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増穂残口 ますほ ざんこう

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美術人名辞典の解説

増穂残口

江戸中期の国学者・戯作者。豊後の人。別号は似切斎・通称は最中(最仲)。京坂で通俗神道の運動を行い儒教・仏教を排撃した。一面、遊里研究家でもあり、著書の『艶道通鑑』は有名。寛保2年(1742)歿、88才。

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デジタル大辞泉の解説

ますほ‐ざんこう【増穂残口】

[1655~1742]江戸中期の神道家・国学者。豊後(ぶんご)の人。僧から還俗後、京都に出て神職となり、著述・講釈によって通俗神道を広めた。著「神路の天引草」「艶道通鑑」など。

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百科事典マイペディアの解説

増穂残口【ますほのこぐち】

江戸前期の神道家。豊後(ぶんご)の人。姓を十寸穂(ますほ)とも作る。《艶道通鑑(えんどうつがん)》(1715年),《直路の常世草(すぐじのとこよぐさ)》(1717年)ほか8部の著があり,〈残口八部書(ざんこうはちぶしょ)〉と呼ばれる

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

増穂残口 ますほ-ざんこう

1655-1742 江戸時代中期の神道家。
明暦元年生まれ。十寸穂最中,似切斎残口などとも称した。もと日蓮(にちれん)宗の僧。正徳(しょうとく)5年還俗(げんぞく)。「艶道通鑑(えんどうつがん)」などの残口八部書をあらわし,また辻講釈により通俗神道を説いた。のち京都の朝日神明宮の神職。寛保(かんぽう)2年9月26日死去。88歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。
【格言など】儲(もう)けべし施(ほどこ)すべし,始末(しまつ)すべし費(つか)うべし。理(ことわり)に叶(かな)い道に背(そむ)かず,程(ほど)よき程がよかるべし(「艶道通鑑」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

増穂残口

没年:寛保2.9.26(1742.10.24)
生年:明暦1(1655)
江戸中期の神道家。本姓は竹中氏というが,諱,通称など不明。諸国流浪中は待暁翁,似功斎と号した。増穂(十寸穂),残口などは還俗後の称。臼杵の松岡(大分市)に生まれる。若くして浄土僧となり,のち日蓮宗に改宗,江戸に出て谷中感応寺(のち天王寺東京都台東区)に身を寄せていたが,元禄年間(1688~1703),幕府の不受不施派禁制によって寺籍を離れた。のち諸国を流浪,神道家に転向し,正徳5(1715)年61歳で還俗し,『艶道通鑑』を出版。以後,享保4(1719)年までの4年間に『異理和理合鏡』『神路手引草』など7部の著述を刊行。儒教,仏教を退け,古道再帰,神道思想復興を主張したが,日常卑近な話題を用いてわかりやすくかみくだいた表現であるところが喜ばれた。世に残口流と称せられ,以後に流行する談義本に強い影響を与えた。享保4年京都吉田家に入門,のち五条の朝日神明社の神主となった。『神代巻』の校訂刊行といった純粋な学問的業績もある。没後も人気は衰えることなく,寛延2(1749)年には江戸中村座の顔見世芝居「御能太平記」に神道講釈師残口として登場した。<参考文献>中野三敏「増穂残口伝(上)」(近世文学史研究の会編『近世中期文学の研究』),同「増穂残口伝(下)」(『文学研究』73号)

(白石良夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

ますほのこぐち【増穂残口】

1655‐1742(明暦1‐寛保2)
江戸前期の神道家。十寸穂耶馬台(ますほやまと)または増穂最中とも称した。豊後の人。京都に出て通俗的な神道講談を行い,男女の愛情を主とし,神道理論の形で庶民的家族道徳を主張,当時の儒教的家族道徳を排した。著書に《艶道通鑑》(遊里に関する書)を含む〈残口(ざんこう)八部書〉がある。その一つ《神路手引草》は《日本思想大系》所収。【平 重道

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大辞林 第三版の解説

ますほざんこう【増穂残口】

1655~1742) 江戸中期の神道家・国学者。豊後ぶんごの人。卜部うらべ流の神道を学び、通俗神道を説き広めた。著「神路の天引草」「直路の常世草」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

増穂残口
ますほざんこう

[生]明暦1(1655).豊後
[没]寛保2(1742).9.26.
江戸時代中期の俗神道家,戯作者。通称は増穂最中,十寸穂耶馬台,号は似切斎,太仲。京都に出て近衛家に仕えたが,もとは日蓮宗の僧であったとも伝えられる。『艶道通鑑』『有像無像小社探』『直路の常世草』『神国伽麻祓』『つれづれ東雲』『異理和理合鏡』『神路手引草』『死出田分言』を8部書といい,これらの書を版行するとともに,街頭で神道講談を行なって,神道の通俗化と普及をはかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

増穂残口
ますほざんこう
(1655―1742)

江戸中期の通俗神道家。本姓不詳。似切斎(じせつさい)残口、増穂大和(やまと)とも称した。豊後(ぶんご)(大分県)の人という。初め日蓮(にちれん)宗の僧侶(そうりょ)であったが、61歳で還俗(げんぞく)、京都・五条の朝日神明宮宮司(ぐうじ)となる。『艶道通鑑(えんどうつがん)』をはじめとする通俗神道書を次々著すとともに、京坂地方を中心に街頭での神道講釈に乗り出して人気を博した。神道こそ神国相応の教えであるとして神祇(じんぎ)崇拝を勧め、儒仏を退けた。寛保(かんぽう)2年9月26日、88歳で没す。墓所は京都・吉田山東の芝の墓。[高橋美由紀]
『『神道大系 論説編22 増穂残口』(1980・神道大系編纂会) ▽『日本思想大系60 近世色道論』(1976・岩波書店)』

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世界大百科事典内の増穂残口の言及

【神道講釈】より

…日本固有の民族信仰である神道を講義するのが本来の神道講釈であるが,これを通俗講釈師が担当したため一種の話芸となった。その歴史は,ほぼ話芸としての講談の興隆とともにあり,1715年(正徳5)に増穂残口(ますほのこぐち)が出した《艶道通鑑(えんどうつがん)》は男女親和の観点を中心とする国体論,古道再帰の論であり,神道講釈書として名高い。残口は〈神主儒仏従〉の三教一致思想を講釈したが,その立場は,吉田神道を根本にして,それに伊勢神道を加えたものであったといわれる。…

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