小室村(読み)こむろむら

日本歴史地名大系 「小室村」の解説

小室村
こむろむら

[現在地名]増穂町小室

舂米つきよね村とその西にある平林ひらばやし村の南に広がる山地に位置し、村域は東西三七町・南北一五町と広大である。畔沢くろさわ川に沿って谷間の道を登ると、小室盆地と称される小地域に北川きたがわ上手わで土録どろくの三集落があり、ここからさらに山に分け入ると砂垈すなんた矢川やんが泊平とまりでえらがあり、その奥の平林村・舂米村との境近くに上七尾かみなろう・下七尾・平清水ひらしみず日影林ひかげばやしの小集落が点在する。このほか大窪おおくぼ村から川に沿って舂米村・最勝寺さいしようじ村との境の小室村北東端を入ると、寺尾てろうの集落がある。北川は日蓮宗妙法みようほう寺の門前集落として発展、同所を中心とした一帯は中世には小室郷とよばれた。永禄五年(一五六二)五月一〇日、武田信玄は妙法寺に「小室之郷之内寺産五緡之分」(小室郷内五貫文)の地を寄進しており(「武田信玄判物」妙法寺文書)、天正九年(一五八一)二月十二日、武田勝頼は三ヵ条にわたる禁制を出している(「武田家禁制写」同文書)。そのなかで法華読誦の間、門前における諸商売役や押買狼藉などを禁止している。こうした妙法寺や門前に対する保護は武田氏滅亡前後の混乱のなかでも維持され、同一〇年三月五日の徳川家印判状(同文書)でも、妙法寺と門前に対する乱暴狼藉・放火などが禁止され、次いで四月には織田信長徳川家康の印判状の内容を認めて小室郷への禁制(同文書)を発給している。

小室村
おむろむら

[現在地名]梓川村大字梓 小室

黒沢くろざわ川扇状地の扇頭に位置する。文献上の初見は文禄年代(一五九二―九六)成立の筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附で、村高は八八石。これによると、上野うえの郷とは別村になっている。村高は、慶長から天保にかけて漸増しており、特に慶安検地に大きな増加がみられる。人口もこれに応じて増加している(中沢有斐氏蔵文書)。当村には近世初頭の村民構成の状況を知ることのできる慶長一九年小室おもろ御検地定納帳がある。これによると、一石以上の百姓は、一九人で、最高一五石一人、一〇石以上二人、五石以上六人、一石以上一〇人、このうち一〇石の飛騨浪人が屋敷免(一石)をもらっておらず、本百姓は一八人である。

小室村
こむろむら

[現在地名]船橋市小室町

小野田このだ村の北に位置し、西に二重ふたえ川、東と北を神崎かんざき川が流れ、谷津が広がる。台地東側の裾に集落が多く集まる。中世は臼井うすい神保じんぼう郷の内で、元徳三年(一三三一)九月四日の千葉胤貞譲状(中山法華経寺文書)に臼井庄内「古牟呂村」とみえ、同所以下所々神田などが本妙ほんみよう(のちの中山法華経寺)領として日祐(胤貞の養子、中山法華経寺三世)に譲られているが、村内には名編成がみられ、又四郎名六段・九郎三郎名四段・又五郎名一段小(もとは一町二段)・孫四郎入道名三段があり、ほかに八幡神田二段・今下内一段(もと一町五段)・うい内三反半四〇歩(もとは一町大)・さき内四反とある。康暦二年(一三八〇)三月四日には千葉胤清により同寺に寄進されているが、臼井庄神保郷内小室村一円とする(同文書)

小室村
こむろむら

[現在地名]北橘村小室

赤城山南西麓に位置し、緩傾斜の山麓原に清水しみず・山田・大谷おおやの三河川が西流して形成した浅い輻射谷と舌状台地の上に広がる村。西は八崎はつさき村・分郷八崎ぶんごうはつさき村。地域の人は「こもろ」という。通称上小室の字棗久保なつめくぼには縄文後期の住居跡が検出された小室遺跡があり、やや東の字八幡下はちまんしたの井上氏一家墓地には応永一五年(一四〇八)宝篋印塔、板碑片がある。すぐ北の字別所べつしよは江戸時代の文書に別所村と記したものがあり、これらのことから小室村の発祥地かとも思われる。

もとは八崎村のうちで貞享元年(一六八四)分村(八崎村の記録では同二年)したと伝えるが、元禄二年(一六八九)の年貢割付状(萩原文書)には「八崎村之内小室」とあって正式分村はそれ以後。

小室村
こむろむら

[現在地名]浅井町小室

黒部くろべ村の南東、川の支流田根たね川左岸に位置。北部山地の南麓に灌漑用溜池のふる池・しん池があり、古池付近に宮山みややま古墳がある。当村から東方アセビ峠を越えて郷野ごうの村・野瀬のせ村に至る道がある(昭和一〇年谷坂隧道開通)。「輿地志略」によれば、かつては弥勒寺の寺地で、弥勒寺村と称したが、のちに信濃小室の郷士小室吉左衛門・同四郎兵衛が来て小室村となったという。寛永石高帳によれば高三四一石余で小堀遠州領(幕府領か)。元禄郷帳では小室藩領だが、天明八年(一七八八)改易後は幕府領。文政一一年(一八二八)中山道柏原かしわばら宿(現坂田郡山東町)の加助郷となったが、嘉永二年(一八四九)困窮のため一五ヵ年間の休役となった(東浅井郡志)

小室村
こむろむら

[現在地名]葛生町会沢あいさわ

秋山あきやま川の支流小曾戸おそど川の上流域を占め、南は小曾戸村、西は正雲寺しよううんじ村・下仙波しもせんば村、北は下仙波村・尻内しりうち(現栃木市)都賀つが郡に属し、慶安郷帳によれば田二七四石余・畑二四石、下総古河藩領。元禄郷帳では幕府領。旧高旧領取調帳では旗本土屋領。元和三年(一六一七)当時の本百姓九・門屋百姓五(「日光御用割付」野城勝文書)。元禄一三年(一七〇〇)日光領困窮のため、幕府は当村ほか一六ヵ村を足知としたが、遠隔地のため宇都宮藩領六ヵ村とすぐに交替された(「日光領足知一件」輪王寺文書)。当村は周囲が山林で、百姓持山の木を江戸方面に売出し、天保五年(一八三四)の川辺組売木仲間連名帳(斎藤泰文書)に兵衛の名がみえる。

小室村
おもろむら

[現在地名]富来町東小室ひがしおもろ

富来川下流左岸、高田たかた村の東にあり、南東山中に発する広地ひろじ川が村の北辺を西流して富来川に流入。正保郷帳では「小室村 高田村」として合せて高付。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には「尾室村」と記され、高四六七石、免五ツ、新田高三石、小物成は山役三九八匁・苦竹役二二匁、鳥役七匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高四九五石余、免五ツ一歩、家数三四(うち頭振二)・人数一八〇、馬二七、稼はばい木・木綿。明治初年、同郡内に同字の小室こもろ(現志賀町)があるため、東小室村と改称。

小室村
こむろむら

[現在地名]川越市小室

野田のだ新田の西、入間いるま川右岸の低平地に立地。北部を赤間あかま川が東流する。豊田本とよだほん村にかけて古代条里の遺構がみられる。小田原衆所領役帳に江戸衆の大道寺氏の所領として「五拾六貫百十二文 河越卅三郷小室」とみえる。永禄四年(一五六一)五月二二日の太田資正判物写(武州文書)によれば「河越庄之内小室矢沢百姓分」が比企左馬助に与えられている。元和九年(一六二三)旗本三枝土佐守守恵の知行地となった(寛政重修諸家譜)。田園簿では田高一八五石余・畑高一七石余、旗本三枝領。元禄七年(一六九四)五月の柳沢保明領知目録には村名がみえないが、同一二年の柳沢氏領知目録(柳沢文庫蔵)には村名がみえ、この間に川越藩領となっていた。

小室村
こむろむら

[現在地名]市川町小室

千原ちわら村の北、市川右岸に位置し、神西じんさい郡に属する。東は市川を隔てて神東じんとう浅野あさの村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は屋形やかた村と同じ。正保郷帳では田方二一九石余・畑方二一石余。明治四年(一八七一)の播但農民一揆では庄屋役ら二人が贖罪金各五円二五銭の刑に処せられた(「重軽違警罪判決原本」姫路区裁判所検事局蔵)。産土神は天満神社。祭神は菅原道真・応神天皇。

小室村
こもろむら

[現在地名]志賀町小室

松木まつのき村の東にあり、集落は同村および北の直海のうみ村と続く。元和二年(一六一六)の高一〇八石余、苦竹役三匁、役棟四(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳の高も同じで、田五町五反余・畑一町六反余、免二ツ八歩三厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高一一八石、免三ツ八歩、小物成は山役五一匁・苦竹役一匁、鳥役一匁(出来)、紙役二匁(三箇国高物成帳)とあり、栗山紙の産地であった。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高一一九石余、家数二六(うち頭振一)・人数一三四、馬九、稼は小ばい木・さき織・布。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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