(山下裕二)
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室町中期の画家。大炊助(おおいのすけ),越前守また法橋となる。号は性玄。正信以来,狩野家が専門画家の道を歩むようになり,狩野派の祖とされる。武家の出身で幕府御用絵師の小栗宗湛に学んだとされるが不明。正信の名が記録に現れるのは1463年(寛正4)の相国寺雲頂院での壁画制作を伝える《蔭涼軒日録》の記事が最初で,のちしだいに幕府の御用絵師の役割を務めるようになり,足利義政や義尚の肖像を手がけたことなど,96年(明応5)までの活躍が知られる。やまと絵の作品はなかったという後世の《本朝画史》の記述に対して,当時の記録には肖像画や仏画などやまと絵系の題材に関するものが多い。このやまと絵から漢画にわたる題材の広さや技法の幅広さは,元信以後の狩野派発展の基礎となった。確実な遺品としては,やまと絵の技法による地蔵院の《騎馬武者像》(将軍義尚の像)が認められるだけである。これに対して,伝承作品はほとんどが水墨画で,《竹石白鶴図屛風》(真珠庵)のほか《周茂叔愛蓮(しゆうもしゆくあいれん)図》《崖下布袋図》などがあり,画風はそれぞれに異なっているが,共通して見られる素朴さや明るさは近世画への移行を示している。
執筆者:斉藤 昌利
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室町中期の画家。狩野派の始祖。その名前が記録に現れる最初は、1463年(寛正4)相国寺雲頂院昭堂壁画の制作で、やがて小栗宗湛(おぐりそうたん)の後を継いで幕府の御用絵師となったと推定される。83年(文明15)には足利義政(あしかがよしまさ)の東山殿常御所の障子に『瀟湘(しょうしょう)八景・耕作図』を描いたのをはじめ、義政に重用され、東求堂(とうぐどう)に『十僧図』(1485)、『涅槃(ねはん)図』(1487)などを制作したことも知られ、幕府関係の絵事を中心に活躍した。日蓮(にちれん)宗の信者でありながら、禅林ととりわけ関係深い水墨画法をよくし、さらには大和絵(やまとえ)の画技にも通暁するなど、やがて子元信によって達成されることとなる近世絵画への基礎を築いた。『周茂叔愛蓮(しゅうもしゅくあいれん)図』『布袋(ほてい)図』『山水人物図』などがその代表作である。
[榊原 悟]
『山岡泰造著『日本美術絵画全集7 狩野正信・元信』(1981・集英社)』
1434?~1530.7.9?
室町時代の画家。狩野派の祖。号は性玄・祐勢。大炊助(おおいのすけ)を称し,越前守・法橋(ほっきょう)となる。出身は不明だが,伊豆を郷国とする狩野一族とみられ,上総の狩野氏の説もある。記録上の初見は,1463年(寛正4)の相国寺雲頂院の壁画制作で,やがて小栗宗湛のあとを継いで幕府の御用絵師になったと推定。83年(文明15)には将軍足利義政の東山殿襖絵(ふすまえ)「瀟湘(しょうしょう)八景図」を描いた。96年(明応5)までの活動が知られるが,その間に記録される画事は多様で,仏画・肖像画・障壁画,さらには位牌入泥にまで及ぶ。和漢の幅広い領域をこなし,狩野派発展の基礎を築く。遺品に「周茂叔愛蓮(しゅうもしゅくあいれん)図」(国宝)「布袋図」「山水図」。
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…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。…
※「狩野正信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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