江島其磧(読み)エジマキセキ

デジタル大辞泉 「江島其磧」の意味・読み・例文・類語

えじま‐きせき【江島其磧】

[1667~1736]江戸中期の浮世草子作者。京都の人。本名、村瀬権之丞。通称、庄左衛門・市郎左衛門。井原西鶴のあとを受け、八文字屋自笑のもとで役者評判記・浮世草子を著した。著「傾城けいせい色三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質せけんむすこかたぎ」など。江島屋其磧。

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精選版 日本国語大辞典 「江島其磧」の意味・読み・例文・類語

えじま‐きせき【江島其磧】

  1. 江戸中期の浮世草子作者。京都生まれ。本名、村瀬権之丞。通称、庄左衛門。西鶴作風をまねた役者評判記役者口三味線」を書肆八文字屋より刊行した後、浮世草子を多数執筆、八文字屋自笑の名で刊行。自笑と確執があり、書肆江島屋を起こして其磧名の作を出すが、和解後は自笑との連名で執筆刊行する。著「傾城色三味線」「傾城曲三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質」「世間娘容気」など。寛文六~享保二〇年(一六六六‐一七三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「江島其磧」の意味・わかりやすい解説

江島其磧
えじまきせき
(1666/67―1735/36)

江戸中期の浮世草子作家。本名村瀬権之丞(ごんのじょう)、通称庄左衛門。代々京都方広寺前で大仏餅(もち)を商う富裕な商家で、其磧は4代目。1699年(元禄12)に書肆(しょし)八文字八左衛門(自笑)の陰の作者として書いた役者評判記『役者口三味線(くちじゃみせん)』が好評を得、1701年(元禄14)刊の『傾城色三味線(けいせいいろじゃみせん)』で浮世草子界に登場した。同書は体裁・内容両面で斯界(しかい)に新風を吹き込む作で、続いて其磧は『風流曲三味線』等で宝永(ほうえい)期(1704~1711)を西沢一風(いっぷう)と競いつつ、1711年刊の『傾城禁短気(きんたんき)』で自らの好色物を集大成するとともに、第一人者としての地位を確立した。しかし一方で、宝永末ごろから八文字屋と利益配分などで対立、息子名義で書肆江島屋(市郎左衛門)を開業、1714年(正徳4)刊の『役者目利講(めききこう)』で内情を暴露して全面抗争に入る。この間『商人軍配団(あきんどぐんばいうちわ)』(1712)等の町人物、『世間子息気質(むすこかたぎ)』(1715)等の気質物を出して対抗するが、1718年(享保3)には和解、以後は『浮世親仁形気(おやじかたぎ)』(1720)等、其磧・自笑の連署で八文字屋から出すようになった(1721年までは江島屋との相版)。こののち、歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じょうるり)の趣向をふんだんに取り入れた時代物を制作して八文字屋全盛期を現出、量的にも質的にも西鶴(さいかく)以後最大の浮世草子作家となった。享保(きょうほう)20年6月1日、または翌元文(げんぶん)元年6月70歳で没した。

 生涯の述作およそ70。文章などで西鶴を剽窃(ひょうせつ)するところ多く、かつ西鶴のもつ現実主義的態度は放棄しているが、平明な文体や巧みな構成などで浮世草子をより大衆化させ、後期戯作(げさく)者への影響は西鶴よりも強かった。

[江本 裕]

『中村幸彦著「自笑其磧確執時代・八文字屋本版木行方」(『近世小説史の研究』所収・1961・桜楓社/『中村幸彦著述集5』1982・中央公論社に再録)』『野間光辰校注『日本古典文学大系91 浮世草子集』(1966・岩波書店)』『長谷川強著『浮世草子の研究』(1969・桜楓社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「江島其磧」の意味・わかりやすい解説

江島其磧 (えじまきせき)
生没年:1666か67-1735か36(寛文6か7-享保20か元文1)

江戸時代の浮世草子作者。本名村瀬権之丞,通称庄左衛門。京都の人。江戸時代初めより続く大仏餅屋の主人。1696年ころに浄瑠璃の作があるが,99年役者評判記《役者口三味線》を,1701年には浮世草子《けいせい色三味線》を京都の八文字屋から出してより,評判記・浮世草子の作者として活躍。前者は以前の容色本位の評判を脱して芸評書としての性格をはっきりうち出し,体裁・位付け・批評法など以後幕末・明治に至る評判記の型を定める書となった。浮世草子は初期の好色物に06年刊《風流曲三味線》,11年刊《傾城禁短気》の秀作があり,町人物の《商人軍配団(あきんどぐんばいうちわ)》(1712)に次いで執筆した気質物(かたぎもの)は,特異な性癖を基点とした視角をとって新しい短編編成法を開いた。《世間子息(むすこ)気質》(1715),《世間娘気質》(1717),《浮世親仁形気》(1720)が主要作である。後年死没に至る20年間ほどは,歌舞伎・浄瑠璃の翻案を主とした長編の時代物の作が多く,《鎌倉武家鑑》(1713)など長編の構成力の熟達を示すが,慣れによる安易に流れた作も見える。西鶴以後の浮世草子作者の第一人者で,彼の作を中心とする八文字屋刊の浮世草子を八文字屋本と呼ぶ。西鶴の鋭さはないが,趣向の珍奇,構成力の卓抜,平明通俗の表現を特色とし,当時の人気,後代への影響は西鶴をしのぐものがある。
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百科事典マイペディア 「江島其磧」の意味・わかりやすい解説

江島其磧【えじまきせき】

江戸中期の浮世草子作者。本名村瀬権之丞,通称庄左衛門。京都誓願寺通の大仏餅屋の主人。正本屋の八文字屋と組み,役者評判記,浮世草子を書く。彼の作を中心とした八文字屋刊行の浮世草子は八文字屋本と呼ばれた。一時八文字屋と別れ,新機軸の気質物(かたぎもの)を生む。のち和解。主著に《役者口三味線》《けいせい色三味線》《世間子息(むすこ)気質》など。
→関連項目好色本八文字屋自笑役者評判記

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朝日日本歴史人物事典 「江島其磧」の解説

江島其磧

没年:享保20.6.1(1735.7.20)
生年:寛文6(1666)
江戸時代の浮世草子作者。一説には寛文7(1667)年生まれ,元文1(1736)年6月没。村瀬氏。京都の富裕な大仏餅屋の4代目。初め権之丞と称し,元禄7(1694)年の父の死により家督相続したのちは,祖父や父と同じく庄左衛門と称する。祖父も父も連歌や俳諧を嗜んでいたという其磧は,家督相続後間もなく浄瑠璃の執筆を始める。ここでかかわった書肆八文字屋八左衛門こと自笑の依頼で書いた役者評判記『役者口三味線』(1699)が大いに当たり,その様式は明治に至るまで評判記の定型となる。2年後にはその成功に乗じて,浮世草子の処女作『けいせい色三味線』を出版。その後もはじめは無署名で好色物を執筆し,宝永5,6(1708,09)年ごろからは,其磧の著作に自笑が作者として署名するようになる。『傾城禁短気』(1711)に至って西沢一風を完全に凌駕した。そのころには家業が傾き,宝永7年に息子名で書肆江島屋市郎左衛門を開業。『野傾旅葛籠』(1712)の序文において,『色三味線』などが自作であると主張した。正徳3,4(1713,14)年には其磧,江島其磧を名乗るが,当初は「ギセキ」と読んだらしい。評判記『役者金化粧』(1719)にて連名で和解宣言を掲げるまでの約9年間が,其磧と自笑との確執期であるが,『世間子息気質』(1712)などの気質物や,町人物,時代物に新味をみせる。和解後はその前半期には歌舞伎を,後半期には浄瑠璃を翻案した時代物を多く著した。

(樫澤葉子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江島其磧」の意味・わかりやすい解説

江島其磧
えじまきせき

[生]寛文6(1666)/7(1667).京都
[没]享保20(1735)/元文1(1736).6.1. 京都
江戸時代中期の浮世草子作者。本名,村瀬権之丞。通称,庄左衛門,のちに市郎左衛門と称した。京都の有名な大仏餅屋の4代目の主人。初め松本治太夫のために浄瑠璃を書いたが,元禄 12 (1699) 年役者評判記『役者口三味線』を出して評判を得,同 14年同じく八文字屋から浮世草子『傾城色三味線 (けいせいじゃみせん) 』を出した。正徳1 (1711) 年『傾城禁短気』を発表してのち八文字屋自笑と争ったが享保3 (18) 年になって和解,その間,気質 (かたぎ) 物の『世間子息気質 (むすこかたぎ) 』『世間娘容気 (かたぎ) 』などを出し,新境地を開いた。西鶴に深く私淑したが,資質において西鶴に及ぶべくもなく亜流作家の位置にとどまった。しかし西鶴以後の浮世草子代表作家として後世に与えた影響は大きい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「江島其磧」の解説

江島其磧 えじま-きせき

1666/67-1735/36 江戸時代前期-中期の浮世草子作者。
寛文6/7年生まれ。京都の大仏餅屋。役者評判記「役者口三味線」,浮世草子「けいせい色三味線」を八文字屋から刊行,評判をとる。八文字屋と対立,一時江島屋を開業するが,のち和解。「世間子息気質」ほか,多数の浮世草子をのこした。享保(きょうほう)20/元文元年6月1日死去。70歳。姓は村瀬。通称は権之丞,庄左衛門。
【格言など】親苦労する,その子楽する,孫乞食する(「世間子息気質」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「江島其磧」の解説

江島其磧
えじまきせき

1666〜1735
江戸中期の浮世草子作者
京都の餅屋に生まれた。八文字屋自笑と組んで歌舞伎俳優の芸評を始め,『役者口三味線』『傾城色三味線』や気質物 (かたぎもの) と呼ばれる浮世草子の作風を開いた。

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世界大百科事典(旧版)内の江島其磧の言及

【浮世草子】より

…1700年(元禄13)ごろまで西鶴追随の好色短編集が多出し,夜食時分の《好色万金丹》(1694),雲風子林鴻(うんぷうしりんこう)の《好色産毛(うぶげ)》(1692‐96)などが優れる。1700年刊の西沢一風の《風流御前義経記(ごぜんぎけいき)》,翌年の江島其磧(きせき)の《けいせい色三味線》より浮世草子は新方向をとる。演劇色・古典色の導入,世相への敏感な反応,趣向重視,整合性志向,長編化の傾向がそれで,頂点に立つ作は其磧の《傾城禁短気》(1711)であり,その間の都の錦,北条団水,青木鷺水(ろすい),月尋堂錦文流の雑話物,武家物や実際の事件を脚色した長編作にも同じ風潮の反映がある。…

【八文字屋本】より

…狭義には,浮世草子のうち1701年(元禄14)刊江島其磧(きせき)作《けいせい色三味線》以後約70年間,京都の八文字屋八左衛門の刊行した諸作を一括して指す称。広義には,その中心作者其磧の作で他店より刊行のものを含め,さらに同時期・同傾向の他作や,1780年代に及ぶ亜流作に範囲を広げていうことがある。…

【役者口三味線】より

…役者評判記。江島其磧(きせき)著。1699年(元禄12)3月,八文字屋八左衛門刊。…

※「江島其磧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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