日本歴史地名大系 「小高城跡」の解説
小高城跡
おだかじようあと
〔築城までの経緯とその後〕
下総国相馬郡を本領とした相馬師常(千葉介常胤の次男、相馬師国の養子)は、文治五年(一一八九)の奥州合戦の戦功によって陸奥国
元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府滅亡後、相馬氏の惣領重胤は一族の岡田氏・大悲山氏らとともに建武政権に背いた足利方に属している。建武三年(一三三六)重胤は鎌倉を守護するが、南朝方の陸奥守北畠顕家の軍勢に攻められ、同年四月に鎌倉
小高城跡
おだかじようあと
小高の北東部の山林の中にあり、三方を水田に囲まれ、二重の深い空堀をめぐらす。現在は辺鄙な場所であるが、古代には城跡の東方に鹿島神宮への奉幣使の官道があり、交通の要所であった。
鎌倉時代に常陸大掾氏の一族行方為幹が行方城より移って当地に居住、小高氏と称して築城したことに始まる。小高氏は文永四年(一二六七)・正和五年(一三一六)・応安五年(一三七二)・応永七年(一四〇〇)などに鹿島大使役を勤めている(「鹿島大使役記」安得虎子)。また貞治四年(一三六五)二月二日、将軍足利義詮は鹿島神宮大禰宜高親の訴えにより、常陸大掾入道(高幹)に小高直幹の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報