慶長八年(一六〇三)藤堂高虎の町割によって作られた町で、今治八町の一つ。中央の
享保二〇年(一七三五)の米屋町寸間改帳によると、三丁目までは大工・桶屋・紺屋・鍛冶屋・畳職などの職人が多く、四丁目では三三軒の鍛冶屋の名がみられる。また面積は二町四反七畝一四歩で、内訳は御年貢地六反二畝四歩(高七石七斗余)、町役一町三反三畝一六歩、鍛冶役四反三畝二九歩、大工役七畝、屋根役二三歩、木戸番所免許二歩であった。
東西の
水野氏時代、毎年盆前に延米といって、古米を領内酒屋へ貸付け、翌年三月に利息を加え札座に銀札で返納させたが、借米は米屋町の各自取引の米屋に預け置き、通帳で五駄・一〇駄と適宜受取っていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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