日本大百科全書(ニッポニカ) 「安中藩」の意味・わかりやすい解説
安中藩
あんなかはん
江戸時代、上野(こうずけ)国碓氷(うすい)郡安中(群馬県安中市)周辺を領有した譜代(ふだい)小藩。城は1559年(永禄2)安中忠政(ただまさ)の築城と伝え、城下は中山道(なかせんどう)の宿駅。1590年(天正18)徳川家康の関東入国のとき、箕輪(みのわ)城(群馬県高崎市)12万石に封ぜられた井伊直政(いいなおまさ)の所領となった。その後、直政が近江(おうみ)(滋賀県)に転じたあと、病弱の長子直勝が本領彦根(ひこね)を弟直孝(なおたか)に譲り、1615年(元和1)安中に入って立藩した(3万石)。子直好(なおよし)は1645年(正保2)三河国(愛知県)西尾に移り、かわって水野元綱が入封して碓氷・群馬郡下2万石を領有。元綱は1663年(寛文3)、1664年と領内の総検地を実施したが、その子元知(もととも)は精神の異常を理由に除封となり、かわって1667年(寛文7)堀田正俊(ほったまさとし)が入った。正俊は「安中御条目」などの家法を制定、所領も1678年(延宝6)、1679年両度の加増によって4万石となった。この間、老中として5代将軍徳川綱吉(つなよし)の擁立に尽力、1681年(天和1)にはその功により下総(しもうさ)(茨城県)古河(こが)(9万石)に転じ大老となった。かわって板倉重形(しげかた)が入封、重同(しげあつ)が継いだ。その後、1702年(元禄15)内藤政森が入って政里、政苗(まさみつ)と3代在封したが、1745年(延享2)ふたたび板倉氏(勝清。2万石)が入って領主の定着をみた。以後、勝暁(かつとき)、勝意(かつおき)、勝尚(かつなお)、勝明(かつあきら)、勝殷(かつまさ)と6代続き明治に至った。勝清は1767年(明和4)老中となり3万石に加増。勝明は、藩校造士館の整備、郷学桃渓(とうけい)書院の新設、「甘雨亭叢書(かんうていそうしょ)」の刊行など文教政策を進め、自ら『東還紀行』『西征紀行』を著した。また桐(きり)、漆(うるし)、杉の植林など殖産興業にも意を用い明君といわれた。幕末の藩は和宮(かずのみや)下向の警備、一揆(いっき)の鎮圧など難局に対処し、戊辰(ぼしん)の年、征東軍に服属した。なおキリスト教主義教育の新島襄(にいじまじょう)は安中藩士出身である。
1871年(明治4)廃藩となり、安中県を経て群馬県に編入された。
[山田武麿]
『『新編物語藩史 第3巻』(1976・新人物往来社)』▽『山田武麿編著『上州の諸藩』(1981・上毛新聞社)』