坂本城跡(読み)さかもとじようあと

日本歴史地名大系 「坂本城跡」の解説

坂本城跡
さかもとじようあと

[現在地名]大津市下阪本三丁目

東南寺とうなんじ川河口の三角洲に位置し、琵琶湖に突き出した水城であったと推測される織豊期の城郭。元亀二年(一五七一)九月の比叡山焼打ち後、織田信長はそれまで宇佐山うさやま城にいた明智光秀に滋賀郡を与えるとともに坂本に築城を命じた(信長公記)。「永禄以来年代記」同年一二月条に「明智坂本ニ城ヲカマヘ、山領ヲ知行ス、山上ノ木マテキリ取」とあることから、城普請はすでに開始されており、「兼見卿記」同三年一二月二二日条に「明智為見廻下向坂本、(中略)城中天主作事以下、悉被見也」と記されるように、この頃には天主の造営が行われるまでに工事が進んでいた。翌年には天主の下に立つ「小座敷」への移転も行われており(同書同年六月二八日条)、城はほぼこの頃までには完成していたのであろう。ルイス・フロイスは「日本史」のなかで、明智光秀を「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主」と評し、「かの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と記している。天正一〇年(一五八二)正月、坂本城に光秀を尋ねた吉田兼見は、小天主で光秀と対面しており(「兼見卿記」同月二〇日条)、城には大小二つの天主があったようで、光秀が精魂傾けて造った城といえよう。

信長が坂本に城を築かせたのは、京都と近江を結ぶ滋賀郡を軍事的に掌握するためとともに、琵琶湖南部の制海権掌握が目的で、当城が琵琶湖に面していたのはこのためであった。


坂本城跡
さかもとじようあと

[現在地名]姫路市書写

書写山山麓の西坂本集落の南側、夢前ゆめさき川の河岸段丘の縁辺部に築かれた室町時代の平城跡。堀之ほりの城とよばれ、「播磨鑑」など近世の地誌では応永二九年(一四二二)赤松満祐により築城されたとされる。ただし同三年には矢野やの(現相生市)への守護役が坂本にいた目代少河氏から懸けられている(同四年一月一六日「矢野庄学衆方年貢等散用状」東寺百合文書)。このことから守護赤松氏の被官となって国衙目代職を安堵された小河氏(もと在庁官人)本拠が坂本にあり、当地が赤松氏の領国支配の一拠点となっていたことが知られる。


坂本城跡
さかもとじようあと

[現在地名]三加和町山十町 坂本

城山しろやまと称される山稜末端部に位置する。標高二八〇メートル、集落との比高約一九〇メートル。辺春へばる城・十町じつちよう城ともいう。「国誌」によると天正七年(一五七九)には辺春親宗・親行父子が在城したといい、「一統志」には同年の落城を伝える。辺春氏は田中たなか城主の和仁氏と婚姻関係にあったといわれ、同一五年の国衆一揆で和仁親実と行動をともにして滅亡する。「古城考」によれば、城の規模は東西二〇間・南北五五間・西の方九〇間・南一八〇間・筑後国境まで三〇間・東西尾根続曲輪一九〇間という。城跡は南半分が蜜柑畑によって破壊されているが、山頂部分は楕円状の平坦地(南東方向に主軸を呈し、長径三〇メートル・短径二二メートル)となっており、平坦地周囲の山稜斜面には高さ一―二・二メートルの野面積みの石塁が残る。


坂本城跡
さかもとじようあと

[現在地名]八鹿町坂本 城山

円山まるやま川右岸、坂本集落北東、標高一五三・八メートルの独立丘陵にあり、集落との比高は約一二三メートル。主郭は東西三七メートル・南北二四メートルで、主郭から東西に延びる尾根に連郭式に曲輪を配置する。主郭の東側には高さ三メートルの切岸をつくって細長い曲輪(東西四五メートル・南北一八メートル)を置き、その東と西に帯曲輪を設けている。さらにその尾根続きは小規模な堀切・竪堀で防御を固めている。主郭の西側には高さ六メートルの切岸を設け、その尾根続きに三条の堀切・竪堀と六つの小規模な曲輪を配置しており、室町期に起源をもつ城を戦国末期に畝状竪堀で改修したことがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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