大山神社(読み)おおやまずみじんじや

日本歴史地名大系 「大山神社」の解説

大山神社
おおやまずみじんじや

[現在地名]大三島町宮浦 榊山

大三島に鎮座。祭神は大山祇神で、大山積神・大山津見神とも記し、三島大神・三島大明神ともいう。式内社で、伊予の一宮でもあった。旧国幣大社。

大三島は本州の中国地方と四国本土のほぼ中央に位置し、古来瀬戸内海交通の要路である芸予海峡の中枢部にあたる。神社は海の民の神・武の神また鉱山の神として知られ、愛媛県をはじめ全国的に広く信仰される。末社三〇社。

〔祭神〕

「古事記」によると大山祇神は伊弉諾・伊弉冉の二神の子で、同書および「日本書紀」の一書では山の神とし、書紀のほかの一書は火神の分神とする。また「古事記」は、伊弉諾命が十拳剣で迦具土神を斬った時、淤縢おど山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生れたと伝え、本居宣長は、大山祇神はこれらの山神を統轄する神としている。「伊予国風土記」逸文には

<資料は省略されています>

とあり、宇知は乎知(越智)の誤記であるが、大山祇神は和多志神とも称し、百済国から渡来して摂津国三島に鎮座、のち伊予国に勧請した旨を述べている。摂津国の神社とは島下しまのしも郡にある三島鴨みしまかも神社(現大阪府高槻市)をいうが、三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、伊予国越智郡内に鴨部かもべ郷が存在したことからすると、初めは伊予国でも賀茂氏の手によって奉祀されたことが想像される。越智国造で大化改新ののち越智郡司となった越智氏は、権勢が強大となるとともに大山祇神を氏神として祭祀するようになった。

「伊予国風土記」逸文の説話には次の解釈がある。

(一)越智氏が朝鮮半島出征に際してこの神を奉じて出向し、仁徳天皇の代にこの神を戴いて帰朝したことをさしたとする。しかし仁徳天皇以前に大和朝廷外征の史実はなく、また越智氏とよぶ強大な部族の出現ははるかに時代を降る。おそらく風土記編集の頃大山祇神が百済から渡来したとの伝承が醸成されていて、百済と関係づけることで評価を高めようとする思想が広く存在していたためと考えられる。

(二)「日本霊異記」には、越智直が百済に出征して唐軍の捕虜となり、中国へ拉致され、九死に一生を得て帰国したが、朝廷は労苦をねぎらって彼の要望により越智郡がつくられたとの話がある。そこで、この伝承から大山祇神の百済から渡来した説話が生れたとする。この説話は越智郡の創設時期を推察する一参考資料ではあるが、大山祇神に関する伝承の根源とするには無理である。

社伝によると、大山祇神以外に面足尊・吾屋惶根尊・高神・闇山祇神を祭祀している。


大山神社
おおやまじんじや

[現在地名]西ノ島町美田 大津

大津おおつ集落の東に鎮座。旧村社。祭神大山祇命。「延喜式神名帳にみえる「大山オオヤマノ神社」に比定され、もとは島前どうぜん最大の焼火たくひ山を神体とする神社であったと考えられる。焼火山は古来隠岐では航海の安全を守護する神として大きな崇敬を集め、中世隠岐国の守護となった佐々木氏も安定した支配を目指すところから大山社をとりわけ重視し、その掌握に努めた。大山社側も美多みた庄の成立に伴い庄園制支配との矛盾が顕在化したため緊密な関係が生れることになったと考えられる。建治二年(一二七六)九月五日、守護佐々木泰清は百姓との対立から危機に直面していた僧慈蓮の美多庄大山社禰宜職を安堵している(「佐々木泰清袖判下文」笠置家文書)


大山神社
おおやまづみじんじや

[現在地名]相川町下山之神町

北沢さたざわの渓谷を見下ろす高台にある。旧県社。祭神は大山祇命と木花開耶姫命。慶長一〇年(一六〇五)に大久保長安が金銀山の鎮守として建立。佐州大山祇由緒書(当社蔵)に「京都の吉田唯一神道の官領長上、卜部朝臣兼治公、慶長十二年当国へ下向され、七月廿二日当社御勧請」とある。「佐渡年代記」では、長安は慶長九年四月に来島、同年八月に京都伏見ふしみに帰り、徳川家康に対し、「佐渡国の山岳金銀を出す事、夥しき事言上す」と記しているので、社殿の造営を指示して帰り、二年後に京都から卜部兼治が招請されたことになる。


大山神社
おおやまじんじや

[現在地名]宍喰町塩深

尾鼻おばなに鎮座。旧村社。主祭神は鷲住王命。創建年代は未詳ながら、祭神は脚咋別(宍喰別)の祖で、当地の開拓を推進したと伝えており、「日本書紀」履中天皇六年二月条によれば、鷲住王は力が強く、敏捷であり、阿波国の脚咋別の始祖であるという。かつては十二社権現と称し、下総大納言と俗称されていたが、天明三年(一七八三)の火災で焼失した(阿波志)。かつて明昌七年(一一九六)銘の朝鮮鐘を所蔵しており(現東京国立博物館蔵)、その伝来の経緯はつまびらかではないが、中世に倭寇あるいは海上交通に従事する人々によってもたらされたとする指摘があり、永正―天文年間(一五〇四―五五)に僧坊一二があったという当社に(阿波志)、航路の安全を祈願して奉納したという。


大山神社
おおやまづみじんじや

[現在地名]鳥栖市河内町

河内かわち町(旧河内村の本村ほんむら)に鎮座し、大山祇命を祀る。旧村社。近世では山神社という。創建については「年代明かならざるも、長門の人毛利蔵人なるもの、其家臣を率ゐ此地に移住し、山野を開墾し且植林をなすに当り、山幸の霊威を仰かんとして主神を奉斎し鎮守神と仰き安泰と福祉を祈願せり」(佐賀県神社誌要)とある。


大山神社
おおやまつみじんじや

[現在地名]園部町大河内 西垣内

大河内おおかわち集落の西北の谷に鎮座する。祭神素戔男命・伊邪那岐命伊邪那美命。旧村社。社伝によると、藤原純友の弟純索が天暦三年(九四九)八月に、紀州熊野権現を祀ったといい、また文中三年(一三七四)楠木正季が遷座したと伝える。社蔵の記録に開明山田大社とみえ、明治になって改称したと思われる。


大山神社
おおやまじんじや

[現在地名]富加町大山

道下みちしたに鎮座し、祭神は大山村の村明細帳では大山祇神を祀るというが、不詳。神体は男神一柱・女神二柱の三〇センチほどの立像。「延喜式」では「加茂郡九座」のうちにみえ、美濃国神名帳には「賀茂郡座二十九社」のうち「従五位下大山明神」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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