「拾遺都名所図会」に「塚上凹にして老松四五株あり」と情景を写す。寛文版「日本歴代遷都考」に、
と記すのが、一般に伝えられた縁起である。すなわち、桓武天皇が平安京遷都に際し、王城守護のために八尺の土人形に鉄の申冑を着せ、弓矢を持たせて埋めたという。このことは「平家物語」巻五(都遷)にもみえ、伝説とはいえ相応に古来のものと察せられる。近世の地誌も同様の説を引くが、所在地については「名所都鳥」などに円山の頂上とする誤解があるほか、「京羽二重織留」には、「又一説云、将軍塚は東山泉涌寺の山上にあり。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
中国,吉林省集安県にある高句麗時代の典型的な段築式の方形積石塚。ていねいに調整した花コウ岩の石材を使って,7段の方壇をピラミッド式に築き上げたもので,頂上部の周縁に1列の孔があることや瓦の出土からみると,もとは建造物が立っていたらしい。最下段は,1辺約30m余り,最上段は,一辺約16m,基底部からの高さ約12~13mの規模を有する。最下段の4面には,各3個ずつ合計12個の,長さ3mほどの自然石を無造作に立てかけている。墓室は,第3段の上面に床面を置き,最上段の上部とほぼ同じ位置に天井石がくる横穴式石室で,羨道が南西に開口する。玄室の4辺と高さはそれぞれ約5mを測る。玄室床面には,破損した棺座が二つ横たわる。将軍塚の基段の周囲には,幅4mにわたって地覆石の敷石があり,その外側にさらに,幅30mの範囲で石敷きがある。この石敷の北東後方32mを隔てて,陪塚が数基以上配される。将軍塚から南西方1.6kmほど離れたほぼ正中線上に,広開土王陵碑が位置していることを理由に,広開土王陵とする説もある。
執筆者:西谷 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…また,《日本後紀》などに,田村麻呂は死後,勅命によって立ちながら甲冑兵仗を帯して葬られたと伝え,早くから国家に非常のあるときには鳴動すると考えられていた(《田邑麻呂伝記》など)。その塚は,平安開京にあたって皇城鎮護のために土偶を埋めた東山の将軍塚(《平家物語》など)と混交され,田村麻呂の塚とされる将軍塚は各地にある。この伝承は賽(さい)の神的な色彩を有しているが,同音の勝軍地蔵の信仰ともあいまって,その伝承の流布には愛宕聖の活躍や陰陽の徒の力もあずかったものと考えられている。…
…将軍塚または将軍山と呼ぶ古墳は各地にある。特に長野県北部に集中し,群馬県,埼玉県にも著名なものがある。…
…高句麗の古墳には,ピラミッド形の積石塚と,内部に壁画の描かれている封土塚とがある。初期には主として積石塚が作られ,中国吉林省集安にある将軍塚が有名である。封土塚の壁画は,徳興里古墳や安岳3号墳など約50ヵ所でみられる。…
…最盛期には,墳丘の裾に基壇が設けられたり,墳丘が数段に築成されるものが出現するが,その数は多くない。そして終末期には,さらに数は減少するが,集安の将軍塚でみられるように,基底部の1辺約30m,高さ約12mのピラミッド形の7段築成の大規模なものが出現して,帝王陵のような壮大さを示す。ただしこの場合,切石を整然と積んでいて,これまでみてきた積石塚とは趣を異にする。…
…埋葬施設は,前期には棺・槨の直接埋葬であったものが,中期には横穴式石室へと変わる。4世紀末ごろの輯安の将軍塚は,王陵級の墳墓であって,最も発展した積石塚の一つといえる。ピラミッド状に切石積みで7段に築成し,基底部の1辺は約30mを測る。…
※「将軍塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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