改訂新版 世界大百科事典 「大塩の乱」の意味・わかりやすい解説
大塩の乱 (おおしおのらん)
1837年(天保8)2月19日に,元大坂東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎(中斎)が,門弟の与力・同心や近隣の豪農を中心に幕政の刷新を期して大坂で起こした事件。前年12月ごろから蜂起の決意を固めてひそかに檄文を印刷し,翌年2月6日から3日間蔵書を売却して得た資金で貧民1万軒に金1朱ずつを施行(せぎよう)したが,その額は620両余に及んだ。2月19日には,恒例によって新任の西町奉行堀利堅が先任の東町奉行跡部良弼の案内で市中を巡見し,午後4時ごろ天満四軒屋敷にあった大塩邸(洗心洞塾)向いの朝岡助之丞宅に着く予定であり,両奉行をここに襲撃して挙兵するはずであった。しかし17日夜に門人の同心が密告し,19日早暁さらに2人が堀の役宅に急を告げた。当日奉行所に宿直していた門人のうち,1人は斬られ,もう1人はかろうじて脱出して天満に急報した。
檄文には,〈天より下され候村々小前の者に至る迄へ〉と上書きされ,裏には伊勢神宮の御祓がはりつけられ,2000字を超える畢生(ひつせい)の文章は格調高く蜂起の名分を説いている。すなわち飢饉にあえぐ難民をよそに江戸廻米を行い,不正を犯す奉行ら奸吏と暴利をむさぼる市中の大商人=奸商を批判し,〈万物一体の仁〉を忘れたものを誅伐することを,摂・河・泉・播の貧農層に訴えていた。予定をくりあげて決起した大塩勢は,〈救民〉の旗をひるがえして天満の東半部を一巡し,難波橋から船場に入った。一行は三陣に構え,与力・同心ら武士20人と,摂津東成郡や河内茨田郡・交野郡の村々など,おもに淀川左岸下流の農民を組織した般若寺村橋本忠兵衛,守口町白井孝右衛門,門真三番村茨田郡士ら豪農を軸に,一部被差別部落民の参加も得て,その数300~400人に及んだ。今橋筋の鴻池屋善右衛門・天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛,高麗橋筋の三井呉服店・岩城升屋,内平野町の米屋など大特権商人を襲い,市中の5分の1を焼いた。領主側は大坂城玉造口・京橋口の両定番や加番大名が近隣諸藩の支援を得て応戦した。両奉行がともに落馬して市民の失笑をかう場面もあったが,午後4時ごろ淡路町堺筋の激戦で大塩勢は崩れ敗走し,中心人物は自害したり逮捕されたりした。平八郎とその養子格之助は,2月24日夜から靱油掛町の美吉屋五郎兵衛方に潜伏していたが,3月27日に所在をつきとめられ,大坂城代土井利位(としつら)の手勢や与力内山彦次郎らに囲まれ,放火して自害した。関係者の処罰は,磔・獄門・死罪に処された40人をはじめ総数750人におよんだ。大塩に共鳴する民衆の声も少なくなく,摂津能勢や越後柏崎(生田万の乱)など諸所にその影響をうけた事件がつづいた。下級幕吏と豪農が大塩の思想にもとづいて天下の台所大坂に蜂起した意義は大きく,以後公然たる幕政批判が登場しはじめ,幕藩制の危機を天下に周知させることになった。
執筆者:酒井 一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報