好島庄(読み)よしまのしよう

日本歴史地名大系 「好島庄」の解説

好島庄
よしまのしよう

現在のいわき市中央部から北東の海岸部にまたがる庄園。本家は山城石清水いわしみず八幡宮。領家は鎌倉(のち室町)幕府将軍家。現地には預所地頭が設置された。庄内夏井なつい川を境に東西に分れ、東庄は二郷(大野郷・衣谷郷)に分れ、紙谷かべや片寄かたよせ衣谷きぬや富田とみた田富たどみ奈木なぎ大野おおの比佐ひさ末次すえつぎなどを含む地域で、旧たいら市地区の神谷かべや・片寄・絹谷きぬや、旧四倉よつくら町地区の名木なぎ四倉大野郷、旧久之浜ひさのはま町地区、旧大久おおひさ村地区などに比定される。西庄飯野いいの郷一郷で、好島・東目ひがしめ飯野黒葛緒つづらお(白土地区か、菊池康雄氏説)新田にいだ今新田いまにいだ小島おじま仏崎ほとけざき矢河子やがわせ(谷川瀬)小谷佐古おやさく(小谷作)河中子かわなかご北目きため浦田うらだ好島田よしまだ拾五丁目じゆうごちようめなどの村村で、現在の平市街を中心にしん川の流域と上・中・下好間と今新田・小谷作などに比定される。なお久之浜町末続ひさのはままちすえつぎは東庄の北北東端と思われる。元久元年(一二〇四)九月一〇日の八幡宮領好島庄田地目録注進状案(飯野八幡宮文書、以下とくに断らない限り同文書)に「八幡宮御領好嶋御庄」とみえ、当庄の検注が行われているが、これは同年将軍頼家が暗殺され、領家である将軍が実朝に代わった代替り検注であろう。この注進状案によれば、総田数は五二三町で、大折寺三町・飯野八幡宮供田一四町七反(月別一町二反)・預所給田一〇町など本免一〇七町七反、入道殿(惣地頭岩城清隆か)二〇町・新田太郎(一分地頭岩城師隆か)一〇町など新免一一八町二反弱、新田二九町三反余を含めた二九七町六反余が定田であった。

これより先、文治二年(一一八六)七月一〇日石清水八幡宮を発った御正体が、八月一〇日に好島郷にもたらされ、赤目崎見物岡あかめがさきみものがおかに社(のちの飯野八幡宮)が建立されており、この年開発領主岩城清隆が源頼朝の政権の強大化をみて、源氏氏神である石清水八幡宮に当庄を寄進したと考えられている(年月日未詳飯野八幡宮縁起注進状案)。当時の預所は矢藤五武者頼広で、こののち各々治一年で鹿島直景・随行堂たちへと伝えられた。地頭職は岩城清隆―高宗へと父子相伝された。一方預所は正治元年(一一九九)以前に千葉介常胤が任命され、同二年常胤の子大須賀胤信となり、治八年の承元二年(一二〇八)夏井川を境界に東西二庄に分けられ、胤信の子通信に東二郷、同胤村に西一郷の預所職が分割・譲与され、治三年の建暦元年(一二一一)頃胤村に代わって三浦義村が預所に任命されたが、義村の子資村の代に宝治合戦で三浦氏は滅んだ(以上、年月日未詳飯野八幡宮縁起注進状案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「好島庄」の意味・わかりやすい解説

好島庄
よしまのしょう

陸奥(むつ)国岩城(いわき)郡に存在した石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領荘園(しょうえん)。現在の福島県いわき市平(たいら)周辺にあたる。立荘事情は不明。総田数500町を超える大荘園。東西2荘からなり、東荘預所職(ひがしのしょうあずかりどころしき)は大須賀通信(おおすかみちのぶ)の子孫に長く継承され、西荘(にしのしょう)預所職は宝治(ほうじ)合戦(1247)後、前政所執事(まんどころしつじ)伊賀光宗(いがみつむね)に伝えられた。伊賀氏は預所職のみならず、八幡宮神主職、荘内4か村の村地頭職(じとうしき)をも兼帯した。また、常陸大掾(ひたちだいじょう)家の系譜を引く岩城氏一族が荘内各村の地頭として広く根づいていた。各所職(しょしき)の補任(ぶにん)権は鎌倉幕府にあり、荘園年貢も一部、石清水八幡宮に送られるほか幕府が収得した。つまり事実上の関東御領(ごりょう)。得宗被官(とくそうひかん)的性格をもつ伊賀氏と開発者的性格の岩城氏は荒廃公田(こうでん)および山野の帰属などをめぐり対立抗争を繰り返した。

[山崎 勇]

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