日本歴史地名大系 「大城跡」の解説 大城跡おわいじようあと 大阪府:南河内郡美原町西大饗村大城跡[現在地名]美原町大饗西除(にしよけ)川西岸の東大饗・西大饗の集落のほぼ中間にあり、城岸(じようがん)寺境内が中心部分と考えられる。南から北へ緩斜面をもつ低位段丘面上に位置し、もと四周に堀があり農業用水として利用されていたが、現在は埋立てられている。城岸寺(じようがんじ)城ともよばれ、寺の周辺の字名に元屋敷(もとやしき)・城(しろ)ヶ池(いけ)・城(しろ)ヶ岸(きし)・城(しろ)ノ北(きた)・北城(きたしろ)が集中して残る。正平七年(一三五二)六月日付和田助氏軍忠状(和田文書)に同六年二月一〇日のこととして「河州大饗城発向時致忠畢」とみえる。楠木正儀が証判していることから、この年から再び激化した争乱で助氏は南朝方に属し、大饗城が和泉攻略の前進基地となったことが知られる。和田氏系図(同文書)によれば、和田氏は本拠地である岸和田(現岸和田市)から大饗に帰住したと伝えるので、和田氏の居城はこの大饗城と考えられている。 大城跡おおつちじようあと 岩手県:上閉伊郡大槌町小槌村大城跡[現在地名]大槌町小鎚大槌川と小鎚(こづち)川の下流に挟まれた城山(しろやま)とよばれる尾根上にある。基部は深い二重の空堀で切られ主郭に続く。主郭には一重の帯郭をめぐらし、その先端から階段状に二の郭・三の郭・四の郭が設けられる。南北約八〇メートル・東西約五〇〇メートル、主郭の標高一三五メートル。城主の大槌氏は遠野の阿曾沼氏の一族といわれ、「参考諸家系図」阿曾沼氏の譜には朝綱の次男に「某 大槌次郎」とある。永享九年(一四三七)南部守行は阿曾沼氏を助けて大槌城攻略に向かうが、「此城ハ滄海ヲ前ニシ、高山ヲ後ニシテ、大槌小槌ノ二川ヲ左右ニシ、城ヲ其中央ニ占メ、攻之トモ不陥」(聞老遺事)、ついに流れ矢に当たって討死したという。 大城跡ふうぐすくあと 鹿児島県:大島郡天城町松原村大城跡[現在地名]天城町松原グスク跡。フウグスクヤマともいう。徳之島の北寄りの中央山地で、最高地点を標高三二九メートルとする頂上の平坦面を主体とする。当城は按司(アジ)の城と伝えられており、山頂からは徳之島の東海岸や宮(みや)城、西海岸や大和(やまと)城まで四方を見渡せる。山頂は南北三〇メートル・東西一五メートルの平坦面で、主となる曲輪であったが、現在はノロを祀るノロクメ松、グスク墓があり、中央付近に拝所があり、広場とよばれ、聖地とされている。北側には土塁があり、その西端には集石がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by