宇野村(読み)うのむら

日本歴史地名大系 「宇野村」の解説

宇野村
うのむら

[現在地名]浜田市宇野町

下府しもこう川の流域に位置し、西は上府村、南は宇津井うつい村、北は荒相あらわ村。中世は伊甘いかみ郷のうち。応安三年(一三七〇)八月一五日の益田祥兼譲状(益田家文書)に「石見国伊甘郷宇野村」とみえ、庶子家の修理亮兼連に宇野村の地頭職が譲られている。至徳二年(一三八五)には大内弘茂によって井上いかみ(伊甘)郷内宇野村が周布兼仲に預け置かれた(「大内弘茂充行状」閥閲録)。明応九年(一五〇〇)宇野村内在所が軍功の賞として福屋ふくや領主福屋氏から藤井修理亮に打渡されている(同年一二月一一日「稲光国親他三名連署打渡状」府中八幡宮文書)


宇野村
うのむら

[現在地名]羽合町宇野

宇谷うたに(現泊村)の西に位置し、伯耆街道が通る。北は日本海に面して狭小な砂浜があり、ほか三方は丘陵に囲まれる。正嘉二年(一二五八)一一月作成の東郷庄下地中分絵図に「一宮領宇野」として二宇の家が描かれ、伯耆一宮(現東郷町の倭文神社)領であった。一六世紀中頃、近江堅田衆の一人近藤三郎衛門の兄五郎衛門は「ハウキノウノトイフサト」に六、七〇人を同行して道場を建立したという(本福寺門徒記)


宇野村
うのむら

[現在地名]玉野市宇野一―八丁目

田井たい村の南に位置し、南は瀬戸内海に面する。現在は玉野市の中枢の一角を占める。古くは宇那うなの浦といわれ、地名の由来となったという。中世には港として開け、文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば米・塩などを積んだ宇野からの船が兵庫北関へ入津している。寛永備前国絵図では高二六六石余、近世初頭は海岸線が宇野八幡宮の西側まであった。


宇野村
うのむら

[現在地名]新吉富村宇野

垂水たるみ村の南、山国やまくに川中流左岸に位置し、南は土佐井つつさい(現大平村)。西境をくろ川、東部を友枝ともえだ川がそれぞれ北流する。康暦二年(一三八〇)四月日の三聖寺住持師近紛失状(田中繁三所蔵文書/南北朝遺文(九州編)五)に、当時は京都五条坊門ごじようぼうもん(現京都市下京区)にあった福昌ふくしよう(現同市上京区の福勝寺)領として、「宇野村末弘名・息元名」がみえる。


宇野村
うのむら

[現在地名]加茂町宇野

東端を南北倉見くらみ川が流れ、対岸戸賀とか村、北は西黒木にしくろぎ村、西は越畑こしはた(現鏡野町)に接する。文治六年(一一九〇)四月日の主殿寮年預解(壬生家文書)によると、主殿寮便補保であった「飯□郷」に替え、宇野村などが新たに便補保とされているが、当地との関わりは不明。永徳三年(一三八三)三月二日の肥塚範重譲状(肥塚家文書)に「宇野ふる屋」がみえ、応永三三年(一四二六)四月二七日のほうしゅん譲状(同文書)にも「うのゝふるや」があり、播磨国広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)の檀那場であったことがわかる。正保郷帳に高五三二石、うち田方四七九石余・畑方五二石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高九五石余・開高五四石余。


宇野村
うのむら

[現在地名]員弁町宇野

員弁川の北、笠田かさだ新田の西に位置する。「員弁雑志」は「神鳳鈔」に「宇野御厨」がみえるといい、また「宇治野御厨」は宇野ではないかともいっているが、「神鳳鈔」には宇野御厨はみえず、また「内宮宇治野御厨上分四丁」の記載はあるが、これと当村の関係はつまびらかではない。「五鈴遺響」によれば、古くは宇野部うのべと称したようである。江戸時代を通じて桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、家数一七、人数七九、牛二、馬六。また「員弁雑志」に載せる天保九年(一八三八)の改では家数一八、人数八三。


野村
うぐいのむら

[現在地名]黒石市牡丹平ぼたんだいら 出石田いずした

黒石城下東端の山形やまがた町に接し、西に野添のぞえ村、東に牡丹平村がある。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「欝虫野うつくいの」とある。明暦二年(一六五六)の御知行割印形之控(「黒石領御日記」市立弘前図書館蔵)に「宇くい野三千石派」とし、二五六・一五二六石とある。宇杭野とも記した。派立とあるので、明暦頃に村として成立したともいえる。御知行割印形之控と正徳二年(一七一二)の公義江被差出候郷村之写(同館蔵)の二五六・一五二六石を除けば、村高は貞享元年(一六八四)の郷村帳から明治二年(一八六九)の黒石領高辻帳(同館蔵)まで六四八・七石である。


宇野村
うのむら

[現在地名]五條市宇野町

宇智うち川に臨み、伊勢街道(紀州街道)の街村。天元三年(九八〇)とみられる太政官符案(彰考館本栄山寺文書)、寛弘六年(一〇〇九)の太政官符案(色川本栄山寺文書)に「宇智郡阿郷鵜野村」とある。前者の太政官符案に鵜野うの村墓地の四至として「東限橘坂、西限宇智河、南限吉野河、北限宇智河并佐伊谷」とある。佐伊谷さいたには現小字才谷さいたにである。


宇野村
うのむら

[現在地名]京北町大字宇野

周山しゆうざん一二ヵ村の一。四方をほぼ山に囲まれた山間集落。北東は漆谷うるしたに村、南東は浅江あざえ村、東は西にし村、西は山を隔てて船井郡

中世は吉富よしとみ新庄に含まれる。慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)以降丹波国篠山藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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