妙雲寺(読み)みよううんじ

日本歴史地名大系 「妙雲寺」の解説

妙雲寺
みよううんじ

[現在地名]水戸市見川二丁目

千波せんば湖の西約一・五キロの見川みがわ小学校の西隣に位置し、山門本堂は南面して建つ。大恵山法雲院と号し、日蓮宗本尊曼荼羅

天保一〇年(一八三九)成立の「見川誌」によると、もと甲州にあって武田家の臣跡部氏と深沢氏が檀越であった。天正一〇年(一五八二)武田家滅亡ののち二氏は徳川家康に臣従し、家康の五男万千代(信吉)が武田の名跡を継いだ際に信吉付となり常陸へ移住したが、妙雲寺もそれに伴い寺籍を移したという。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)には「此寺開基ハ慶長年、先師日道聖人、下総国飯高村 取立申候、其以後慶長八年万千代様当地ヘ被成御座候ニ付、侍旦那衆御供仕参候間、日道より二代目之住(ママ)日喜も当地ヘ参、鷹師町ニて寺取立申候、其後元和二年寺町ヘ引越申候」とある。


妙雲寺
みよううんじ

[現在地名]塩原町下塩原

ほうき川左岸近くにある。甘露山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。寛文六年(一六六六)の縁起(寺蔵)によると開基は平重盛の妹妙雲尼。寿永三年(一一八四)いちたに(現兵庫県神戸市須磨区)の合戦で敗北した平氏の家人平貞能は、妙雲尼を伴い宇都宮朝綱を頼って下野に逃入った。朝綱は源頼朝をはばかり城宅に入れなかったため、貞能らは高原山を経て塩原に身を隠した。山陰に草庵を結び、重盛が帰依したという瑞像を安置、妙雲死後、その号を寺号としたという。この霊像が本尊と伝える。正和年間(一三一二―一七)仏光国師の弟子大同妙哲は、日光山中の悪竜を説法で鎮めたのち当地に廻錫、瑞像を拝し駐錫の意を決め、また邑人の懇請もあって尼寺を改めて臨済宗寺院として甘露山の山号を付し、伽藍を建立したという。


妙雲寺
みよううんじ

[現在地名]小松町妙口

妙口みようぐちの中央鶴来つるきもとにある。石鉄山と号し、高野山真言宗。本尊は聖観音

「小松邑誌」にみえる「鶴来山大義寺真言」がこれで、明治二八年(一八九五)から昭和三二年(一九五七)までは大儀だいぎ寺と称した。「伊予国周布郡地誌」には「真言宗古義派ニテ境内東西拾九間二尺、南北拾一間三尺、面積六畝二拾四歩(中略)和歌山県伊都郡高野山金剛三昧院末寺、境内支院壱宇」とある。

大儀寺の前身に妙雲寺(廃寺)があったと伝えられ、「小松邑誌」に「仏法山妙雲寺 極楽院ト号ス 真言無本寺横峯寺持ナリ 寺ニ長福寺中興南溟和尚ノ和歌ヲ蔵ス(中略)白妙の雲のこなたの檜原山さかふるまゝにふし拝みけり」とあり、蔵王権現別当であったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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