大網村(読み)おおあみむら

日本歴史地名大系 「大網村」の解説

大網村
おおあみむら

[現在地名]大網白里町大網・みやこ

現大網白里町の西部中央に位置し、南部を小中こなか川が南東流する。東方は九十九里海岸平野が広がり、西方に下総台地が続き、土気とけ往還により結ばれる。ほん宿しゆくの通称要害山ようがいやまに大網城(要害城)跡がある。郭・腰曲輪・堀切の遺構が認められ、城手の地名が残る。板倉氏の居城と伝えるが未詳。永禄二年(一五五九)九月七日の鎌倉本興ほんこう寺の棟札には棟上げの祝言として、当村の本国ほんこく寺日典・蓮照れんしよう寺日盛が酒井胤治らとともに馬を奉納している。同一二年には酒井康治は「土気郡大網郷宮谷本国寺鎮守社春日神社」を造営したという(土気古城再興伝来記)。「家忠日記」の文禄元年(一五九二)一二月六日条には「大あミ」とある。同三年の上総国村高帳に村名がみえ、高二千六一一石。天正一九年(一五九一)に「山野辺之庄大網郷」は三浦重成の知行となったが、三浦氏断絶後は土気城(現千葉市緑区)城主酒井氏の一族板倉氏がこの地を旧本領地であるとして返還を訴え、屋敷と山林は返されたという(土気長嶺家伝調書集)

正保国絵図には大網町とあり、高二千六四一石。寛文五年(一六六五)の朱印状(寛文朱印留)には大網郷とあり、天正一九年の朱印状に任せて同郷の高一〇石が蓮照寺に与えられている。寛文八年の鷹場五郷組合帳では大網組に属し、幕府領五四〇石余、旗本内藤領二一七石・同梶川領一八〇石・同川井領一七〇石余・同戸塚領九五石余・同萩野領四〇石余。

大網村
おおあみむら

[現在地名]館山市大網

安布里あぶり村の南に位置し、村域は館山平野南部の丘陵裾部に広がる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一二八石余(うち田五四石余)、同一五年の里見家分限帳では里見家の直轄支配地になっている。正保郷帳では高一五〇石余(うち田七二石余)で旗本本多領。村内大巌だいがん院領二九石。同寺領を除いては天保村高帳でも本多領であった。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名が載り、房陽郡郷考でも武蔵忍藩領で、家数二八。嘉永七年(一八五四)の岡山藩房総預地村高帳(池田家文庫)では備前岡山藩預地。

大網村
おあみむら

[現在地名]小谷村大字北小谷きたおたり 大網

新潟県境に接し、ひめ川の右岸に臨む急峻な山地上の凹地に位置し、糸魚川いといがわ道の街村である。「おあみ」のほかに「うあみ」のよび方もある。大網を「おおあみ」とよばないで「おあみ」または「うあみ」とよぶことについては二様の解釈がある。一つは、慶安二年(一六四九)の松本領の検地において、除地下田三畝六歩の阿弥陀堂が存在したことからくるのではないかの説であり、また一つは、江戸時代を通じての主要街道である糸魚川(その一部を大網道ともいう)とは別に大網村の東方を地蔵峠じぞうとうげ道が古代から経過しており、同村の枝郷笹野ささのの辺りに尾上おがみの字名もあったことと併せて、古代の峠の神の遥拝所である「おがみ」に発する村名とも考えられるが、いずれも判然としない。

大網村
おおあみむら

[現在地名]朝日村大網

田麦俣たむぎまた村の北西、梵字ぼんじ川の右岸に位置する。弍郡詳記では小名として関屋せきや(関谷)・上村・中村・下村・七五三掛しめかけをあげ、ほかに尊覚そんかく新田がある。井岡いのおか(現鶴岡市)井岡せいこう寺の長禄二年(一四五八)三月一八日銘の懸仏(二面)には「出羽国於大絶時」との墨書裏書があり、「大絶」は大網の誤記と思われる。懸仏の願主は大宝寺だいほうじ(現鶴岡市)城主武藤氏の宿老渡野辺四郎左衛門重吉で、当地の大網館に拠ったと伝える。

大網村
おあみむら

[現在地名]田原本町大字大網おおあみ

曾我川東岸、佐味さみ金剛寺こんごうじの中間に所在。大阿弥とも書く(春日神社文書)大依網おおよさみ(部制地名)の二字化地名であろうか。

慶長郷帳の村高は一七三・一五石で大納言後室(豊臣秀長室)内の松野又右衛門領。寛永一六年(一六三九)郡山藩(郭住、本多勝行)領、延宝七年(一六七九)幕府領、享和元年(一八〇一)以降郡山藩領で、いわゆる御代知である。

大網村
おおあみむら

[現在地名]鳴瀬町小野おの

鳴瀬川左岸、小野本郷の東北方に位置。石巻いしのまき街道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田二六貫一三八文・畑一貫三七六文で、ほかに新田一九文。「封内風土記」では戸数二。当村は不明な点が多く、江戸中期廃村同然となり住人は隣の小野本郷へ移住したと考えられる。寛文年間(一六六一―七三)仙台藩の新田開発として新田につた村から矢本やもと(現矢本町)鹿妻かづまの地まで用水が開削された。

大網村
おおあみむら

[現在地名]七会村大網

涸沼ひぬま川沿いの山地にあり、北は小勝おがち村。大橋おおはし(現笠間市)から分村したと伝え(「茨城郡村々様子大概」笠間稲荷神社蔵)、江戸時代を通じて笠間藩領で「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高一九二・八五三石となり、万治三年(一六六〇)と延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて三石余を打出す。

大網村
おおあみむら

[現在地名]宇都宮市大網町

南は徳次郎とくじら村・上横倉かみよこくら村、西は徳次郎村と接する山村で、東に高山を背負い、西を日光街道が貫通する。近世末期まで宇都宮藩領。慶安郷帳に田方二三二石余・畑方八八石余とある。元禄九年(一六九六)徳次郎宿大助郷一八ヵ村の一つとなる(「徳次郎宿助郷帳」柿沼渉文書)。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では堰川除用水溜池勤高三五五石余、縄莚藁畳菰猫太等勤高二〇八石余、山家役人足青草納坪薪付馬勤高三〇〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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