源経基(読み)ミナモトノツネモト

デジタル大辞泉 「源経基」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐つねもと【源経基】

[?~961]平安中期の武将清和天皇の皇子貞純親王長子六孫王と称された。藤原純友の乱鎮定に際し、小野好古に従って活躍。源の姓を賜って臣籍降下清和源氏の祖となった。

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精選版 日本国語大辞典 「源経基」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐つねもと【源経基】

  1. 平安中期の武将。清和天皇の第六皇子貞純親王の長子。六孫王という。武蔵介として関東に下向したが、在地の豪族と衝突して帰京。ついで小野好古に従って純友の乱に功を立て、清和源氏の祖と仰がれた。応和元年(九六一)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源経基」の意味・わかりやすい解説

源経基
みなもとのつねもと
(916―961)

平安中期の武将で、いわゆる清和(せいわ)源氏の祖。清和天皇の第六皇子貞純親王の長子として「六孫王(ろくそんおう)」とよばれ、母は右大臣源能有(よしあり)の娘という。しかし年齢関係があわず、星野恒(ひさし)は陽成(ようぜい)天皇の皇子元平親王の子と推定している(「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ナル考」)。938年(天慶1)、武蔵介(むさしのすけ)として権守興世王(ごんのかみおきよのおう)とともに入部、足立(あだち)郡司武芝(たけしば)と争った。平将門(まさかど)が調停して紛争を収めたが、経基は将門らを疑い、謀反として政府に訴えた。この事件で経基は左衛門府に禁固されたが、将門の乱が起こると許され、940年2月、征東軍の副将軍として出陣する。帰還後に再編された追捕(ついぶ)山陽南海凶賊使の次官として藤原純友(すみとも)の反乱平定に活躍、941年9月の豊後(ぶんご)国佐伯院(さえきいん)の合戦で賊首桑原生行らを捕らえ、純友の次将佐伯是基(これもと)を連行して京都に帰った。応和(おうわ)元年11月卒去。その邸宅は右京八条にあり、死後遍照心院となる。いまの六孫王神社(京都市南区八条町)である。位階は正四位に達し、官歴としてはほかに信濃(しなの)、伊予、武蔵などの守(かみ)、上野介(こうずけのすけ)、左衛門佐(すけ)、大宰大弐(だざいのだいに)、鎮守府将軍などが伝えられ、子に満仲(みつなか)、満政(みつまさ)、満季(みつすえ)、満快(まんかい)などがある。和歌も巧みで『拾遺(しゅうい)和歌集』にとられている。

[福田豊彦]

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改訂新版 世界大百科事典 「源経基」の意味・わかりやすい解説

源経基 (みなもとのつねもと)

平安中期の武将。生没年不詳。清和源氏の祖。清和天皇第6皇子貞純親王の長男。六孫王と呼ばれた。承平年間(931-938)武蔵介として赴任し足立郡司武蔵武芝と争い,939年(天慶2)上京して武蔵権守興世王および平将門の反乱を奏上した。その功で従五位下に叙されたが,世人からは〈介経基未だ兵道に練れず〉と嘲笑されたという。その後,小野好古に従って藤原純友の追討に向かい,好古凱旋後大宰権少弐として余党の平定に赴き,941年豊後で賊首桑原生行を捕らえた。生没年について《尊卑分脈》は917-961年(延喜17-応和1)と伝えるが,一方で経基の子満仲の生年を913年としており,なんらかの誤伝があると思われる。また父については,《石清水(いわしみず)文書》中の〈源頼信願文〉に陽成天皇(清和天皇長子)の孫元平親王の子経基王と出てくるが,多くの系図類は貞純親王の子と伝えている。
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朝日日本歴史人物事典 「源経基」の解説

源経基

没年:応和1(961)
生年:生年不詳
平安中期の武将。父の貞純親王が清和天皇の第6皇子ということで六孫王と呼ばれた。賜姓源氏。天慶1(938)年武蔵介として任国にあったとき,権守興世王と共に同国の土豪である武蔵武芝と争い,平将門の仲裁でいったんはおさまったが,武芝の一派が経基の営所を包囲したことから,将門らが武芝に味方して自分を討つと思い京へ逃げ帰り,彼らの謀反を朝廷に訴えている。このときの行動を評して,「介経基,未だ兵の道に練れず」とは,『将門記』の述べるところである。このあと将門の乱を鎮圧する征東軍に加わって東国に下っている。この一件がかたづくや西国での藤原純友の乱の追捕次官として西下し鎮定した。この直後,大宰権少弐で警固使の任にあった経基は豊後国(大分県)で賊徒の首領桑原生行 を生け捕りにし,馬や絹などを押収した。六孫王神社(京都市南区)に経基のものと伝える墓がある。<参考文献>朧谷寿『清和源氏』

(朧谷寿)

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百科事典マイペディア 「源経基」の意味・わかりやすい解説

源経基【みなもとのつねもと】

平安中期の武将。生没年不詳。清和源氏の祖。父が清和天皇第6皇子貞純親王であるため六孫王(ろくそんのう)という。武蔵介として下向したが,足立郡司と衝突して帰京。平将門藤原純友の征討軍に加わったが,その武力は未熟であったといわれる。→源氏

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源経基」の解説

源経基
みなもとのつねもと

?~961.11.4

平安中期の武将。清和源氏の祖。清和天皇第6皇子貞純親王の子。母は源能有(よしあり)の女。六孫王(ろくそんのう)と称する。「尊卑分脈」は,生年を917年(延喜17)とするが疑問。武蔵介として赴任していた938年(天慶元)権守興世王(おきよおう)とともに足立郡司武蔵武芝と争う。平将門(まさかど)による調停が失敗に終わると,翌年上洛し将門の行為を反乱と報告。その功により従五位下,将門追討の征東副将軍となった。小野好古(よしふる)と,藤原純友の乱の鎮圧にも活躍。941年警固使・大宰権少弐に任じられ,純友の残党と戦った。正四位上に昇進して内昇殿を許され,961年(応和元)源朝臣の姓を与えられ臣籍降下。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源経基」の意味・わかりやすい解説

源経基
みなもとのつねもと

[生]延喜17(917)
[没]応和1(961).11.4.
平安時代中期の武将。清和源氏の祖。清和天皇の第6皇子貞純親王の長子。六孫王 (ろくそんおう) と称した。正四位上,右馬頭。平将門の乱に際し天慶3 (940) 年征夷副将軍となり,藤原純友の乱に追捕南海凶賊使次官となった。以後,各地の国守を歴任し,鎮守府将軍となり,応和1 (961) 年賜姓,源朝臣と称した。子孫は諸国に分れて有力な武士を多数輩出した。 (→源氏 , 承平・天慶の乱 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源経基」の解説

源経基 みなもとの-つねもと

?-961 平安時代中期の武人。
清和天皇の第6皇子貞純(さだずみ)親王の王子で,六孫(ろくそん)王とよばれる。清和源氏の祖。武蔵介(むさしのすけ)に在任のとき,平将門(まさかど)の謀反を朝廷に報告。ついで藤原純友(すみとも)の乱では追捕次官として活躍した。信濃(しなの),伊予(いよ)などの国守を歴任,鎮守府将軍となる。応和元年11月4日死去。

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旺文社日本史事典 三訂版 「源経基」の解説

源経基
みなもとのつねもと

?〜961
平安前期の武将。清和源氏の祖
清和天皇の孫。六孫王ともいう。武蔵介。平将門 (まさかど) 征討を命じられたが,その下向中に乱が終結した。ついで小野好古に従い藤原純友の乱を鎮定した。諸国の受領 (ずりよう) を歴任し,のち鎮守府将軍となり,清和源氏勃興の基礎を築いた。

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