大西良慶(読み)オオニシリョウケイ

デジタル大辞泉 「大西良慶」の意味・読み・例文・類語

おおにし‐りょうけい〔おほにしリヤウケイ〕【大西良慶】

[1875~1983]宗教家奈良の生まれ。興福寺住職を経て法相宗管長、のち、清水寺貫主を兼務。日本宗教者平和会議の会長を務めるなど、平和運動にも貢献。著「菜根譚百則」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「大西良慶」の意味・わかりやすい解説

大西良慶 (おおにしりょうけい)
生没年:1875-1983(明治8-昭和58)

法話を通して,仏教を今に生かす道を,大衆に説き続けた高僧。〈清水(きよみず)さん〉は清水の観音像を指すと共に同師の愛称であった。晩年は〈良慶さん〉と呼ばれ,宗派,宗教を超えて敬われた。幼名は広治。父広海,母咲枝の次男として奈良県多武峰(とうのみね)に生まれる。父は旧姓片岡,妙楽寺智光院の住職であったが,明治の排仏により還俗し大西姓を名のる。15歳で興福寺に入り,唯識佐伯定胤(さえきじよういん)に学び,25歳で興福寺231代別当,40歳で清水寺住職となり,91歳で北法相(きたほつそう)宗を設立する。日露戦争従軍僧として加わり,戦争が罪にならぬ道理はないと悟って,以後平和運動に専念する。1925年に同情週間を主唱するなど社会事業にも功績が多く,また日中友好に尽くして,趙樸初(ちようぼくしよ)と親交があった。著書に,《菜根譚講話》《夜船閑話講話》《坐禅和讃講話》《ゆっくりしいや》等があり,朝日社会福祉賞を受けている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大西良慶」の意味・わかりやすい解説

大西良慶
おおにしりょうけい
(1875―1983)

北法相宗管長。奈良県生まれ。俗名大西広次。郡山(こおりやま)中学で学んで、1889年(明治22)法相宗大本山の興福寺へ入寺。法隆寺勧学院で法相宗「唯識(ゆいしき)学」を学ぶ。1899年興福寺住職、大僧正に昇格、1905年法相宗管長。1914年(大正3)から京都の清水(きよみず)寺住職兼務、1942年(昭和17)から清水寺住職に専念する。1965年唯識の学風を高めるため、清水寺を本山とする北法相宗を創設。1954年宗教者、科学者約300人と京都仏教徒会議を結成して理事長を務める。1957年日本宗教者平和協議会会長に就任。老人福祉にも尽力し、1921年には京都で初の老人ホームを設立し、明治、大正、昭和と1世紀にわたる生涯を仏教の興隆に尽くし、世界平和と老人福祉に情熱を燃やした。1975年朝日社会福祉賞を受賞。1983年2月15日没。

[編集部 2017年5月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「大西良慶」の意味・わかりやすい解説

大西良慶【おおにしりょうけい】

僧侶。奈良県の旧多武峯(とうのみね)寺智光院住持の次男として生まれる。俗名広次。15歳で興福寺に入り,法相宗勧学院で佐伯定胤(さえきじょういん)から唯識を学ぶ。1900年に興福寺231代別当,1914年より京都清水寺住職となり,1965年北法相宗を設立して管長となる。日露戦争に従軍僧として参加,二百三高地の体験から戦争の悲惨さを説き,以後平和運動に専念。また社会事業や日中友好などに尽力した。仏教を今に生かす道をわかりやすく大衆に説き続けた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大西良慶」の解説

大西良慶 おおにし-りょうけい

1875-1983 明治-昭和時代の僧。
明治8年12月21日生まれ。法隆寺の佐伯定胤(じょういん)にまなぶ。明治32年興福寺別当,37年法相(ほっそう)宗管長。大正3年清水寺貫主となり,盂蘭盆(うらぼん)暁天講座を開講,養老院同和園を設立。昭和37年日本宗教者平和協議会会長。40年北法相宗を創設,管長となる。51年朝日社会福祉賞。昭和58年2月15日死去。107歳。奈良県出身。俗名は広次。著作に「観音経講話」など。
【格言など】いつ死んでも,ありがとうや(最晩年のことば)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android