰性の下で流産を繰り返す状況がみられ、初期近代へ向けての過渡を示している。
 こうした見方とは別に、中国学界では近代・前近代を二分し、宋以後を後期封建社会とする区分法などがあり、日本でも宋以後を中世農奴制とする説、あるいは近世社会とみ、五胡(ごこ)十六国から隋(ずい)・唐を門閥貴族中心の中世社会とみる説がある。西欧の中国学でも宋以後を初期近代とみる説もあるが、多くは中華帝国中期とし、以上の説明に近い見方をとっている。[斯波義信]

日本


「日本中世」という概念
日本でも歴史を「古代(上代)」「中世」「近代(近世)」などに分ける、いわゆる三区分法的呼称は古くから行われていたが、現在歴史学で用いられている「中世」という概念は、明治以後の近代歴史学の発達のなかで成立したものである。それは一般的には、源頼朝(よりとも)の武家政治開始のころから、織田・豊臣(とよとみ)の全国統一政権の出現以前までの期間であり、政権所在地を指標とする時代名称でいえば鎌倉・南北朝・室町・戦国の諸時代、西暦では1180年代から1560年代までの約400年間をさす。しかし、武士の活動が社会的に顕著になった平安後期(院政期)を中世の初期または成立期とみたり、戦国時代を「近世」に傾いた時期として扱うことも多い。
 このような時代区分観は、一つには、古代(上代)はおおむね公家(くげ)(天皇・貴族)が政治権力を掌握していたのに対し、中ごろに武士の政権が現れ、明治以後はまた天皇中心の政治体制に復した、とみた明治期の知識人の歴史観に基づいており、もう一つには、西欧の歴史における古代・中世・近代の三段階に日本の歴史をなぞらえる見方に基づいていた。ただし、庶民の経済・文化が発展した江戸時代は、明治にとっては同時代に近いので、「近世」とみなされたのである。日本史学史上、日本史に「中世」の概念を確立した最初は、原勝郎(かつろう)『日本中世史』(1906)といわれ、江戸時代を「近世」とする見方は、内田銀蔵『日本近世史』(1903)にみられる。こうして日本の中世は、一般に武家政治、封建制の時代であり、荘園(しょうえん)制の社会と理解されているが、実際には貴族や寺社の勢力も政治上・社会上軽視できないものがある。また社会の体制や生活形態も段階的に変化したので、鎌倉末期ごろまでを中世前期、以後を中世後期と区分することが多い。[黒田俊雄]
農民経営の性格と農村
中世社会を支える生産活動の基本的なものは農業であったが、なかでも米作が重視されていた。農民には、数町歩の耕地を保有して比較的大規模な経営をもつ者も、数段歩をあてがわれているだけの小経営農民も、さらには有力農の保有地や村堂の付属地を下請けするだけの不安定な農民もあったが、畿内(きない)などの先進地域では、中世初期には小経営農民の自立がかなり広くみられた。そういうところでは、公家・寺社などの荘園領主が、雑掌(ざっしょう)などの荘官を荘園現地に派遣して、耕地や営農料の割当てをする「勧農(かんのう)」にあたらせるとともに、有力農民を名主(みょうしゅ)にして耕地と農民をいくつかの「名」に編成し、年貢や公事(くじ)などの賦課・減免にあたらせていた。また、中央から比較的遠く、地方豪族や武士の勢力の強い東国・九州などの後進地域では、農民の自立が弱く、農民は一定規格の屋敷・田畠(でんばた)とともに「在家(ざいけ)」として地頭(じとう)などの在地領主に人格的に隷属し、自分にあてがわれた田畠の耕作だけでなく、領主直営地の耕作や家内労働、建設・運搬などの雑役にも駆使された。農民の自立性は地域によってかなり格差があったが、先進地域では中世中期(14世紀)には小農民層がさらに広範に成立し、貨幣経済も浸透して、名主層を中心に村落結合も進み、荘園領主や守護勢力への抵抗もみられた。また地頭などの在地領主の強い支配の下にあった辺境でも、領主や代官の館(やかた)を中心に村落の秩序があった。だが村落の区域は、荘園や在地領主の所領とはかならずしも一致せず、村はいつでも農業経営と農民生活のよりどころを意味していた。ただし、このような農民のほかに、定住して保有地をもつことのない、浮浪的な弱小農民もかなりあったとみられ、また農耕民のほかに山林・河海で種々の生業を営む漂泊的な非農業民も各地にみられた。[黒田俊雄]
都市および交通路
中世の都市は、荘園制社会を基盤に、まず権門体制下の都市として発達し、やがて各地の港湾・宿駅・城郭を中心として商工都市が発展していった。京都は律令(りつりょう)体制下の帝都から、11世紀を境に権門体制の王都として新しく発展した。弁官(べんかん)局・蔵人(くろうど)所・検非違使(けびいし)庁その他の官衙(かんが)とその付属の厨町(くりやまち)、内裏(だいり)や権門貴族の殿舎、その家司(けいし)・舎人(とねり)・雑仕(ぞうし)などの執務所・厨房・細工所・宿衛所・倉庫が建ち並び、これに付随して文筆・工芸・祈祷(きとう)・音曲などの芸能者、商人、雑芸民などが街区に住み、市場・見世棚(みせだな)も現れた。東・北の郊外には権門の御願寺・菩提(ぼだい)所はじめ今宮・北野・祇園(ぎおん)その他の寺社が建ち並んでいた。このような権門の都市としての基本的特色は、興福寺・東大寺を中心とした奈良および幕府の館・邸のあった鎌倉にもみられた。
 地方では、諸国の国府で国衙が在地武士勢力によって維持されるようになり、さらに大工・織工・仏師・図師など高級技術者や職人が住み、市場が発達したりして、中世都市に変貌(へんぼう)していた。また、京都から地方に延びる大路や河川・海上などの交通・運輸の道も、一種の都市的空間で、その要所には宿(しゅく)・泊(とまり)・津(つ)が発達し、問丸(といまる)が栄えた。中世末には、城下町・寺内(じない)町・門前町も新たに出現した。これらの都市は、農村が個別領主の各種所領または村落共同体の領域としてその強力な統制下にあったのに対し、いわば国家公権のもとに雑多な階層が比較的自由に居住し往来する地域であった。そして中世後期には、商工業者を主とする都市共同体が成立して、自治都市的傾向の著しいところも各所にみられた。[黒田俊雄]
家族および社会集団
中世社会で安定的な生活のよりどころとなっていたのは「いえ」――家族的結合と住屋(城館)と家産――であった。「いえ」の主体である家族には、時代・地域・階層により種々の形態がみられた。すなわち、下人(げにん)・所従(しょじゅう)などの隷従者や親類・扶養人などを含む大家族的なものから、夫婦と子供だけの単婚小家族まで、多様であった。しかしこのほかにも、安定した「いえ」とはいえない小屋住みまたは半浮浪の、父子・母子・やもめなど不完全な家族や独住者も少なからずあった。「いえ」または個人は、通常なんらかの社会集団(団体)に所属していた。社会集団は一般的には「衆(しゅう)」「輩(ともがら)」「党(とう)」などとよばれ、とくに盟約し結束して行動する集団は「一揆(いっき)」といわれた。集団のうち一つの「いえ」ないし血縁関係を基本にしたものを「族(やから)」「氏」「一門」などといい、家長である惣領(そうりょう)に率いられていた。とくに顕貴の公家・武家などの政治的、社会的に大きな勢力をもつ集団は「権門」とよばれた。また農民の「いえ」の集まりである「村」も、独自の社会集団であった。商工業や芸能に携わる人々もそれぞれ集団をつくっていたが、これらは一般に兄部(このこうべ)・長吏(ちょうり)などに率いられて「座」を結成していた。さらに、「いえ」や世俗の集団から離れて出家した僧侶(そうりょ)も、大寺社をはじめとする「大衆(だいしゅ)」の諸組織および本末関係で結ばれ、巨大な権門的集団を構成していた。そしてその内部には、公的な寺院統制機構だけでなく、種々の職掌や権利や信仰によって組織されたいくつもの「衆」「方(かた)」とよばれる集団があり、その集団内部にも普通、(ろうじ)(出家後の年数)により個々人の地位に序列があった。また別に師弟・被護・血縁などによる「門流」「門徒」といわれる私的な集団もあった。神社の社司・祠官(しかん)の集団には、世俗の「族」「氏」に近いものも多かった。このように、すべて人々の生活が集団への所属によって保証される社会であったので、世を捨てた聖(ひじり)たちも山間の「別所(べっしょ)」に集団生活をし、乞食(こじき)・非人も「坂(さか)」「宿(しゅく)」「散所(さんじょ)」などに座的な集団をつくっていることが多かった。[黒田俊雄]
支配体制と身分
中世社会は各種の支配と集団関係から複雑に成り立っていたが、総体的にみれば、その根幹になっていたのは、王家(天皇家)、摂関家をはじめとする顕貴の公家、南都北嶺(ほくれい)をはじめとする大寺社、武家すなわち幕府など、もろもろの権門の支配体制であった。権門はその伝統的権威と慣例と社会的実力とによって、それぞれに公的な職能的権限を分掌し、広大な荘園・公領の諸「職(しき)」を領有し、その勢力下に中下級貴族・在地領主および百姓以下勤労人民を組織していた。
 中世社会では、国家の法によって身分が統一的に制定されたことはなかったが、この権門支配の秩序に応じて身分の序列・階層が慣習的に成立していた。鎌倉幕府法には「侍―百姓―下人」の身分的区別(階層)がみられるが、公家・武家・寺社を通じてみれば、(1)貴種、(2)司・侍、(3)平民(百姓)、(4)下人、(5)非人、が基本的な身分階層であった。このうち(1)(2)が封建的領主階級である支配階層を形成し、(5)は基本的には社会秩序からの脱落者・被疎外者とみなされていた。
 このような中世的な身分秩序は、戦国時代になると荘園体制の崩壊によってなによりも貴種が没落したため、部分的な慣習や名目的な呼称に近いものになり、ついで織豊(しょくほう)政権の登場によって近世的な身分構成に移行し始めるのである。[黒田俊雄]
『●ヨーロッパ ▽堀米庸三・堀越孝一著『ヨーロッパ世界の成立』(1977・講談社) ▽今野國雄著『西洋中世世界の発展』(1979・岩波書店) ▽マルク・ブロック著、新村猛監訳『封建社会1・2』(1973、76・みすず書房)』
『●インド ▽山崎利男著『インドにおける中世世界の成立』(『中世史講座1 中世世界の成立』所収・1982・学生社) ▽『世界の歴史24 変貌のインド亜大陸』荒松雄・小谷汪之執筆分(1978・講談社)』
『●中国 ▽E. Reischauer, J. Fairbank & A. Cr A. Craig East Asia, Tradition and Transformation (1973, George Allen and Unwin Ltd., London) ▽M. Elvin The Pattern of the Chinese Past (1973, Eyre Methuen, London & Stanford University Press, Stanford) ▽堀敏一著『中国における中世世界の成立』(『中世史講座1 中世世界の成立』所収・1982・学生社)』
『●日本 ▽黒田俊雄著『荘園制社会』(『体系日本歴史2』1967・日本評論社) ▽黒田俊雄著『寺社勢力――もう一つの中世社会』(岩波新書) ▽永原慶二著『日本中世の社会と国家』(1982・日本放送出版協会) ▽大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店) ▽網野善彦著『無縁・公界・楽』(1978・平凡社)』

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