日本大百科全書(ニッポニカ) 「官営工業」の意味・わかりやすい解説
官営工業
かんえいこうぎょう
資本主義成立の過程で明治政府により育成された工業。欧米列強のアジア進出に対抗するため、政府は富国強兵、殖産興業の政策を掲げて、資本主義の形成を目ざした。明治維新後、政府は、権力による早急な資本主義化を推進するため、旧幕府や諸藩所管の洋式の機械工場や造船工場、軍事工場などを官収して、それを基礎に官営工業を発足させた。明治初期、それらの施設を統合、管理した中央官庁が1870年(明治3)に開設された工部省である。当時、同省管轄の官営工場としては、赤羽(あかばね)工作分局(機械)、深川(ふかがわ)工作分局(セメント)、品川(しながわ)工作分局(ガラス)と兵庫、長崎の両造船所があり、また兵部省(1872年以降、陸・海軍2省に分割)管理の東京、大阪両造兵工廠(こうしょう)、横須賀造船所などが官営軍事工場として存在した。1873年11月内務省が創設されると、富岡(とみおか)製糸場、羊毛精製の千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)、新町(しんまち)紡績所などの加工部門が官営模範工場として新設された。工部省の初期官営工場が、西欧技術の直輸入を前提とした移植産業中心であったのに対して、内務省のそれは、江戸時代以来の在来産業に注目して、その部門を育成し、増加の一途をたどっていた羊毛、綿糸などの輸入を減少させようというねらいがあった。こうした官営工場には、官営鉱山とともに、当時、イギリス人をはじめ多数の外国人技師が雇用されて技術を指導した。また政府は官営工場に多額の投資を行ったが、それらの大部分が欠損を累積させた。このため、政府は1880年「工場払下概則」を布達するとともに、翌年、農商務省の設置を図り、官営事業の整理、縮小の方針をとった。その結果、千住製絨所、新町紡績所などは農商務省に移管され、また1880年代なかば以降、官営鉱山とともに官営製糸・紡績工場や造船所などが順次民間に払い下げられた。ただ官営工場のなかでも、東京、大阪両造兵工廠や横須賀造船所などの軍事工場は払下げの対象から除外され、1890年代以降になると、東京、大阪砲兵工廠と改称され、横須賀造船所も海軍工廠に拡充されるなど、整備、統合されていった。また日清(にっしん)戦争後、銑・鋼鉄の自給の必要性から、戦時賠償金で、1897年官営八幡(やはた)製鉄所が設立されたことは、官営工業の歴史のうえで画期的な意味をもった。
[石塚裕道]
『石塚裕道著『日本資本主義成立史研究』(1973・吉川弘文館)』