城戸四郎 (きどしろう)
生没年:1894-1977(明治27-昭和52)
映画製作者。小津安二郎から山田洋次に至る松竹映画のイメージと歴史を築き上げた。東京生れ。1921年,大谷竹次郎の養子となり,松竹に入社。関東大震災後の1924年,松竹蒲田撮影所長(1936年に蒲田から大船へ撮影所が移転すると同時に大船撮影所長)。《船頭小唄》(1923)などに代表された従来の松竹映画の主流だった小唄映画や花柳界情話や家庭悲劇にあきたらず,市民生活の日常性の中に題材を求めた〈小市民映画〉を打ち出し,いわゆる〈松竹蒲田調〉(のちの〈大船調〉)の基礎をつくる。31年,日本映画のトーキー第1作《マダムと女房》を製作。38年には,《愛染かつら》を大ヒットさせ,〈すれ違い〉ということばをはやらせ,のちの《君の名は》(1953-54)に至る松竹メロドラマ路線をつくる。第2次世界大戦中は,社団法人映画公社設立とともに専務理事となるが,46年映画公社解散とともに松竹に戻り副社長となったが,47年から50年まで公職追放。54年,松竹社長,71年会長に就任。映画の基本はシナリオにあるというのが城戸理論で,〈シナリオの書けないやつは監督になれないというのが松竹独自の方針〉として撮影所のすみずみにまで浸透していたことを山田洋次監督も述懐している。75年には,〈明日の日本映画を担う有能な脚本家を育成する〉ことを目的に〈城戸賞〉を制定。また,映画以外にも,1933年,松竹東京楽劇部を〈松竹少女歌劇〉と改称,改組して,宝塚少女歌劇に対抗して黄金時代を築いた。
執筆者:広岡 勉
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城戸四郎
きどしろう
(1894―1977)
映画製作者。東京生まれ。東京帝国大学卒業後、松竹社長大谷竹次郎(おおたにたけじろう)の養子となる。1924年(大正13)松竹キネマ蒲田(かまた)撮影所長に就任。島津保次郎(やすじろう)、五所平之助(ごしょへいのすけ)、小津安二郎(おづやすじろう)、吉村公三郎(よしむらこうざぶろう)らの新進監督を積極的に起用、シナリオを重視した新しい感覚の小市民喜劇や女性映画によって、松竹を日活と並ぶ業界最大手に成長させた。1936年(昭和11)に大船へ撮影所を移転、『愛染(あいぜん)かつら』や『君の名は』など大船調といわれた女性向きのメロドラマを世に送り続けた。1954年(昭和29)松竹社長に就任、1971年に会長となる。1974年菊池寛賞受賞。1975年には優秀なシナリオの発掘を目的に城戸賞を設けた。
[千葉伸夫]
『城戸四郎著『日本映画伝――映画製作者の記録』(1956・文芸春秋新社)』
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城戸 四郎
キド シロウ
大正・昭和期の映画プロデューサー 松竹会長。
- 生年
- 明治27(1894)年8月11日
- 没年
- 昭和52(1977)年4月18日
- 出生地
- 東京市京橋区築地(現・東京都中央区)
- 旧姓(旧名)
- 北村
- 学歴〔年〕
- 東京帝国大学法学部英法科〔大正8年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- フランス芸術文化勲章,菊池寛賞(第22回)〔昭和49年〕
- 経歴
- 実家は精養軒を経営する北村家。国際信託銀行を経て、大正10年松竹キネマ合名社に入社。13年蒲田撮影所長に就任。五所平之助、小津安二郎らの新人監督を登用して新路線を敷いた。その作品は“蒲田調”“大船調”といわれ、また「愛染かつら」「君の名は」などメロドラマの製作に力を入れ、女性の観客人口を増大させた。専務、のち昭和21年副社長を経て、29年社長に就任。46年から会長。33年日本映画製作者連盟会長を兼任。
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城戸四郎【きどしろう】
映画製作者。東京生れ。1919年東京帝大法科大学卒。1921年松竹キネマに入社,1924年に松竹蒲田撮影所長となる。松竹映画の主流であった小唄映画,花柳界情話,家庭悲劇にかわり,新進の監督であった牛原虚彦(うしはらきよひこ)・島津保次郎らを登用して市民の日常性に題材を求めた小市民映画を打ち出した。また五所平之助・小津安二郎・渋谷実・木下恵介ら新人を育成し,いわゆる松竹蒲田調(のち大船調と称される)を生み出した。1938年には《愛染かつら》を大ヒットさせ,《君の名は》(1953−1954)に至る松竹メロドラマ路線をつくった。1954年松竹社長,1971年会長に就任。1975年脚本家の育成を目的に〈城戸賞〉を制定。
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城戸四郎 きど-しろう
1894-1977 大正-昭和時代の映画製作者。
明治27年8月11日生まれ。大正13年松竹キネマ蒲田撮影所所長となる。小津安二郎らの新人監督を起用,小市民の日常をえがいた蒲田調,のち大船調とよばれる女性向け路線をきずいた。「愛染かつら」「君の名は」の2大メロドラマを生み,また日本初のトーキー映画,総天然色映画を製作。昭和29年松竹社長に就任。昭和52年4月18日死去。82歳。東京出身。東京帝大卒。旧姓は北村。
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城戸 四郎 (きど しろう)
生年月日:1894年8月11日
大正時代;昭和時代の映画プロデューサー;実業家。松竹社長;日本映画製作者連盟会長
1977年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の城戸四郎の言及
【松竹[株]】より
…26年にはルナパーク社を併合し,大正期にその礎を固め,恋愛と家庭を主題とし,女性層を手堅くとらえて,のち36年以降神奈川県大船への撮影所移転に伴い〈大船調〉と呼ばれる方向を打ち出している。 さらに,製作者[城戸四郎]の強力な指導のもとで,清水宏,五所平之助,小津安二郎ら若手監督が活躍,また斎藤寅二郎監督のナンセンス喜劇,当時,量産体制に入ったレコードによる流行歌とのタイアップ企画(《愛染かつら》など)の成功などによって,急速に日本の代表的な映画会社となった。一方,20年には,洋風楽劇,歌劇を模して,後年松竹少女歌劇に発展する松竹楽劇部を創立するなど多彩な活動を試みた。…
【日本映画】より
…松本英一監督)は大当りして,主演の沢蘭子を人気スターにした。やがて蒲田撮影所が関東大震災で一時閉鎖ののち,1924年に再開されるや,撮影所長が野村芳亭(ほうてい)(1880‐1934)から[城戸(きど)四郎]に変わり,城戸四郎は新派的なものを排し,明朗で健康なユーモアと笑いに満ちた近代的感覚の映画づくりを目ざすとともに,母性愛を主とした女性映画の製作を推進した。これが〈蒲田調〉の始まりであり,小市民映画の先駆といえる島津保次郎《日曜日》(1924),田園風景のなかに人生の哀歓を情緒豊かにつづった五所平之助《からくり娘》《村の花嫁》(ともに1927),スポーツ俳優・鈴木伝明を主演に快活な青春を描いた牛原虚彦《陸の王者》《彼と東京》《彼と田園》(ともに1928),近代人の情感をユーモラスに描いた[小津安二郎]《大学は出たけれど》(1929),《東京の合唱》(1931),《生れてはみたけれど》(1932)などがつくられた。…
※「城戸四郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」