平安中期の武将で、いわゆる清和(せいわ)源氏の祖。清和天皇の第六皇子貞純親王の長子として「六孫王(ろくそんおう)」とよばれ、母は右大臣源能有(よしあり)の娘という。しかし年齢関係があわず、星野恒(ひさし)は陽成(ようぜい)天皇の皇子元平親王の子と推定している(「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ナル考」)。938年(天慶1)、武蔵介(むさしのすけ)として権守興世王(ごんのかみおきよのおう)とともに入部、足立(あだち)郡司武芝(たけしば)と争った。平将門(まさかど)が調停して紛争を収めたが、経基は将門らを疑い、謀反として政府に訴えた。この事件で経基は左衛門府に禁固されたが、将門の乱が起こると許され、940年2月、征東軍の副将軍として出陣する。帰還後に再編された追捕(ついぶ)山陽南海凶賊使の次官として藤原純友(すみとも)の反乱平定に活躍、941年9月の豊後(ぶんご)国佐伯院(さえきいん)の合戦で賊首桑原生行らを捕らえ、純友の次将佐伯是基(これもと)を連行して京都に帰った。応和(おうわ)元年11月卒去。その邸宅は右京八条にあり、死後遍照心院となる。いまの六孫王神社(京都市南区八条町)である。位階は正四位に達し、官歴としてはほかに信濃(しなの)、伊予、武蔵などの守(かみ)、上野介(こうずけのすけ)、左衛門佐(すけ)、大宰大弐(だざいのだいに)、鎮守府将軍などが伝えられ、子に満仲(みつなか)、満政(みつまさ)、満季(みつすえ)、満快(まんかい)などがある。和歌も巧みで『拾遺(しゅうい)和歌集』にとられている。
[福田豊彦]
平安中期の武将。生没年不詳。清和源氏の祖。清和天皇第6皇子貞純親王の長男。六孫王と呼ばれた。承平年間(931-938)武蔵介として赴任し足立郡司武蔵武芝と争い,939年(天慶2)上京して武蔵権守興世王および平将門の反乱を奏上した。その功で従五位下に叙されたが,世人からは〈介経基未だ兵道に練れず〉と嘲笑されたという。その後,小野好古に従って藤原純友の追討に向かい,好古凱旋後大宰権少弐として余党の平定に赴き,941年豊後で賊首桑原生行を捕らえた。生没年について《尊卑分脈》は917-961年(延喜17-応和1)と伝えるが,一方で経基の子満仲の生年を913年としており,なんらかの誤伝があると思われる。また父については,《石清水(いわしみず)文書》中の〈源頼信願文〉に陽成天皇(清和天皇長子)の孫元平親王の子経基王と出てくるが,多くの系図類は貞純親王の子と伝えている。
執筆者:飯田 悠紀子
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(朧谷寿)
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?~961.11.4
平安中期の武将。清和源氏の祖。清和天皇第6皇子貞純親王の子。母は源能有(よしあり)の女。六孫王(ろくそんのう)と称する。「尊卑分脈」は,生年を917年(延喜17)とするが疑問。武蔵介として赴任していた938年(天慶元)権守興世王(おきよおう)とともに足立郡司武蔵武芝と争う。平将門(まさかど)による調停が失敗に終わると,翌年上洛し将門の行為を反乱と報告。その功により従五位下,将門追討の征東副将軍となった。小野好古(よしふる)と,藤原純友の乱の鎮圧にも活躍。941年警固使・大宰権少弐に任じられ,純友の残党と戦った。正四位上に昇進して内昇殿を許され,961年(応和元)源朝臣の姓を与えられ臣籍降下。
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