寺谷村
てらだにむら
[現在地名]熊野市五郷町寺谷
桃崎村の東南、大又川右岸に開け、五郷地区最大の村。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「寺谷村」と記される。のち当村から湯谷村が分村した。元禄(一六八八―一七〇四)の頃当村の中央を地蔵谷で区切り、北西部は寺谷下番村(下寺谷)、南東部は寺谷上番村(上寺谷)として分けた(紀伊続風土記)。同書に「北山流(大又川)に落合ふ所に寺あるより寺谷といへるなるへし」とある。江戸時代初期北山組に属する。
寺谷村
てらたにむら
[現在地名]西区櫨谷町寺谷・高塚台一―五丁目・糀台二―五丁目・竹の台一―六丁目・春日台一丁目・狩場台一丁目・同三―五丁目・樫野台六丁目・美賀多台二―三丁目・井吹台東町五―六丁目
櫨谷川上流域に位置し、西は福谷村。貞和二年(一三四六)四月日の佐藤性妙申状(佐藤文書)に「播州山田庄丹生寺谷上諏方尾」とある。建武二年(一三三五)以来、南朝方の北畠顕家を追って西上した陸奥国信夫(現福島県)の佐藤性妙は播磨国内を転戦しており、この地名を「丹生・寺谷・上諏方尾」とよめば当地で戦ったことになるが不詳。
寺谷村
てらやむら
[現在地名]鴻巣市寺谷
箕田村の東・北、元荒川右岸低地にある。北は南東流する元荒川を隔て埼玉郡屈巣村(現川里村)。足立郡忍領に属する(風土記稿)。吉田氏由緒書(吉田家文書)によれば、忍城(現行田市)落城後成田氏旧臣小沢杢之進(のち吉田と改姓)らが箕田のうちを開発したのが当地と伝える。寛永一二年(一六三五)の忍領在々御普請役高辻帳(中村家文書)に寺屋村とみえ高四四七石余。同一六年忍藩領となり、田園簿では田二一町三反余・畑二四町一反余。元禄一二年(一六九九)の阿部氏領知目録(阿部家文書)に村名がみえないので、同年以前に忍藩領を離れたとみられる。前掲吉田氏由緒書では元禄一一年三月に二〇〇石余が旗本島田氏へ、同一〇月残る二四七石余が旗本永田氏に宛行われたとある。
寺谷村
てらだにむら
[現在地名]磐田市寺谷
上原村の南西、天竜川下流東岸沿い平野部および磐田原台地にあり、北は掛下村(現豊岡村)。豊田郡に属する。永禄一一年(一五六八)一二月二〇日の徳川家康判物(匂坂文書)に匂坂六郎五郎に宛行われた本知行地七九〇貫のうちに寺谷がみえる。天正一七年(一五八九)七月七日には徳川氏から「寺谷平松」の兵左衛門ら三名に定書が与えられた(「徳川家七ヵ条定書写」御庫本古文書纂)。
寺谷村
てらだにむら
[現在地名]北条市高田 寺谷
高縄山の西麓にある。平野部に出た立岩川がこの村の北部で西に大きく屈曲する。東は波田村・院内村、南は院内村・善応寺村、西は八反地村、北は庄村に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の風早郡の項に「寺谷村 林少有、小川有」とみえ、村高は一三〇石二升、うち田方一〇四石九斗一升、畑方二五石一斗一升とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記、天保郷帳でも同じ村高。
寺谷村
てらだにむら
[現在地名]倉吉市寺谷
上神村の東、向山の西麓に位置する。拝領高は二一三石余、本免四ツ六分。中井氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二三〇石、竈数一〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二五六石余、竈数二一。藪役銀六匁を課されていた(藩史)。天保四年(一八三三)から五年間、年貢米三六石などが橋津御蔵(現羽合町)納から当村納に変更された(在方諸事控)。
寺谷村
てらだにむら
[現在地名]池田町寺谷
魚見川の下流西岸の山裾にある。応安三年(一三七〇)「杭谷参分弐知行之事」(梅田家文書)として杭ヶ谷名の名田開発の記録が残る。この杭ヶ谷は「越前国名蹟考」に寺谷村の枝村と記される杭ヶ谷と思われる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一三九・二九五石とある。正保郷帳によれば田方一一一石余・畠方二八石余。
寺谷村
てらだにむら
[現在地名]和田山町寺谷
円山川を挟んで東谷村の北に位置する。養父郡に属し、「延喜式」神名帳に記す養父郡三〇座の一つ「手谷神社」は当地の同名社に比定される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高二三八石余。
寺谷村
てらやつむら
[現在地名]市原市寺谷
岩崎村の南にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五五石。元禄郷帳では高二六一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二八〇石余で家数四二、旗本有馬領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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