山内一豊(読み)ヤマウチカズトヨ

デジタル大辞泉 「山内一豊」の意味・読み・例文・類語

やまうち‐かずとよ【山内一豊】

[1546~1605]安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長豊臣秀吉に仕えたが、関ヶ原の戦い徳川家康につき、土佐20万石に封ぜられた。信長の馬揃えの際、妻が貯えの金で名馬を買わせたという内助の功の逸話がある。やまのうちかずとよ。

やまのうち‐かずとよ【山内一豊】

やまうちかずとよ

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精選版 日本国語大辞典 「山内一豊」の意味・読み・例文・類語

やまのうち‐かずとよ【山内一豊】

  1. 安土桃山時代の武将。初代の土佐藩主。盛豊の三男。はじめ織田信長、後に豊臣秀吉に仕え、高松城水攻め小田原攻め活躍。秀吉没後、家康に忠誠を示し関ケ原の戦い後、土佐二〇万石の藩主となる。貧窮時代、妻の蓄えにより、名馬を購入できた逸話は有名。天文一五~慶長一〇年(一五四六‐一六〇五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山内一豊」の意味・わかりやすい解説

山内一豊(やまうちかずとよ)
やまうちかずとよ
(1546―1605)

安土(あづち)桃山時代・江戸初期の大名。土佐藩祖。尾張(おわり)に生まれる。幼名辰之助(たつのすけ)。伊(猪)右衛門(いえもん)と称す。対馬守(つしまのかみ)、土佐守となる。父盛豊(もりとよ)は岩倉城主織田信安(のぶやす)に仕え黒田城を預かったが、戦死後、一豊は諸所を流浪する。永禄(えいろく)(1558~70)末年~元亀(げんき)(1570~73)の間に織田信長に仕え、1573年(天正1)の朝倉(あさくら)攻めで功をたて近江(おうみ)唐国(からくに)400石を領す。このころ妻の金で馬を買って馬揃(うまぞろえ)に臨んだ話は有名。のち豊臣(とよとみ)秀吉に属し長篠(ながしの)の戦い、中国征伐、山崎の合戦、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦い、紀州征伐などに従軍し、85年閏(うるう)8月近江長浜2万石の城主となり、豊臣秀次(ひでつぐ)付を命ぜられる。90年小田原征伐に従軍、9月遠州(静岡県)掛川(かけがわ)5万石の城主となる。

 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで徳川家康に属し、戦後土佐20万2600石を与えられ、1年1月8日浦戸(うらど)に入城高知城を築き、3年8月21日高知に移り、領国経営に尽力した。慶長(けいちょう)10年9月21日(20日説もある)没。法号は大通院殿心峯宗伝(だいつういんでんしんほうしゅうでん)。潮江真如寺(うしおえしんにょじ)山(高知市)に葬られる。

[山本 大]

『山本大著『山内一豊』(1966・人物往来社)』



山内一豊(やまのうちかずとよ)
やまのうちかずとよ

山内一豊

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朝日日本歴史人物事典 「山内一豊」の解説

山内一豊

没年:慶長10.9.20(1605.11.1)
生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸前期の武将。姓は「やまのうち」ともいう。尾張上4郡守護代織田伊勢守の家老である尾張黒田城主山内盛豊の子。通称は猪右衛門(伊右衛門とも書く)。織田伊勢守家が信長によって滅ぼされたあと,しばらく浪々ののち信長に仕えることになり,元亀1(1570)年の越前金ケ崎城攻め,姉川の戦に従軍する。妻のまつ(千代とも。のち見性院)のへそくりによって名馬を買ったとするエピソードはそのころのことか。ただし,この逸話は良質の史料にはみえない。豊臣秀吉の北近江領有のころから秀吉に仕えるようになり,天正1(1573)年には近江長浜の唐国で400石を与えられる。同5年,秀吉が播磨にも所領を与えられると同地で2000石余となり,同10年には秀吉の馬廻衆として黄母衣衆となった。同13年6月,若狭高浜城1万9800石,次いで同年閏8月,近江長浜城2万石となり,ほかに1万石の豊臣家直轄領の代官となり,また従五位下・対馬守に叙任された。同18年の小田原攻めののち,遠江掛川城主5万石となり,新領地の検地および新しい掛川城と城下町を造った。慶長5(1600)年の関ケ原の戦には東軍に属し,徳川家康の会津攻めに従い,下野小山の軍評定の場で「掛川城と城内の兵糧を家康殿に献上する」と発言して家康をよろこばせ,実際,城を差しだしている。また妻からの大坂方の人質政策などを記した密書を提供し,戦いののち,土佐一国20万石に栄転し高知城主となり,土佐藩祖となった。<参考文献>山本大『山内一豊』

(小和田哲男)

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改訂新版 世界大百科事典 「山内一豊」の意味・わかりやすい解説

山内一豊 (やまうちかずとよ)
生没年:1545か46-1605(天文14か15-慶長10)

安土桃山時代の武将。初代土佐藩主。通称伊(猪)右衛門。父盛豊は尾張国岩倉城主織田信安に仕え黒田城を預かるが,1559年(永禄2)織田信長のため落城。一豊は尾張から美濃,近江へと流転し,勢多城主山岡氏に仕え200石を領した。73年(天正1)豊臣秀吉の配下として越前朝倉氏と戦い,近江唐国に400石を領した。このころ妻の金で馬を買った話は有名。77年播磨に移り2000石を領し,さらに柴田勝家軍の追撃,小牧・長久手の戦,紀州征伐などに従軍し,88年には近江国長浜で2万石を領し,豊臣秀次の老臣となる。90年には遠江国掛川で5万石の領主となる。入部後,城下町を建設して検地を行い,兵農分離を進めた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では東軍に属し,功により同年土佐20万2600石余の藩主に封ぜられた。長宗我部遺臣の反乱(浦戸一揆)を鎮定し,高知城,城下町の建設を行い近世土佐藩の基礎をすえた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山内一豊」の意味・わかりやすい解説

山内一豊
やまのうちかずとよ

[生]天文15(1546).尾張
[没]慶長10(1605).9.20. 高知
安土桃山~江戸時代初期の大名。土佐藩主。但馬守盛豊の3男。母は梶原氏。辰之助,猪右衛門と称した。織田信長に仕え,元亀1 (1570) 年姉川の戦いで功をあげ,のち豊臣秀吉に属して中国征伐に従い毛利氏と戦った。天正 13 (85) 年6月若狭国西県1万 9800石を与えられ高浜に居住。のち秀次に属し長浜2万石を領して,ほかに1万石を加えられたが,同 18年9月には小田原征伐の功によって遠江国掛川5万石に封じられた。慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いには東軍に属し,戦後土佐高知 24万石に封じられ土佐守に任じられた。一豊の妻の内助の功の逸話は有名。

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百科事典マイペディア 「山内一豊」の意味・わかりやすい解説

山内一豊【やまうちかずとよ】

安土桃山時代の武将。土佐藩主山内家の祖。通称猪右衛門(いえもん)。織田信長,豊臣秀吉に仕え,戦功多く遠江(とおとうみ)掛川城主となる。関ヶ原の戦に徳川方につき土佐20万余石を与えられ高知城主となる。その妻が夫の立身のために名馬を買う話は,古来妻の内助の功として有名。
→関連項目高知[県]高知藩

山内一豊【やまのうちかずとよ】

山内(やまうち)一豊

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山内一豊」の解説

山内一豊
やまうちかずとよ

1545/46~1605.9.20

名は「かつとよ」とも。戦国末~江戸初期の武将。土佐国高知藩初代藩主。父は尾張国黒田城主盛豊。尾張国生れ。岩倉織田氏をへて織田信長に仕える。金崎(かねがさき)の戦や姉川の戦などに功をあげ,豊臣秀吉の家臣となって近江・播磨などに領地をえる。近江国長浜城主をへて,1590年(天正18)遠江国掛川で5万石を与えられ,豊臣秀次の与力。関ケ原の戦後は土佐一国を領する。長宗我部氏遺臣の浦戸一揆を鎮圧し,高知城下町を建設して領国経営に努力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山内一豊」の解説

山内一豊 やまうち-かずとよ

1545/46-1605 戦国-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)14/15年生まれ。織田信長,豊臣秀吉につかえる。近江(おうみ)長浜城主などをへて,天正(てんしょう)18年遠江(とおとうみ)掛川城主。慶長5年関ケ原の戦いの功により,土佐高知藩主山内家初代となる。20万2600石。高知城をきずき,支配体制をかためた。慶長10年9月20日死去。60/61歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は辰之助,伊(猪)右衛門。

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世界大百科事典(旧版)内の山内一豊の言及

【山内一豊】より

…安土桃山時代の武将。初代土佐藩主。通称伊(猪)右衛門。父盛豊は尾張国岩倉城主織田信安に仕え黒田城を預かるが,1559年(永禄2)織田信長のため落城。一豊は尾張から美濃,近江へと流転し,勢多城主山岡氏に仕え200石を領した。73年(天正1)豊臣秀吉の配下として越前朝倉氏と戦い,近江唐国に400石を領した。このころ妻の金で馬を買った話は有名。77年播磨に移り2000石を領し,さらに柴田勝家軍の追撃,小牧・長久手の戦,紀州征伐などに従軍し,88年には近江国長浜で2万石を領し,豊臣秀次の老臣となる。…

【高知[市]】より

…古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。関ヶ原の戦後新領主となった山内一豊は,入国直後より大高坂の故地に新城を築き1603年(慶長8)浦戸より入城,以後高知は土佐一国を管する山内氏の城下町として幕末に至る。はじめ地形にちなんで河中と書かれたが,水害を忌み10年高智と改め,のちさらに高知となる。…

【土佐国】より

…書冊では,大平氏印行・所蔵本筆写の〈父母恩重経〉(京都国立博物館)・《拾遺和歌集》(京都府立総合資料館)・《八雲御抄》(住吉大社),大平国光自筆短籍(金比羅宮),津野氏の《和玉篇》(大東急記念文庫)などがあって,室町・戦国期の国人文化を知る貴重な文化財となっている。【下村 効】
【近世】
 関ヶ原の戦後,土佐24万石(朱印高は20万石)の国主となったのは,遠江国掛川の城主山内(やまうち)一豊である。一豊は1601年(慶長6)浦戸城に入ったが,それに先立ち,一領具足(兵農未分離の長宗我部氏下級家臣)たちが明渡しを拒否して抗戦し273名が討死する,いわゆる浦戸一揆が起こった。…

【土佐藩】より

…高知藩ともいう。藩主は山内(やまうち)氏で藩祖山内一豊以下16代。一豊は関ヶ原の戦のあと,遠江国掛川6万石の城主より土佐24万石(朱印高は20万2626石)に栄進,この恩顧の念が明治維新に際しても藩主の行動を制約した。…

※「山内一豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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