改訂新版 世界大百科事典 「垂水荘」の意味・わかりやすい解説
垂水荘 (たるみのしょう)
摂津国豊島郡榎坂(えざか)郷(現,大阪府吹田市西部と豊中市の一部)内にあった東寺領荘園。田数は約90町。この垂水荘を含む約560町余の榎坂郷では,すでに律令制以前から水田開発が行われていた。垂水荘はとくに淀川および神崎川の沖積低湿地に位置し,郷内でも最も氾濫の影響をうけやすい低湿地であった。氾濫,荒廃,再開発などがくりかえされる中で,812年(弘仁3)の勅旨で故布施内親王の墾田の一部が東寺に施されることにより,垂水荘が成立したと伝えられる。12世紀末ごろの榎坂郷には4ヵ村(穂積,小曾禰,榎坂,垂水)があり,その中に官田の転化した諸司寮田,摂関家の私牧(のち春日社領垂水西牧),清住寺領,雲林院領などの寺社領が並行して成立しており,垂水荘も榎坂村と小曾禰村の一部にまたがっていた。平安期の垂水荘には東寺の灌頂御影供仏事料田がおかれ,下司がいて地子米120石,餅10合などを納めた。源平争乱の後同荘下司職が没官され,その跡に鎌倉幕府は出雲局を補任した。ついでその子孫は関東口入(くにゆう)により下司請所とした。これに対し東寺は1237年(嘉禎3)御影供料米42石分にあたる14町8反余を切り出して下地分割を行い,ついで同荘全体を東寺供僧中の管轄とし,専任の雑掌をおいて荘務をとらせた。しかし下司側と東寺とは,荘務権執行をめぐって争い,悪党の荘内侵入も加わって,東寺の支配は貫徹しなかった。南北朝内乱の中で下司らが没落したのち,ようやく東寺供僧中の直務が実現した。その直務も供僧らが所務雑掌や,その代官に年貢を請け負わせる方式であったから,在地有力名主らの抵抗もあって,年貢の未進とそれに伴う代官の改任が続いた。15世紀のはじめ摂津国守護の細川氏の被官榎木氏が代官になると,守護勢力を背景として荘内の〈強々番頭〉らを追放し,以後数代にわたって榎木氏が代官職を世襲して,一時は請負年貢も納入された。応仁の乱後,その榎木氏一族も,北摂の国人池田氏らの領主的支配下におかれ,垂水荘は近世村落の中に解体吸収された。
執筆者:島田 次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報