堺村(読み)さかいむら

日本歴史地名大系 「堺村」の解説

堺村
さかいむら

[現在地名]南部町堺

埴田はねた村の南にあり、南部湾の南端森の鼻もりのはなを中心に東と西に延びた海浜に沿った漁村中世には高野山領南部庄の一部であったと思われる。慶長検地高目録では村高一七六石余。宝暦一〇年(一七六〇)の南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)によれば、田畑一四町六反で高一七六石余、家数三〇で内訳庄屋・肝煎各一、役家七、無役家二一、人数一七八、牛一二、舟一一、地引網四、海老網八〇把、池六。南部組に属し、和歌山藩田辺領。

集落北西の山際西山浄土宗の万徳山常福じようふく寺がある。本尊阿弥陀如来。寛文六年(一六六六)の南部組・南部川組寺々書上ケ控(「日高郡誌」所収)によると、一二〇年ほど前から聖永(元禄三年没)までの三代が浄土宗超世ちようせい(現南部川村)末寺であったという。

堺村
さかいむら

[現在地名]大洲市田処たどころ さかい

境村とも書く。現大洲市の最北端、矢落やおち川の支流境川流域で、標高三〇〇―五〇〇メートルの山村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「境村 日損所、茅山有」とあり、村高七〇石余の小村。大洲藩領。宝暦一二年(一七六二)の「紙御役所御仕法旧記」(曾根家文書)によれば、村内に半紙漉九人がいる。

堺村
さかいむら

[現在地名]長岡市堺町

南は喜多きた村、東は古正寺こしようじ村、北は雨池あまいけ村、西は高瀬たかせ村に道が通じる。天正村名考(温古之栞)に「さかひ五十三軒」「さかひ底八軒」とある。前者は堺村本村をいい、後者は本村の東方三〇〇メートルほど離れた地にある江底えそこをさす。正保国絵図では「境新田」高七一〇石余とあり長岡藩領。元禄郷帳では高九一三石五斗余。元文(一七三六―四一)の頃、当村庄屋左治左衛門と福道ふくみち村庄屋田所家により古新田(現在福戸町地籍)が開発されたが、その経緯は当村庄屋の開発申請に対して福道村庄屋は自村の不利を訴え、ために両庄屋に開発権利が分れたことによる。

堺村
さかいむら

康永二年(一三四三)四月一〇日、沙弥琳覚から「三毛南郷堺村」の田地安楽寺(太宰府天満宮)の日別供米料足として寄進された(「沙弥琳覚寄進状」太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)二)。その寄進状によれば堺村は「関東先代得宗領」で、闕所となったところを琳覚の兄刑部房戦死の功により父佐渡房政覚へ宛行われ、さらに琳覚に相伝された。貞和五年(一三四九)一〇月二九日の貞諄書状(同文書/南北朝遺文(九州編)三)には「三池郷米生堺村」とみえており、安楽寺領となったのち、北朝方の兵粮料所として接収されたが、神領であることが明白であるとして解除されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報