中国,戦国期から漢代に今の貴州省西部に建国した農耕民族。西南夷のなかでも最大の勢力をほこり,前漢の武帝の使者に漢と夜郎とではどちらが大きいかとたずねて,〈夜郎自大〉のことわざが人口に膾炙(かいしや)されることになった。武帝は,初めは南越討伐の拠点として,のちには大月氏と連合して匈奴を討つためにこの地を重視,前111年(元鼎6)牀柯(そうか)郡をおき,その酋長を王に封じたが,前漢代を通じて反乱をくりかえした。日本の桃太郎説話と酷似する〈竹生始祖伝説〉をもち,また,その後裔ともされる獠(僚)族は,干闌とよばれる高床式住居に住み,銅鼓を製作し,銅鐸のように埋納するなど,日本の民族・文化との緊密なつながりを思わせる。
執筆者:安田 二郎
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中国の西南地方にいた非漢民族の一、またその国家。前漢武帝の在位した前2世紀後半ごろはすこぶる優勢で、精兵10万を有したと伝えられる。そのため夜郎の君主の自負心は強く、漢の使者に対して夜郎と漢とどちらが大かと尋ね、「夜郎自大(じだい)」の諺(ことわざ)を生じた。現在の広西チワン族自治区の北西部、貴州省の西部、雲南省の東部を含む地域を占め、そこでは定住農耕の生活が行われていたという。夜郎の地は、雲貴高原に発し東南流する珠江(しゅこう)の上流域に位することから、武帝はこの水路を利用して南越を攻める計画をたて、唐蒙(とうもう)を遣わし夜郎の君主に説いて、漢の支配下に入らせ、その地に犍為(けんい)郡を置いた。武帝はその後、南越平定を機にさらに牂柯(そうか)郡をも設置し、夜郎に対する支配を強めたが、君主は残し、ただ王印を授け臣事させた。しかし成帝(在位前32~前7)のとき、王の興が漢に反したため殺され、国は滅んだ。なお夜郎には、祖先が竹から生まれたとする始祖伝説がある。
[藤原利一郎]
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…また,威寧(いねい)イ(彝)族回族ミヤオ(苗)族自治県の中河や赫章(かくしよう)県などでは新石器時代の石斧や陶片もみつかっている。戦国時代貴州には郢(えい)を拠点とする楚の黔中(けんちゆう)が東部にあり,貴陽付近や西部,北部では且蘭(しよらん)や夜郎などが支配していた。秦・漢になると彼らは〈西南夷〉とよばれ《史記》西南夷伝には先秦時代の西南夷の部族はみな氐(てい)の類なりとあり,多くは氐羌(ていきよう)族系の少数民族が居住するところであった。…
※「夜郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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