墓碑墓標(読み)ぼひぼひょう

改訂新版 世界大百科事典 「墓碑墓標」の意味・わかりやすい解説

墓碑・墓標 (ぼひぼひょう)

墓碑死者の名や没年,生前の事績などを記してに立てるもので,石製のほか木製や陶製のものもある。これに対して墓標は,墓地において死者の埋葬場所を標示するものをさし,自然石や加工した石のもの,木製などが多い。しかし墓碑も墓標もともに墓碑と呼んだり,墓石(はかいし)/(ぼせき)という場合もあり,石塔を用いたものは墓塔とも呼ぶ。また加工した石材を用いても,立てるのではなく平らに置くものも多い。

 死者を埋葬した上に石を置いたり立てたりすることは,旧石器時代以来みられ,墓標として埋葬地を明らかにするとともに,野獣などが遺体を掘り起こすことから守ったり,また死者の霊を鎮め,祭るためにも行われたであろう。埋葬地の標識としては,ドルメン墳丘などの巨大な構築物もその一つに数えられるが,朝鮮半島から日本の九州にかけて分布する支石墓は,遺体を土壙などに埋葬し,その上に巨石を組んだもので,墳丘をもたず,墓標ともみることができる。

 古代エジプトの第1王朝の王墓では王の名を記した墓碑を立て,ギリシアエトルリアでは死者の像を浮彫した大理石を立てている。またその後,エトルリア,ローマでも墓碑が立てられた。中国では墓のかたわらに碑を立てることは後漢代に始まるが,墓誌を墓中に納めることも後漢代から行われた。墓塔を立てるようになるのは,唐代に至ってからである。

 日本では〈喪葬令〉に〈凡(およ)そ墓は皆碑を立てよ。具官姓名之墓と記せ〉と定められ,7世紀末から9世紀にかけては,墓碑を立てたことが知られる。しかしこの内容にそった墓碑は現存せず,ただ元明天皇陵に銘文を刻んだ高さ90cm,幅60cm,厚さ30cmの方形の石があると伝えている。また群馬県高崎市の山ノ上碑横穴式石室のかたわらに立ち,放光寺の僧長利が母の黒売刀自のため681年(天武10)に立てた墓碑とする説もある。平安時代には貴族の間で多宝塔などの木造供養塔を墓に立てることが行われ,やがてこれを石塔()にかえるようになる。《慈恵大僧正御遺告》天禄3年(972)条に,死後,埋葬地に仮の卒塔婆を立て,49日以内に石塔婆を作ってこれにかえよとの遺言が記されている。10世紀には卒塔婆を墓標として立て,貴人は石製塔婆をも用いたことが知られる。鎌倉時代には禅宗高僧の墓塔として無縫塔卵塔(らんとう))が用いられ始め,供養塔として立てていた板碑も,室町時代になると墓標として用いられるようになった。一般に石造の墓碑・墓標を立てるようになるのは室町中期以後のことで,さらに位牌形の墓碑が江戸初期に現れ,やがて今日のような柱状の墓碑へと変化する。
石碑 →墓誌
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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