1876年,山口県萩で前参議・兵部大輔前原一誠ら不平士族のおこした反政府挙兵。前原一誠(佐世八十郎)は,幕末期久坂玄瑞や高杉晋作らと松下村塾に学び,討幕運動に参加,戊辰戦争では北越軍の参謀として活躍した。1869年(明治2)には参議,ついで兵部大輔となったが,当時の開明的な政府の方針や木戸孝允らと対立して翌年辞職,郷里萩に帰った。そこには1869-70年における長州藩の諸隊反乱に対する木戸らの弾圧策への不満もひそんでいた。その後,一時出京,政府への仕官をすすめられたが,前原の政府首脳部および政府の内外への諸政策への批判は深まるばかりだった。彼は76年3月28日付の佐々木男也あての手紙に,現状では〈公法〉に照らせば日本は〈半主国の体裁〉であり,その政策は〈奸臣売国の術也〉といい,〈崛起(くつき)して挽回するの機を得ば即ち起つ可し〉と述べた。かくして,熊本神風連が決起した翌々日の76年10月26日,萩の明倫館に奥平謙輔,横山俊彦らの同志と集合,〈殉国軍〉と大書した門標を掲げ,萩城下の不平士族にアピールし,また徳山にも檄(げき)をとばした。萩と徳山から山口を挟撃しようとしたのである。10月31日には山口県令関口隆吉の率いる政府軍との間に火ぶたが切られた。陸軍卿山県有朋は,木戸孝允,伊藤博文と相談のうえ,広島鎮台司令長官三浦梧楼陸軍少将を鎮圧に向かわせた。11月2~3日,萩を中心に激戦が続いたが,4日には大阪鎮台兵が山口に到着,海からも軍艦2隻が砲撃し,総勢500余人に及んだとされる前原軍も6日には鎮定された。前原は海路逃れようとしたが,途中難船,出雲宇竜港に着いて松江の獄に投ぜられ,山口に護送された。萩には臨時裁判所が開かれ,とくに司法卿大木喬任が出張し,山口裁判所判事岩村通俊が裁判長となった。12月3日,判決が下され,前原,奥平,横山ら7人(いずれも士族)は斬に処せられた。〈一筋に誠をたねと咲く花のひらきもあへす散りはつるかな〉は遺詠のひとつと伝えられる。萩の乱は,翌77年の西南戦争へと連なる士族反乱で,木戸,伊藤,山県ら長州閥の政府首脳に大きな影響を与えた。
執筆者:田中 彰
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1876年(明治9)不平士族らが、前原一誠(まえはらいっせい)を擁して、山口県萩で起こした反乱。指導者一誠は、吉田松陰(よしだしょういん)門下生として名声があり、幕末長州藩の尊攘派(そんじょうは)志士として活躍したが、同藩出身で政府の要路にたつ木戸孝允(たかよし)らの文治主義に反対して武断主義をとった。新政府では参議を経て兵部大輔(ひょうぶたいふ)となったが、1870年(明治3)病気のため辞任して萩に戻った。一方、廃藩置県、徴兵令、秩禄(ちつろく)処分、廃刀令など、政府の近代化政策の進展に不満を抱く士族たちは、1874年の佐賀の乱を皮切りに、1876年10月24日熊本に神風連(しんぷうれん)の乱、同27日福岡に秋月の乱と武力反乱を起こした。これに呼応して、一誠らは同年10月28日萩の旧藩校明倫館(めいりんかん)に200人余を集めて蜂起(ほうき)した。しかし期待した薩摩(さつま)の不平士族らの協力は得られず、広島鎮台司令長官三浦梧楼(みうらごろう)らによって1週間余で鎮圧された。一誠は島根県で捕らえられ、首謀者8人とともに12月斬首(ざんしゅ)された。翌1877年西郷隆盛(さいごうたかもり)らによる約半年にわたる西南戦争の終結により、明治政府の官僚専制制は固まった。
[小林 茂]
『富成博著『萩の乱と前原一誠』(1969・三一書房)』▽『小林茂著『長州藩明治維新史研究』(1968・未来社)』
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1876年(明治9)10月に山口県萩でおきた士族反乱。兵部大輔前原一誠(いっせい)は1870年長州(萩)藩の脱隊騒動の処分をめぐって木戸孝允(たかよし)と対立して辞職,帰藩後不平士族たちに仰がれる存在となった。74年には佐賀の乱に呼応しようとする動きを抑えたが,76年10月気脈を通じていた熊本の敬神党(神風連(じんぷうれん))と秋月士族の挙兵が伝わると,同月28日に前原も萩の明倫館で同志百数十人とともに挙兵,官金を奪い檄(げき)を飛ばして周辺士族に決起を促した。県庁を襲撃しようとしたが,鎮台兵出動の報をうけて山陽道から船で脱出をはかって失敗,萩に戻り広島鎮台司令長官三浦梧楼(ごろう)が率いる鎮台兵と戦ったが敗走した。11月5日島根県宇竜港で捕らえられ,のち前原ら幹部8人が斬刑となった。
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…70年民部大輔,71年民部卿,のち初代文部卿となり近代教育制度の基礎を築いた学制の発布に尽力し,また教部卿を兼任した。73年参議となり征韓論に反対し,大久保利通政権では参議兼司法卿として活躍,76年の萩の乱,神風連の乱後現地で処刑を指揮した。80年参議専任となるが,81年明治14年の政変以後ふたたび兼任,以後文部卿,元老院議長,枢密院議長(2度),山県有朋内閣の法相,第1次松方正義内閣の文相を歴任。…
… 76年3月に廃刀令が出され,8月に華・士族の家禄・賞典禄を廃する金禄公債証書発行条例が公布されるや,これに対する士族の抵抗はふたたび強まった。この年10月には熊本神風連(敬神党)の乱,福岡秋月の乱,山口萩の乱と士族反乱は相ついだ。神風連の乱は太田黒伴雄(大野鉄平),加屋霽堅らが洋風を嫌忌し,保守国粋を標榜しておこしたものであり,秋月の乱は旧秋月藩士宮崎車之助,磯淳らが神風連の乱に呼応したものである。…
※「萩の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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