塩谷村(読み)しおやむら

日本歴史地名大系 「塩谷村」の解説

塩谷村
しおやむら

[現在地名]小樽市塩谷一―二丁目・塩谷・オタモイ一―三丁目・オタモイ

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三九年(一九〇六)まで存続した村。祝津しゆくつ村の西にあり、まる山の東を塩谷川が伍助沢ごすけざわ川と合流して入江に注ぐ。明治三年塩谷村が新設。同四年忍路おしよろ郡内では笊網建網着業員数二一で最多であった(忍路郡郷土誌)。同六年の「後志国地誌提要」に塩谷村とみえ、戸数一四一(うち土人三)、人口五九一(うち土人一六)、寄留戸数三、男八九・女四三。

塩谷村
しおだにむら

[現在地名]小千谷市塩谷

市域東部に突出している僻村。主要道へは古志こし竹沢たけざわ(現山古志村)を通過しなければならなかった。現在は集落の西側の雨乞あまごい山の下を隧道にして南荷頃みなみにごろへ通じる道が開けた。耕地は棚田が多くみられる。近世は長岡藩の領地交換の際に、魚沼郡塩谷村と古志郡木沢きざわ(現北魚沼郡川口町)枝村塩谷村の二村に分割。魚沼郡分をうわ村、古志郡分をした村と称した。

塩谷村
しおのやむら

[現在地名]鳳来町玖老勢くろぜ

寒狭かんさ川と海老えび(黒瀬川)とに挟まれた地域。集落は海老川右岸にあり、北はかずら村に接する。寛政一一年(一七九九)の参河八郡の絵図(下吉田高野組蔵)によると、伊那街道滝川たきがわ(現新城市)で寒狭川左岸に渡り、塩谷村に出て、ここで栃下とちした村・大石おおいし村方面へ行く伊那街道と、只持ただもち村・布里ふり村、作手つくで(現作手村)方面へ行く道とに分れる。また鳳来寺ほうらいじ道もあったので、当村は交通の要地であった。

塩谷村
しおだにむら

[現在地名]赤来町塩谷

石見国邑智おおち郡に属し、北東は出雲国飯石郡下赤名しもあかな村、南と西は井戸谷いどだに村、北は酒谷さけだに(現大和村)。村の九割は山地で、村の中央を塩谷川が深い谷の中を南流、両側の山岳もやや急峻で、平坦面が少なく耕地も少ない。塩谷川は都賀本つがほん(現大和村)で江川に合流するが、塩谷川に沿ってさかのぼる道は下赤名に至り、出雲備後道に通じる。この道は赤名出羽あかないずわ道または赤名街道ともいわれ、江川沿岸と出雲・備後を結ぶ重要交通路である。赤名町の西方、塩谷村と井戸谷村との境に篝丸かがりまる(六八八・六メートル)があり、神話名称は赤穴あかな山という。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一八〇石余・畑方一九石余、年貢高は米八二石余・銀一五五匁余、家数は本家四七・門屋七、人数一九七。

塩谷村
しおやむら

[現在地名]児玉町塩谷

塩野屋とも記し、「しおのや」とも称した。金屋かなや村の西に位置し、北は田端たばた村、新里にいさと(現神川町)。児玉党塩谷氏の名字の地とされ、中世には塩谷郷のうちに含まれていた。天正一九年(一五九一)八幡山はちまんやま城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)に「塩野屋」とみえ、村柄は上之郷で田方一五町余・畑方一九町七反余(うち屋敷二八八歩)、俵高六二八俵余。

塩谷村
しおだにむら

[現在地名]新津市塩谷

金津かなづ川流域の山間の村で、南は金津村、北は割町わりまち村。直江兼続被官河村彦左衛門から新津丹波守に宛てた年不詳の知行所之一札(「高志路」所収)に村名がみえる。慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)に毛付五四石余、荒二石五斗余とあり、同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)によれば、五斗五升の炉役が三軒に課されている。元和六年(一六二〇)には藩主溝口宣勝より塩谷村肝煎百姓宛てに開発免状(溝口家文書)が出され、三年休の恩典が付されていた。正保国絵図の村高は四〇石余。享保三年(一七一八)の新発田領郷村鑑(新津市誌)には家数一八・人数九二とあり、大豆・稗などの栽培も記される。

塩谷村
しおのたにむら

[現在地名]上市町塩谷しおんたん

大松おおまつ村の大岩おおいわ川対岸に位置する。村名は草分の源頼朝家臣塩川治部に由来するという(上市町誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高二七石、免四ツ(三箇国高物成帳)。その後享保八年(一七二三)・延享元年(一七四四)・享和三年(一八〇三)の手上高が計三石あって都合高三〇石となる(天保一一年「高免帳」杉木家文書)

塩谷村
しおたにむら

[現在地名]和知町字塩谷

長瀬ながせ村の北にある山村。北方村境には八〇〇メートルほどの山が連なり、水は村の中央に集まり南下して由良川に注ぐ。東は桑田郡(現北桑田郡美山町)、西から南は大迫おおさこ村・長瀬村、北は上乙見かみおとみ村。園部藩領。

村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳ではわずか二六石余であるが、天保郷帳では六九石余と三倍に近い増加をみている。

塩谷村
しおのたにむら

[現在地名]和歌山市塩ノ谷

じようヶ峯(二五五・四メートル)の南西にあり、南は平尾ひらお村。「続風土記」は「村の南ノ端に塩気ありて不毛の田地あり、其中十歩許を塩入といひて最塩気甚し、其辺所々塩気を含む地あり、塩ノ谷の名此より起れり」と記す。古代末期から中世にかけて山東さんどう庄に含まれた。村内を中世以来の熊野街道(小栗街道)が通る。

塩谷村
しおやむら

明治三九年(一九〇六)より昭和三三年(一九五八)まで存続した忍路おしよろ郡の村。明治三九年四月塩谷・桃内ももない・忍路・蘭島らんしま四ヵ村の合併により新たに塩谷村が成立、二級町村制施行。基幹産業は鰊漁を中心とする漁業で、農業も行われていた。同三七年忍路郡四ヵ村の農会が統合して桃内外三村農会となり、同三九年には塩谷村農会となった。同四〇年北海道大学臨海実験所が忍路に置かれた(現在の建物は大正一三年建築)

塩谷村
しおだにむら

[現在地名]川上村大字北塩谷きたしおだに

吉野川右岸、寺尾てらお村の対岸にある。川上郷のうち。慶長郷帳では村高三三・七八石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は二八・五七二石と減石した。

塩谷村
しおだにむら

[現在地名]天川村大字塩谷

てんノ川の右岸に立地し、現天川村域の西端を占める。天川三名てんかわさんみよう郷に属する。慶長郷帳では村高三二・七一四石、幕府領(代官大久保長安)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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