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源経基 みなもとのつねもと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源経基
みなもとのつねもと

[生]延喜17(917)
[没]応和1(961).11.4.
平安時代中期の武将。清和源氏の祖。清和天皇の第6皇子貞純親王長子六孫王 (ろくそんおう) と称した。正四位上,右馬頭。平将門の乱に際し天慶3 (940) 年征夷副将軍となり,藤原純友の乱に追捕南海凶賊使次官となった。以後,各地の国守を歴任し,鎮守府将軍となり,応和1 (961) 年賜姓,朝臣と称した。子孫は諸国に分れて有力な武士を多数輩出した。 (→源氏 , 承平・天慶の乱 )  

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百科事典マイペディアの解説

源経基【みなもとのつねもと】

平安中期の武将。生没年不詳。清和源氏の祖。父が清和天皇第6皇子貞純親王であるため六孫王(ろくそんのう)という。武蔵介として下向したが,足立郡司と衝突して帰京平将門藤原純友の征討軍に加わったが,その武力は未熟であったといわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源経基 みなもとの-つねもと

?-961 平安時代中期の武人。
清和天皇の第6皇子貞純(さだずみ)親王の王子で,六孫(ろくそん)王とよばれる。清和源氏の祖。武蔵介(むさしのすけ)に在任のとき,平将門(まさかど)の謀反を朝廷に報告。ついで藤原純友(すみとも)の乱では追捕次官として活躍した。信濃(しなの),伊予(いよ)などの国守を歴任,鎮守府将軍となる。応和元年11月4日死去。

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朝日日本歴史人物事典の解説

源経基

没年:応和1(961)
生年:生年不詳
平安中期の武将。父の貞純親王が清和天皇の第6皇子ということで六孫王と呼ばれた。賜姓源氏。天慶1(938)年武蔵介として任国にあったとき,権守興世王と共に同国の土豪である武蔵武芝と争い,平将門の仲裁でいったんはおさまったが,武芝の一派が経基の営所を包囲したことから,将門らが武芝に味方して自分を討つと思い京へ逃げ帰り,彼らの謀反を朝廷に訴えている。このときの行動を評して,「介経基,未だ兵の道に練れず」とは,『将門記』の述べるところである。このあと将門の乱を鎮圧する征東軍に加わって東国に下っている。この一件がかたづくや西国での藤原純友の乱の追捕次官として西下し鎮定した。この直後,大宰権少弐で警固使の任にあった経基は豊後国(大分県)で賊徒の首領桑原生行 を生け捕りにし,馬や絹などを押収した。六孫王神社(京都市南区)に経基のものと伝える墓がある。<参考文献>朧谷寿『清和源氏』

(朧谷寿)

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世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのつねもと【源経基】

平安中期の武将。生没年不詳。清和源氏の祖。清和天皇第6皇子貞純親王の長男。六孫王と呼ばれた。承平年間(931‐938)武蔵介として赴任し足立郡司武蔵武芝と争い,939年(天慶2)上京して武蔵権守興世王および平将門反乱を奏上した。その功で従五位下に叙されたが,世人からは〈介経基未だ兵道に練れず〉と嘲笑されたという。その後,小野好古に従って藤原純友の追討に向かい,好古凱旋後大宰権少弐として余党の平定に赴き,941年豊後で賊首桑原生行を捕らえた。

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大辞林 第三版の解説

みなもとのつねもと【源経基】

?~961) 平安中期の武将。清和天皇の第六皇子貞純親王の子。満仲の父。六孫王とも。藤原純友の乱制圧のために小野好古に従い、これを鎮定。のち瀬戸内海地方で活躍した。961年、源朝臣の姓を賜って臣籍に降下し清和源氏の祖となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源経基
みなもとのつねもと
(916―961)

平安中期の武将で、いわゆる清和(せいわ)源氏の祖。清和天皇の第六皇子貞純親王の長子として「六孫王(ろくそんおう)」とよばれ、母は右大臣源能有(よしあり)の娘という。しかし年齢関係があわず、星野恒(ひさし)は陽成(ようぜい)天皇の皇子元平親王の子と推定している(「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ナル考」)。938年(天慶1)、武蔵介(むさしのすけ)として権守興世王(ごんのかみおきよのおう)とともに入部、足立(あだち)郡司武芝(たけしば)と争った。平将門(まさかど)が調停して紛争を収めたが、経基は将門らを疑い、謀反として政府に訴えた。この事件で経基は左衛門府に禁固されたが、将門の乱が起こると許され、940年2月、征東軍の副将軍として出陣する。帰還後に再編された追捕(ついぶ)山陽南海凶賊使の次官として藤原純友(すみとも)の反乱平定に活躍、941年9月の豊後(ぶんご)国佐伯院(さえきいん)の合戦で賊首桑原生行らを捕らえ、純友の次将佐伯是基(これもと)を連行して京都に帰った。応和(おうわ)元年11月卒去。その邸宅は右京八条にあり、死後遍照心院となる。いまの六孫王神社(京都市南区八条町)である。位階は正四位に達し、官歴としてはほかに信濃(しなの)、伊予、武蔵などの守(かみ)、上野介(こうずけのすけ)、左衛門佐(すけ)、大宰大弐(だざいのだいに)、鎮守府将軍などが伝えられ、子に満仲(みつなか)、満政(みつまさ)、満季(みつすえ)、満快(まんかい)などがある。和歌も巧みで『拾遺(しゅうい)和歌集』にとられている。[福田豊彦]

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