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小田原談合,小田原咄などともいう。1590年(天正18)豊臣秀吉が,後北条氏を相模小田原城に攻めたとき,城内の評定で対策が評議されたが,空しく日を過ごすのみであったという故事から,一般にいつまでもまとまらない会議,相談を指すようになった。槙島昭武《関八州古戦録》(1726成立)にこの故事が紹介され,小山田与清(ともきよ)の《松屋筆記》に,〈北条氏直愚将にして物に決断なく,群臣をして評議せしむれど,空しく座談のみにて,其実に用る事能はず,遂に廃滅せり,世にこれをとりて不成の評議を小田原評定と云へり〉とあって,江戸時代広く知られていた。なお,〈小田原評定〉を,後北条氏が,政令を議するため小田原に設けた評定所を指すという説もある。後北条氏の奉行衆が毎月2回小田原で評定した話は,三浦浄心《北条五代記》(1641)にみえている。
執筆者:下村 信博
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相談の結果がなかなかつかないこと。小田原咄(はなし)、小田原相談ともいう。小田原は神奈川県西部の現小田原市、評定は集まって相談することをいう。1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉が小田原城の北条氏を包囲攻略したとき、小田原城中では城主氏直(うじなお)らが、腹臣の家来たちと和戦いずれにするかを相談したが、なかなか決着せずに、いたずらに日時を送った故事に由来し、いつまでたってもいっこうに結論の出ない相談や会議をいう。
[棚橋正博]
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