射水(市)(読み)いみず

日本大百科全書(ニッポニカ) 「射水(市)」の意味・わかりやすい解説

射水(市)
いみず

富山県北西部にある市。2005年(平成17)新湊市(しんみなとし)、射水郡小杉町(こすぎまち)、大門町(だいもんまち)、大島町(おおしままち)、下村(しもむら)が合併して成立。市名は射水郡の郡名による。北は富山湾に臨み、市の西境を北流する庄川(しょうがわ)が富山湾に注ぐ。市域射水平野と、その周縁射水丘陵に展開。市の北西部、庄川の河口砂州上に新湊市街が、中央部東寄りの太閤山(たいこうやま)の周囲に小杉市街が広がる。北から順に、国道415号、8号、あいの風とやま鉄道(旧、JR北陸本線)、北陸自動車道が並行しながら市域を横断し、北陸自動車道の小杉インターチェンジがある。これらと交差しながら中央部を国道472号が縦断、岐阜県高山市に向かう。射水市街と高岡(たかおか)市街を結んで、第三セクターの万葉線(まんようせん)が走る。

 旧石器時代の遺跡が射水丘陵上にあり、縄文―古墳各時代の遺跡は、平野部、丘陵部に広く分布。縄文時代の串田新(くしたしん)遺跡、弥生時代から飛鳥時代の小杉丸山(こすぎまるやま)遺跡はともに国指定史跡。放生津潟(ほうじょうづがた)(現在の富山新港一帯にあった入江)は『万葉集』に「奈呉の江」(奈呉の海)とみえ、大伴家持らが遊覧した名勝であった。放生津は、放生津潟から富山湾に流れ出る内(うち)川に沿って形成された湊町で、鎌倉時代、越中国守護所が置かれる。支配拠点となった放生津からは若狭への海路なども開かれ、港湾都市として発展。南北朝期の内乱で放生津は焼失したが、室町期に守護代神保氏の下で再興された。中世、市域には京都下鴨社領の倉垣(くらがき)荘、山城石清水八幡(いわしみずはちまん)宮領の金山(かなやま)保などがあり、それぞれ域内に末社が勧請された。倉垣荘の総社とされる加茂(かも)の加茂神社は1066年(治暦2)の勧請といい、9月4日の例祭に行われる稚児舞(ちごまい)は国指定重要無形民俗文化財。放生津八幡宮の秋の祭礼には曳山13台が出て、市中を練り歩く。1585年(天正13)加賀前田氏の支配下に入り、江戸時代は加賀藩領であった。加賀藩は北陸街道を整備、下村、小杉新町、大門新町は宿駅に指定された。大門新町は庄川舟運の拠点としてもにぎわいをみせ、放生津は引き続き廻船業と漁業の拠点としてにぎわった。主産業は農業、漁業だったが、大正期から日本鋼管富山製造所(現、JFEマテリアル)、日本高周波鋼業富山工場(現、富山製造所)などが進出し、高岡工業地域の一環を形成した。1968年(昭和43)に放生津潟に富山新港が開港し、周辺には北陸電力富山新港火力発電所、三協アルミなどの工場が立地。丘陵地にも小杉流通業務団地、太閤山ニュータウンなどが建設された。富山県立大学、県環境科学センターなどの施設がある。江戸時代後期の和算家石黒信由(のぶよし)(1760―1836)は当地の出身。信由関係資料のうち、自筆稿本、絵図類など3765点(新湊博物館寄託)は国指定重要文化財。面積109.44平方キロメートル、人口9万0742(2020)。

[編集部]


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