小野好古(読み)おののよしふる

精選版 日本国語大辞典 「小野好古」の意味・読み・例文・類語

おの‐の‐よしふる【小野好古】

平安中期の武将歌人。篁(たかむら)の孫。道風の兄。藤原純友の乱に追捕使となり、平定。歌は「後撰集」にみえる。元慶八~安和元年(八八四‐九六八

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デジタル大辞泉 「小野好古」の意味・読み・例文・類語

おの‐の‐よしふる〔をの‐〕【小野好古】

[884~968]平安中期の武人・歌人。道風の兄。藤原純友ふじわらのすみともの乱に、追捕使ついぶしとして、これを鎮定。歌は後撰集拾遺集収載

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改訂新版 世界大百科事典 「小野好古」の意味・わかりやすい解説

小野好古 (おののよしふる)
生没年:884-968(元慶8-安和1)

平安中期の官人。大宰大弐葛絃の子,参議篁の孫。右衛門権佐などを経て右近衛少将に進み,940年(天慶3)追捕山陽南海凶賊使の長官として藤原純友追討に向かった。翌年5月純友は大宰府に放火し略奪を行ったが,追討軍はこれを追って筑前国博多津(福岡市)に攻めた。好古は陸路より,藤原慶幸,大蔵春実らは海路より進んだが,春実の奮戦はとくにめざましく,純友は大敗して伊予国に逃れ,6月に殺され,好古は8月に帰京した。以後,左中弁,大宰大弐となって参議に昇り,のち弾正大弼,左大弁に任ぜられたが,ふたたび大弐となる。従三位に叙せられ,967年(康保4)致仕,翌年85歳で没した。彼はその官歴から武官としての才幹,吏務の練達,地方行政の手腕を兼備していたと想像されるが,またすぐれた歌人でもあった。その女(野内侍)に,のちの摂政藤原伊尹が通ったが,彼女も歌人であった。
藤原純友の乱
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野好古」の意味・わかりやすい解説

小野好古
おののよしふる
(884―968)

平安中期の武人。歌人としても著名。参議篁(たかむら)の孫で、大宰大弐(だざいのだいに)葛絃(くずお)の子。書家で有名な道風(とうふう)の兄。母は王氏の女(むすめ)。右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)、中宮大進(だいしん)、右近衛(うこんえ)少将など京官を歴任する。940年(天慶3)西国を舞台に起こった藤原純友(すみとも)の乱(天慶(てんぎょう)の乱)で山陽、南海両道の追捕使(ついぶし)となり、伊予国(愛媛県)に向かい、ついで大宰府管内で略奪を働いていた純友を筑前(ちくぜん)国(福岡県)博多津(はかたのつ)に破り捕らえた。その功によって山城守(やましろのかみ)、大宰大弐などを経て参議に進み、ついで従三位(じゅさんみ)に叙せられた。康保(こうほう)5年2月14日卒す。『後撰(ごせん)集』『大和(やまと)物語』などに好古の歌がとられている。

[朧谷 寿]

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朝日日本歴史人物事典 「小野好古」の解説

小野好古

没年:安和1.2.14(968.3.15)
生年:元慶8(884)
平安中期の公卿。葛絃の次男,道風の兄。野大弐,野宰相とも。「武勇の人」として知られ,天慶3(940)年1月,藤原純友の反乱に際し山陽,南海両道の追捕使に任じられて下向,翌年5月,兵船を率いて大宰府(太宰府市)に渡り純友軍を討った。天暦1(947)年参議になる。のち2度も大宰大弐に任じられているが,祖父篁の血を継いで文雅の才もあり,康保1(964)年10月,菅原道真の廟所だった安楽寺(のち廃絶。太宰府市)で大宰府の官人を集めて残菊宴を行ったことは有名。これが当廟における同種の文芸行事のさきがけとなった。『拾遺和歌集』『後撰和歌集』などに多数の歌を残す。野内侍と呼ばれた娘も歌人。

(瀧浪貞子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小野好古」の意味・わかりやすい解説

小野好古
おののよしふる

[生]元慶8(884)
[没]安和1(968).2.14.
平安時代中期の武将。小野篁の孫。承平8 (938) 年右近衛少将に任じられ,前伊予掾藤原純友が反乱すると (→承平・天慶の乱 ) ,山陽道追捕使兼南海道追捕使となり,兵を海陸に進め,天慶4 (941) 年,筑前博多津において大勝を得る。天暦1 (947) 年に参議,康保4 (967) 年従三位。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小野好古」の解説

小野好古
おののよしふる

884~968.2.14

平安中期の公卿・歌人。父は葛絃(くずお)。祖父は篁(たかむら)。弟に道風(みちかぜ)がいる。940年(天慶3)藤原純友の乱に際し,山陽道追捕使(ついぶし)・追捕山陽南海両道凶賊使に任じられ,翌年博多津で純友を討つ。947年(天暦元)参議,2度も大宰大弐(だいに)を勤めたため野宰相(やさいしょう)・野大弐とも称する。930年(延長8)醍醐天皇への奉悼歌,藤原師輔(もろすけ)の五十賀屏風歌など歌人としても知られる。967年(康保4)致仕。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野好古」の解説

小野好古 おのの-よしふる

884-968 平安時代中期の武人,公卿(くぎょう)。
元慶(がんぎょう)8年生まれ。小野篁(たかむら)の孫。小野道風(みちかぜ)の兄。天慶(てんぎょう)3年追捕(ついぶ)凶賊使となり,藤原純友(すみとも)の乱を鎮圧。のち参議,従三位。大宰大弐をつとめ,太宰府天満宮の曲水の宴を創始したという。和歌にもすぐれ,「後撰和歌集」などに歌がおさめられている。康保(こうほう)5年2月14日死去。85歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小野好古」の解説

小野好古
おののよしふる

884〜968
平安前期の軍人貴族・歌人
道風の兄。藤原純友の乱に際し追捕使 (ついぶし) となり,源経基と協力し,乱を鎮圧。また『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などに歌がある。

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世界大百科事典(旧版)内の小野好古の言及

【小野氏】より

…古代の豪族。和珥(わに)氏の同族。《古事記》の氏族系譜によれば孝昭天皇の皇子天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とする。天武朝の八色(やくさ)の姓で臣から朝臣となった。和珥氏同族の本拠である大和の添上郡(奈良市南東部)や,山城の愛宕郡小野郷(京都市左京区),宇治郡小野郷(京都市山科区)に勢力をもった。また近江の滋賀郡小野村(滋賀県志賀町)は氏の起こる所と伝え,氏神の小野神社があり,平安初期には同族の粟田氏,大春日氏,布瑠(ふる)氏も氏神として崇拝していた。…

【藤原純友の乱】より

…畿内から九州東部にかけての諸勢力を結集し,一大勢力となった純友の海賊連合軍は,京都に連夜放火して社会不安を醸成するとともに,上京途上の国司を捕らえたり,備中・淡路を襲い兵器を奪いとったりした。朝廷は小野好古を追捕凶賊使に任ずるかたわら,東西両面作戦を回避するため純友に従五位下を授け懐柔しようとした。940年2月好古から純友が海路上洛中との報が入り,政府は山崎・川尻の警固を強化し緊張が高まったが,純友軍の京都突入はなかった。…

※「小野好古」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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