江戸後期の儒学者。考証学派とされる。名は元貞、字(あざな)は公幹、通称才佐(さいざ)。錦城はその号。加賀(石川県)の人。初め山本北山(やまもとほくざん)に就いたが、幕府の医官多紀元簡(たきげんかん)の知遇を得て清(しん)朝の書籍を読み、ほとんど独学で一家の学風を樹立した。のち加賀侯に仕え、文政(ぶんせい)8年4月23日、61歳で没した。『九経談(きゅうけいだん)』(1804)はその40歳のときに刊行された代表的著作で、『孝経』と四書に、『礼記(らいき)』を除く五経を加えた九経についての論説である。その学識の淵博(えんぱく)は当時に喧伝(けんでん)され、なかでも『書経』の偽作問題を追求した考証は精密を極めている。これは彼が清朝の考証学を重んじた成果である。ただし、彼は宋学(そうがく)を実証性のないものとして批判しながら、その道義的実践性(義理)を尊重し、瑣末(さまつ)な考証に陥ることを戒めて、学問的な真偽と実践的な効用とを区別してその両面を追求する必要を説いた。実学としての儒学の実践性を重んじながら、学問としての考証学を進めたところに、彼の特色がある。
[金谷 治 2016年4月18日]
江戸後期の儒者。折衷考証学派。名は元貞,字は公幹,通称は才佐,錦城は号。加賀国大聖寺の医家に生まれた。家業の医学にあきたらず,京都の皆川淇園や江戸の山本北山に学び,その後独学で一家の学を作りあげた。その才学を認めた幕府の医官多紀桂山の後援で,ひろく名を知られるようになる。はじめ三河吉田藩に召し抱えられ,やがて郷里の加賀藩に迎えられて,俸禄300石,上士に列せられた。錦城は博覧強記,経学を主としたが,百家の書に通じたといわれる。その学風は宋学に清朝初期の考証学をとり入れたもので,考証精密,江戸後期の代表的考証学者であるとともに,幕末から明治にかけての考証学流行の道をひらいた人物である。著書には当時名著と評判が高かった《九経談》のほか,《疑問録》《仁説三書》《大学原解》《中庸原解》《尚書紀聞》《春草堂詩集》《鳳鳴集》《白湯集》,随筆集《梧窓漫筆》その他がある。
執筆者:衣笠 安喜
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