米屋町(読み)コメヤマチ

デジタル大辞泉 「米屋町」の意味・読み・例文・類語

こめや‐まち【米屋町】

米の売買取引を業とする者が集まり住む町。
東京都中央区日本橋蠣殻かきがらのこと。もと、米穀取引所があった。

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精選版 日本国語大辞典 「米屋町」の意味・読み・例文・類語

こめや‐まち【米屋町】

  1. 〘 名詞 〙 米穀取引所の付近一帯をさした呼称。東京では日本橋の蠣殻(かきがら)町をいった。

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日本歴史地名大系 「米屋町」の解説

米屋町
こめやちよう

[現在地名]岐阜市米屋町・新桜町しんさくらまち

靭屋うつぼや町の南に続く南北に延びる両側町で、南は白木しろき町に至る。町南端を東に折れると善光寺大門ぜんこうじだいもん、西に折れると米屋横こめやよこ町。尾張名古屋に向かう街道(通称御鮨街道)に沿い、岐阜町四四町の中心を占め賑った。承応町絵図に町名がみえ、東の岐阜山下(尾張藩留山)地内の南御殿所に至る道が描かれる。岐阜由緒書(小林文書)では地子免許地反別九反四畝余。「増補岐阜志略」によれば町の長さ東側七七間余・西側八二間余、家数三一。当地の賀島家は岐阜町の惣年寄、馬島家は六人役を勤めた(岐阜志略)。文政一三年(一八三〇)の岐阜持丸相撲鑑写(遠藤文書)に酒・米・薬を扱った加藤治右衛門、味噌溜を扱った山田屋源太郎、紙を扱った北国屋平八などの商人名がみえる。


米屋町
こめやまち

[現在地名]酒田市一番町いちばんちよう

堀と土手を境に本米屋もとこめや町の北にある両側町で、東は八軒はちけん町、西ははま町、当初新米屋しんこめや町と称した。米屋町組に属する。上杉氏時代には東禅寺とうぜんじ城主甘粕景継は遊佐ゆざ荒瀬あらせ両郷の年貢米を取扱うため民家を集めて町立てし、従来の米屋町を本米屋町、新しい町を新米屋町と称した(「明暦絵図書入」大泉叢誌)。上杉氏は当地を郭内に入れて三の丸とし、出羽合戦のときに兵火のため焼失した(酒田市史)


米屋町
こめやまち

[現在地名]大分市大手町おおてまち一丁目

古川ふるかわ町の東に続く町で、外堀沿いの町並は同町と一続き。東端の塩九升しよくじよう(米屋町口)は東口とよばれ、土橋で外堀(船入)を渡った東対岸は塩九升町。慶長府内絵図に町名がみえ、北頬五〇間・南頬五九間、入は北側一五間・南側一八間。宝暦六年(一七五六)閏一一月後小路うしろこうじ町からの出火で二四軒が類焼した(府内藩日記)。町郷中酒造米高寄帳(府内藩記録)によれば酒造業者が二軒あり、酒造米高は延宝七年(一六七九)一八石七斗余と二石、元禄一〇年(一六九七)一七石二斗余と五〇石一斗余、正徳五年(一七一五)五石七斗余と一六石七斗余。


米屋町
こめやちよう

[現在地名]山口市米屋町の大部分

石州街道沿いの町で、東は中市なかいち町、西は道場門前どうじようもんぜん(十日市)に続く。山口古図は「晦日市」とし「今ハ米屋町ト云フナリ」と注記する。晦日市みそかいちの名でもよんだ。

慶長一一年(一六〇六)六月二六日付の山口町医者堀道悦家文書(「閥閲録」所収)に「山口町晦日市之内、居屋敷今市之屋敷共合分銭拾壱貫四百文之事、被遣置候間、全可令知行之旨、所被仰出之如件」とある。


米屋町
こめやまち

[現在地名]大津市中央ちゆうおう二丁目・浜町はままち

坂本さかもと町の東にある浜町通の両側町。町屋敷は塩屋しおや町を挟んで東西に分れるとされているが、寛保二年町絵図では確認できない。町の西手に永原ながはら(「輿地志略」では長原屋関)、東手に紺屋こんや関が置かれている。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では町用人を含め家数合せて二六とある。町名どおり米を商う問屋や米仲仲間が集住したと思われるが、京極高次の大津城時代には塩屋町などとともに売問屋・買問屋という俵物商売をする者がいたらしい(「仲職成立次第」村上文書)


米屋町
こめやまち

[現在地名]今治市米屋町こめやちよう一―四丁目

慶長八年(一六〇三)藤堂高虎の町割によって作られた町で、今治八町の一つ。中央のほん町と室屋むろや町に挟まれる。四丁目まであり、各丁は長さ六〇間、奥行三〇間。米屋を集住させたので米屋町と称したが、四丁目は鍛冶屋が多く鍛冶屋かじや町とよばれ、現在でも鉄工所が多い。

享保二〇年(一七三五)の米屋町寸間改帳によると、三丁目までは大工・桶屋・紺屋・鍛冶屋・畳職などの職人が多く、四丁目では三三軒の鍛冶屋の名がみられる。また面積は二町四反七畝一四歩で、内訳は御年貢地六反二畝四歩(高七石七斗余)、町役一町三反三畝一六歩、鍛冶役四反三畝二九歩、大工役七畝、屋根役二三歩、木戸番所免許二歩であった。


米屋町
こめやまち

[現在地名]姫路市米屋町

姫路城北東の外曲輪に位置する町人町。鍛冶かじ町の東側、八木やぎ町の北にある。慶長六年(一六〇一)の裏書がある野里村古地図に当町辺りは「御小者衆屋敷」とみえる。芥田家伝記(芥田文書)によると、野里のざと村地内御組屋敷と鍛冶裏新町は江戸期以前から鋳物師芥田家が所持する畠地であったが、慶長六年池田輝政に取上げられた。


米屋町
こめやまち

[現在地名]水口町本町ほんまち三丁目

天王てんのう町の東、東海道を挟んだ両側町。町西端石橋いしばしの東側で東海道が三筋に分岐、中央が東海道で南は南裏通、北は北裏通と称した。町の南は市場いちば町、北は塗師屋ぬしや町に接する。中世の水口郷および水口岡山みなくちおかやま城下の西端にあたると思われる。水口宿栄枯伝馬難立訳略記(水口宿文書)によれば石橋の地を京口きようぐちと称し、毎年一月九日京口とひがし円福えんぷく寺門前の江戸口において仁王経の綱という大注連縄を張り、しばらくの間は通行人を下乗させ、被り物を脱がせたとある。


米屋町
こめやちよう

[現在地名]池田市綾羽あやは一丁目

東西のほん町境の十字路から北に延びる中之町なかんちよう(能勢街道)沿いにあり、南は東本ひがしほん町・西本町。元禄一〇年(一六九七)池田村絵図(伊居太神社蔵)によると、町内には問屋二・酒屋四・米屋五・茶屋二・味噌屋一・煙草屋一・銭屋一・干鰯屋一・薬屋二・大工一・日用八・糸引二・無記載一三と蔵一四が認められる。うち家持二五・借屋一九であった。当町は両本町とともに酒造業の中心地でもあり、また北の中之町とともに問屋街の一端を構成している。しかし明治三年(一八七〇)には、古手六、小間物・米屋各二、青物・呉服・鬢付蝋燭・紙・金物・下駄・油・餅屋・食物屋・植木商各一、農業一〇となり、うち家持は三戸に減少しており、問屋・酒屋の町としてのかつての姿はない(池田市教育研究所蔵文書)


米屋町
こめやまち

[現在地名]福山市たから

本町ほんまち筋の一筋西、福山城の外堀東側の武家屋敷町を一筋おいて東に、南北に連なる長い町筋で、北から上中下の三町に分れる。城下形成時から下米屋町の西、はま(入江)が外堀に接するところに藩の米蔵が置かれ、米屋町には米屋が並び、米座を組織していた。「水野家御時代咄伝聞伝留書」に「米屋町に限り米売買致し候様、被仰付候儀有之、是は御蔵へ近く、勝手可宜との思召ニ米屋共、米屋町ニ御集被成候」とある。

水野氏時代、毎年盆前に延米といって、古米を領内酒屋へ貸付け、翌年三月に利息を加え札座に銀札で返納させたが、借米は米屋町の各自取引の米屋に預け置き、通帳で五駄・一〇駄と適宜受取っていた。


米屋町
こめやちよう

[現在地名]伊丹市みやまえ二丁目・中央ちゆうおう三丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。ほん町筋西の路地を挟んだ両側町で、やなぎ町の南に位置し文禄伊丹之図に町名がみえる。会所入用割の間数は二九〇間半(「正心調法記」武田家文書)。天明六年(一七八六)当時江戸積み酒造家鹿島屋清右衛門が居住(「酒造家名前覚」小西家文書)。元治元年(一八六四)には酒蔵が二棟あった(有岡古続語)


米屋町
こめやまち

[現在地名]久留米市城南町じようなんまち中央町ちゆうおうまち

細工さいく町の東にあり、北は片原かたはら町。寛文十年寺社開基に米屋町とあり、元和七年(一六二一)山伏玉養院が創立されたという。元禄九年(一六九六)の白石火事では全焼(米府紀事略)。「啓忘録抜萃」では町別当井筒屋掛に属し、家数三七軒・小間数一四〇間半。享保一一年(一七二六)の田代火事で全焼(米府紀事略)。同一八年一月前年来飢饉で飢えた当町四一人に粥施行がなされた(石原家記)


米屋町
こめやちよう

下京区油小路通七条上ル

南北に通る油小路(旧油小路)を挟む両側町。町の北側は北小路通(旧北小路)、南側は七条通にも面する。

平安京の条坊では、左京七条二坊三保一二町東側と一三町西側の地。平安時代中期、当町東側は宇多上皇の御所亭子ていじ院の地であった(拾芥抄)。応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)によれば、「大夫 七条油小路東北頬 木澄」の名がみえる。

近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち若松組に所属。


米屋町
こめやちよう

[現在地名]萩市大字米屋町

西を塩屋しおや町・恵美須えびす町・かわら町、東を津守つもり町・西田にしだ町などに囲まれる町人町。北半部は北米屋町、南半部は南米屋町に分れる。

町名は毛利輝元の萩入城の時、当町で家来中への扶持方米を配分して払い渡したことからとも(萩諸町之旧記草案)、当地に米穀を売買する商人が多数居住していたためとも(萩市中覚書)いわれる。


米屋町
こめやちよう

上京区今出川通寺町東入南側

町の北は今出川いまでがわ通、西は寺町てらまち通に面する。町は真如堂跡地(→大宮町に元禄一六年(一七〇三)大宮丸太町にあった米屋町・左馬殿さまどの町の二町が所司代屋敷の拡張で移転してきたという(坊目誌)

寛保初京大絵図に「サマトノ丁」とみえ、文政三年(一八二〇)上京軒役付帳には「米屋町」「左馬殿町」とある。


米屋町
こめやまち

[現在地名]和歌山市米屋町

ほん町一丁目東側の縦町。北はたくみ町に続き、東側は南雑賀みなみさいか町。南のほり川に沿う東西の通りは物資の荷揚げなどで賑った。米問屋の町で、山形屋太郎兵衛ら藩の銀札方御用を命じられた大商人も数名居住していた(御用留)。武家は禄米を問屋に預けて代金を受取ったので、問屋は武家の金融機関としての役割も果したようである。


米屋町
こめやちよう

中京区河原町通四条上ル

町の西寄りを南北に河原町かわらまち通が通り、南側は四条河原町の交点北側にあたる。

町名は、筆描図系の寛永以後万治以前京都全図に「米や町」とみえる。木版図系では寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図に、現在よりやや北に偏った位置に「米や丁」とあり、以降、名称・位置ともに変化はなく、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成では、ほぼ現在と同じ地域に「米や丁」と記される。


米屋町
こめやちよう

上京区油小路通椹木町下ル

南北に通る油小路あぶらのこうじ(旧油小路)の両側町。平安京の条坊では左京二条二坊四保九町の東側と同一六町の西側の地。平安中期以降は中御門大路なかみかどおおじ油小路南の地。平安前期は、桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅「高陽院」にあたる(拾芥抄)。応永三二年(一四二五)一一月一〇日の酒屋交名(北野天満宮史料)から、この辺りに酒屋があったことがわかる。


米屋町
こめやちよう

[現在地名]丸亀市米屋町

城下のほぼ中央部に位置する。「西讃府志」には「通町ヨリ東ニ入リ北ニ折レテ魚屋町ニ続クヲ米屋町トス、長八十四間」とある。東はかや町、北は東から魚屋うおや町・松屋まつや町、西と南はとおり町。万治年間(一六五八―六一)の城下図には通りと町割のみが記されており、京極氏入封以後に成立したと考えられる。


米屋町
こめやまち

[現在地名]富山市堤町通りつつみちようどおり一丁目

風呂屋ふろや町の東端を南に折れた所に位置し、南北に延びる小町。田地方のうちで、万治年間富山旧市街図に町名がみえる。安永八年(一七七九)の本家数三・貸家数二(「町方旧記抜書」前田家文書)


米屋町
こめやまち

[現在地名]佐賀市白山しらやま一丁目

長崎街道は白山町から竜造寺八幡宮を北に迂回して米屋町に入る。東西へ延びる町人町。町名は寛政期(一七八九―一八〇一)以後の郷村帳に記載されるが、町並そのものは古い。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば実竈数三五、人口は男七〇人、女七四人、計一四四人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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