日本大百科全書(ニッポニカ) 「大隈財政」の意味・わかりやすい解説
大隈財政
おおくまざいせい
大隈重信が明治政府の財政の実権者として推進した財政政策。大隈は1869年(明治2)以降大蔵大輔として新貨条例の制定、予算制度の樹立などに力を発揮したのち、1873年10月大蔵卿に就任し、名実ともに財政の実権者となった。大隈財政の基調は、地租改正を断行して財政の基礎を固めるとともに、国債発行による政府資金の散布や国立銀行を通ずる通貨供給によって広く民間産業を育成し、輸入を防遏(ぼうあつ)し輸出を振興して国際収支を安定させることにあった。しかし、そのための紙幣増発、とくに西南戦争のための紙幣発行がインフレーションを引き起こしたため、1878年8月公債及び紙幣償還概算書をつくり、国債・紙幣の償却計画を立てたが、インフレーションが一段と進んだため翌1879年6月、この計画を改訂し、償却期間を短縮した国債紙幣償却方法(減債方案)を作成した。これが1880年9月から開始される紙幣整理の基礎となった。この過程で大隈は、官業払下げ、横浜正金銀行の設立、間接税の増徴、地租納期の繰上げなどにより国際収支・財政収支の改善に努めるとともに、外債5000万円を募集して一挙に紙幣を償却する建議(1880年5月)を提出した。この建議が松方正義らの反対で拒否され、大隈の威信は急速に低下した。その後も大隈は伊藤博文(ひろぶみ)と協力して紙幣整理に努めるが、明治14年の政変で下野し、その課題は松方財政に引き継がれていった。
[大石嘉一郎]
『中村尚美著『大隈財政の研究』(1968・校倉書房)』▽『大石嘉一郎著『自由民権と大隈・松方財政』(1989・東京大学出版会)』