坂口村(読み)さかぐちむら

日本歴史地名大系 「坂口村」の解説

坂口村
さかぐちむら

[現在地名]余呉町坂口

下余呉村の南、余呉川左岸に位置し、同川に並行して北国街道が通る。東部の大箕おおみ山に菅山かんざん(もと大箕寺)がある。大箕山の西側山裾に弥生時代末期から古墳時代初期の集落跡である坂口遺跡がある。同遺跡は昭和五一年(一九七六)に発掘調査が実施され、一辺五―八メートルの方形の竪穴住居跡六棟が検出された。出土した弥生土器と古式土師器には北陸・東海・近畿の各文化の影響が認められる。

慶長七年(一六〇二)検地帳(坂口区有文書)によれば田一二町余・分米一六〇石余、畑二〇町一反余・分米一一五石余、屋敷三反余・分米四石余、名請人は当村六九のほか下余呉村三、黒田くろだ(現木之本町)一。


坂口村
さかぐちむら

[現在地名]三根町大字坂口字坂口

近世矢俣やまた郷南端の村で、筑後川の曲流に三方を囲まれ、村南部の対岸筑後国草場くさば村(現福岡県三潴みづま城島じようじま町)へは「坂口川 船渡、広サ百四十間、筑後ノ内草場ヘ越」(正保絵図)という渡場があった。現在は筑後川(明治三六年完工の放水路)と曲流した旧河道に囲まれる輪中村で、現三根町からすれば四〇〇メートル、川を隔てた飛地となっている。慶長絵図に「矢俣郷ノ内坂口村」とみえる。郷村帳には下安永しもやすなが芦原よしわらはま開平かいたい大浜おおはま中浜なかはまなどの枝村の名がみえるが、のち放水路開削によって消滅あるいは分割された村もある。

村の一部は、

<資料は省略されています>

との鍋島勝茂知行宛行状(堤家文書)でわかるように、慶長一六年(一六一一)勝茂が堤氏へ宛行っている。


坂口村
さかぐちむら

[現在地名]吉井町坂口

北はわらび(現富岡市)、西は多胡たご後賀ごか(現同上)、南は庭谷にわや(現甘楽町)、東は多胡郡小棚こたな村に接する。塩口しおぐち川が村央を南西流しほし川に合して南流し、かぶら川に注ぎ東流する。甘楽郡に属する。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳では田方一四六石二斗余・畑方八一石七斗余。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると田七町六反三畝余・畑二〇町二反四畝余。鏑川の漁猟運上として文化一四年(一八一七)に永一一〇文を納める(「鏑川通諸運上冥加役永一村限帳」加藤文書)。文久三年(一八六三)一二月、中山道松井田まついだ宿(現碓氷郡松井田町)定助郷であった黒岩くろいわ(現富岡市)伝馬休役分を、奥平おくだいら(上下)などと四ヵ村で高二九一石の代助郷を命じられたが、人馬不得手などを理由に雇料一ヵ年高一〇〇石につき三五両を分納することで免除されている(「代助郷頼一札」等松文書)


坂口村
さかぐちむら

[現在地名]鏡村しきやま 坂口

敷野山しきのやま村の西方的淵まとぶち川の発源地に立地。「土佐州郡志」は地頭分じとうぶん郷内敷野山村の小村とする。天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳でも識山しきのやま名のうちにサカクチの地名がみえる。


坂口村
さかぐちむら

[現在地名]山東町坂口

くち村の西、あね川南岸平地に立地。弥高坂口やたかさかぐち(現伊吹町)に対して田中坂口たなかさかぐち村とも称する。枝郷田中村がある。寛永石高帳・正保郷帳に村名がみえ、高一六四石余、幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android