日本歴史地名大系 「山寺村」の解説
山寺村
やまでらむら
元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高八二石余。寛永元年庄内高辻帳では高四九三石余。なお寛永三年庄内高辻帳では二四八石余。天保一五年(一八四四)には免五ツ九分五厘、家数九六(「高辻并留」松山町資料館蔵)。庄内要覧によれば「慶長年中、志村伊豆酒田在城ノ節、山寺ヨリ新道作リ、清川向ニ新興屋ヲ立、最上ヘ上下ノ船四艘預置キシ」とあり、この頃から当村は最上街道
山寺村
やまでらむら
- 長野県:伊那市
- 山寺村
天竜川の右岸、北は
中世においては御薗に属し、「南御薗」あるいは「御薗之郷南」などとよばれていたらしい。天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)には「御薗之郷北南」とあり、同一九年の信州伊奈青表紙之縄帳にもまだ山寺村の名はみえていない。山寺村の初見は「松樹園叢書」(清水英樹氏蔵)で「信州高遠鳥居主膳正知行之内、東いなべ村・みその村・きつね嶋村・山寺村此四ケ村」とあり、寛永一五年(一六三八)
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
山寺村
やまでらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報