平安中期の官人。大宰大弐葛絃の子,参議篁の孫。右衛門権佐などを経て右近衛少将に進み,940年(天慶3)追捕山陽南海凶賊使の長官として藤原純友追討に向かった。翌年5月純友は大宰府に放火し略奪を行ったが,追討軍はこれを追って筑前国博多津(福岡市)に攻めた。好古は陸路より,藤原慶幸,大蔵春実らは海路より進んだが,春実の奮戦はとくにめざましく,純友は大敗して伊予国に逃れ,6月に殺され,好古は8月に帰京した。以後,左中弁,大宰大弐となって参議に昇り,のち弾正大弼,左大弁に任ぜられたが,ふたたび大弐となる。従三位に叙せられ,967年(康保4)致仕,翌年85歳で没した。彼はその官歴から武官としての才幹,吏務の練達,地方行政の手腕を兼備していたと想像されるが,またすぐれた歌人でもあった。その女(野内侍)に,のちの摂政藤原伊尹が通ったが,彼女も歌人であった。
→藤原純友の乱
執筆者:黒板 伸夫
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平安中期の武人。歌人としても著名。参議篁(たかむら)の孫で、大宰大弐(だざいのだいに)葛絃(くずお)の子。書家で有名な道風(とうふう)の兄。母は王氏の女(むすめ)。右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)、中宮大進(だいしん)、右近衛(うこんえ)少将など京官を歴任する。940年(天慶3)西国を舞台に起こった藤原純友(すみとも)の乱(天慶(てんぎょう)の乱)で山陽、南海両道の追捕使(ついぶし)となり、伊予国(愛媛県)に向かい、ついで大宰府管内で略奪を働いていた純友を筑前(ちくぜん)国(福岡県)博多津(はかたのつ)に破り捕らえた。その功によって山城守(やましろのかみ)、大宰大弐などを経て参議に進み、ついで従三位(じゅさんみ)に叙せられた。康保(こうほう)5年2月14日卒す。『後撰(ごせん)集』『大和(やまと)物語』などに好古の歌がとられている。
[朧谷 寿]
(瀧浪貞子)
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884~968.2.14
平安中期の公卿・歌人。父は葛絃(くずお)。祖父は篁(たかむら)。弟に道風(みちかぜ)がいる。940年(天慶3)藤原純友の乱に際し,山陽道追捕使(ついぶし)・追捕山陽南海両道凶賊使に任じられ,翌年博多津で純友を討つ。947年(天暦元)参議,2度も大宰大弐(だいに)を勤めたため野宰相(やさいしょう)・野大弐とも称する。930年(延長8)醍醐天皇への奉悼歌,藤原師輔(もろすけ)の五十賀屏風歌など歌人としても知られる。967年(康保4)致仕。
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…古代の豪族。和珥(わに)氏の同族。《古事記》の氏族系譜によれば孝昭天皇の皇子天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とする。天武朝の八色(やくさ)の姓で臣から朝臣となった。和珥氏同族の本拠である大和の添上郡(奈良市南東部)や,山城の愛宕郡小野郷(京都市左京区),宇治郡小野郷(京都市山科区)に勢力をもった。また近江の滋賀郡小野村(滋賀県志賀町)は氏の起こる所と伝え,氏神の小野神社があり,平安初期には同族の粟田氏,大春日氏,布瑠(ふる)氏も氏神として崇拝していた。…
…畿内から九州東部にかけての諸勢力を結集し,一大勢力となった純友の海賊連合軍は,京都に連夜放火して社会不安を醸成するとともに,上京途上の国司を捕らえたり,備中・淡路を襲い兵器を奪いとったりした。朝廷は小野好古を追捕凶賊使に任ずるかたわら,東西両面作戦を回避するため純友に従五位下を授け懐柔しようとした。940年2月好古から純友が海路上洛中との報が入り,政府は山崎・川尻の警固を強化し緊張が高まったが,純友軍の京都突入はなかった。…
※「小野好古」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...
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