日本歴史地名大系 「小菅神社」の解説
小菅神社
こすげじんじや
俗に
小菅山の草創については小菅神社文書の信濃国高井郡小菅山八所権現并元隆寺来由記(天文一一年五月、別当並衆徒中)・信州高井郡小菅山元隆寺略縁起(慶長五年五月、別当大聖院澄舜)などの記録がある。要約すれば、役小角が仏法を弘通する相応の地を求めて当山に登り、神木霊草に満ちた山容渓谷に心をうたれていると、地主神が現れて「この山は古仏練行の岩窟がある諸神集合の地である。当山を久住の地と定めよ。我は守護するであろう」と言い終えて姿を消した。行者は感涙にむせび東嶺の岩窟で祈誓中に小菅権現が出現し「我は馬頭観音の化身、摩多羅神である。仏法の興隆と擁護に努めよう」と告げた。行者は合掌して小菅権現を主神とし、併せて熊野・金峰・白山・立山・山王・走湯・戸隠などの八所権現を勧請して小菅神社に祀ったという。なお前記の来由記では東夷反逆が八所権現の神威によって鎮定され、大同年中(八〇六―八一〇)坂上田村麻呂によって本宮並びに
小菅山も、飯縄・戸隠に次いで平安時代末頃からしだいに栄えたものと推定される。弘治三年(一五五七)長尾景虎(上杉謙信)が武田晴信(信玄)と一戦を交えようと飯山城に出陣の際、同城鎮護の元隆寺に納めた願文(「長尾景虎願文案」上杉年譜)にも大同の草創を伝え、更に別当元隆寺が、上に八所の宝社を造立し、下に三〇坊の堂宇を構えた繁盛を記している。しかしこれら諸堂は奥院を除いてはほとんど戦禍を被った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報