富士田吉次(初代)(読み)ふじた・きちじ

朝日日本歴史人物事典 「富士田吉次(初代)」の解説

富士田吉次(初代)

没年:明和8.3.29(1771.5.13)
生年:正徳4?(1714)
江戸中期の長唄唄方。富士田派の流祖。初代坂田仙四郎(一説には初代松島庄五郎)の門人。俳名楓江。宝暦~明和期(1751~72)の名人。はじめ江戸乗物町の伏見屋の色子となり,伏見屋主人の初代都和中 より一中節を学ぶ。享保年間(1716~36),歌舞伎役者佐野川万菊の弟子となって佐野川千蔵を名乗り,若衆形,若女形を勤め,特に舞台での琴の弾き語りや豊後節を語って好評を博した。宝暦7(1757)年,一中節の太夫として2代目都和中を襲名。9年にふじ田吉次郎と改名して長唄の唄方に転じ,翌年,早くも立唄となり,12年,富士田吉次と改め,さらに吉治と改名する。従来の唄浄瑠璃に一中節,豊後節,半太夫節などの曲節を加味した唄浄瑠璃「淡島」「与作」「安宅松」などを作曲。また2代目大薩摩主膳太夫と掛合(一曲の曲中を交互に演奏する形式)で「鞭桜宇佐幣」を演奏するなど,長唄界に新機軸を打ち出すとともに,三味線方の初代杵屋忠次郎,初代杵屋作十郎,初代藤間勘左衛門,2代目杵屋六三郎らと組んで「鷺娘」「娘七種」「吉原雀」「安宅松」などの名曲を作曲するなど,長唄史上画期的な人物である。非常な美声家であり,「木戸にて今は楓江じや楓江じやと呼ぶ故,見物この幕を待ちて楓江を聞きに来る。見物を呼ぶ唄うたい,古今稀れのものなり」と称せられるほどの人気があった。吉次名義は4代で絶えている。<参考文献>黒木勘蔵「富士田吉治評伝」(『近世日本芸能記』),町田佳声・植田隆之助『現代・邦楽名鑑 長唄編』,竹内道敬「富士田吉治研究」(『論集近世文学』2巻)

(植田隆之助)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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