堂村(読み)つじどうむら

日本歴史地名大系 「堂村」の解説

堂村
つじどうむら

[現在地名]藤沢市辻堂・辻堂元つじどうもと町一―六丁目・辻堂太平台つじどうたいへいだい一―二丁目・辻堂東海岸つじどうひがしかいがん一―四丁目・辻堂西海岸つじどうにしかいがん一―三丁目・辻堂神台つじどうかんだい一―二丁目・辻堂新つじどうしん町一―四丁目・羽鳥はとり一―五丁目・城南じようなん一丁目

南は相模湾に臨み、引地ひきじ川右岸の低地位置し、南部は砂丘地。東は鵠沼くぐいぬま村、北は羽鳥村に接する。北部を東海道・大山道が通る。「平家物語」巻一〇(海道下)にみえる「やつまと」は当地辺りの地名で、「海道記」は「八松やつまつ」と記している。建武二年(一三三五)七月北条時行の中先代の乱を鎮めるため、東海道を通って鎌倉へ下った足利尊氏軍は八月一九日「辻堂・片瀬原」での合戦後、鎌倉に入った(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」県史三)。小田原衆所領役帳には関兵部丞「五拾弐貫四百拾弐文 東郡羽鳥 辻堂」とある。

堂村
どうむら

[現在地名]金沢市堂町

小原おはら村の南、うち川の上流域最奥部の山間に位置する。昭和四四年(一九六九)に着工した内川ダム建設に伴い、翌四五年には全戸住民が移転、同五〇年にはダムの完成によって一部が水没した。南西部に後高しりたか山・阿図谷あずだに山などが連なり、その山腹を通る道は風吹かぜふき峠越と称し、鶴来つるぎ(現鶴来町)に抜ける要路であった。この道筋に沿って富樫氏家臣富坂氏の城地があったと伝え(内川の郷土史)、また横隅よこずみ谷には同じく富樫氏の家臣横隅右衛門の館跡があったという(加賀志徴)

堂村
どうむら

[現在地名]水口町やま

中山なかやま村の東にあり、おもい川右岸の丘陵上に山村やまむら神社を中心として集落がまとまる。南西はかみ村、南東はしも村。村北端は蒲生がもう郡との境をなし、集落の西を中山村(現日野町)に抜ける道が通る。村名は山村神社の観音堂にちなむか。中世は柏木かしわぎ御厨のうち上山村郷に属した。寛永石高帳・正保郷帳では上村・下村と併せて上山村としてみえ、高一千三七五石余。

堂村
つじどうむら

[現在地名]大原町中町なかまち

古町ふるまち村の南に位置し、因幡往来の宿継駅をつとめた。「東作誌」によれば讃甘さのも上庄かみしよう村は高一千四五九石余の大村であったが、宇喜多氏時代に辻堂村と下町しもまち村に分村し、のち辻堂村は西町にしまち村・今岡いまおか村を分村。さらに慶長九年(一六〇四)辻堂村は新たに上庄村を分村した。村名は村の南口にある観音堂に由来するという。また古くは長根ながね村と称し、現在も地元では「なごね」とよぶ。正保郷帳に村名がみえ、田二四〇石・畑三四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高八四石余・開高一〇石余、村位は上。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は尾崎おさき村と同様。

辻堂宿の設置は、承応三年(一六五四)に南の下町村を通っていた往来筋を当地を通る経路に変更したときとされる(岡山県史料)

堂村
どうむら

[現在地名]大津市上田上堂町かみたなかみどうちよう

芝原しばはら村の南西にあり、田上道が通る。地内教誓きようせい寺の大永三年(一五二三)の絵像裏書に「田上庄堂村」と記すという(近江栗太郡志)。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高二七〇石余。慶安高辻帳では田九九石余・畑三石余、永荒一六六石余、ほかに小物成八石余。宝暦一一年(一七六一)より大津宿の増助郷を勤め、助郷高一八九石余(西文書ほか)。江戸前期から芝原村による新田開発が進められ、慶安四年(一六五一)に五五石余、寛文五年(一六六五)には六一石余に及ぶが(中野文書)大戸だいど川の洪水による永荒地の回復が中心であったと思われる。天明五年(一七八五)庄屋の任期を二年とし、村財政の運用に監視体制をとるなどの庄屋役を定めているが、同定書を堂村惣代の名で芝原村出作百姓中にも渡している(上田上芝原町共有文書)

堂村
どうむら

[現在地名]敦賀市堂

古田苅こたかり村の南、衣掛きぬかけ山の西北麓に位置する。「滋賀県物産誌」は当村の沿革を口碑として「往昔此ニ一ノ寺院アリ此寺院ノ徒弟各一家ヲ為シ遂ニ一ノ村落ヲ為セリ故ニ堂村ト称スト」と記す。永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(善妙寺文書)に「堂村」とみえ、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図によれば高五八〇石余。正保郷帳では村切されて田方二〇三石余・畠方四石余。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書に、庄屋治郎右衛門(持高二五石余)、新山手銀四六匁余、牛馬銀一二匁余、入草銀二八匁余、雉札銀二匁、夫役七分、夫米四俵三斗余、馬足二一疋、牝馬八、外高三石余、家数二七(うち高持一四・無高一二・寺一)、人数一四二とみえる。

堂村
つじどうむら

[現在地名]今治市辻堂・横田よこた町一―四丁目

今治平野中央やや南寄りにある小村。東は徳久とくひさ村、南は八町はつちよう村、西はごう村、北は鳥生とりう村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)には村名はないが、貞享元年(一六八四)の今治藩御改革領内調書に、「郷村帳ノ外、古高郷村ノ内辻堂村」とあり、家数二六軒、人数一一五人である。慶安元年の今治御領分新高畝村人数帳に記載の「郷新村」高二六五石六斗、人数八一人がこれにあたる。

堂村
つじどうむら

[現在地名]大塔村大字辻堂

てんノ川左岸、どうひら村の対岸にある西熊野街道沿いの街村十二村じゆうにそん野長瀬のながせ組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領延宝検地による村高は五〇・〇五一石。

堂村
つじどうむら

[現在地名]有田市辻堂

近世の保田やすだ庄のうち有田川南岸にある三ヵ村の一で、星尾ほしお村の西にある。「続風土記」に「古は川原なりしといふ、今猶字に中瀬、出崎、中の島、西川、鵜瀬等の名あり、村名の義は往古辻堂ありしよりいふならん、然れとも今は其伝絶たり」とある。

堂村
つじどうむら

[現在地名]彦根市辻堂町

ほり村の南に位置。慶長高辻帳に村名がみえ高二四二石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ七分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報