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山本勘介 やまもとかんすけ

百科事典マイペディアの解説

山本勘介【やまもとかんすけ】

勘助とも書く。《甲陽軍鑑》等が伝える戦国時代の武将。甲州流兵法の祖といわれる。眇目(びょうもく),跛足(はそく)ながら兵法にひいで,武田信玄軍師として活躍し,69歳で川中島の戦で戦死したという。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山本勘介 やまもと-かんすけ

1493?-1561 戦国時代の武将。
明応2年?生まれ。武田信玄(しんげん)の軍師。甲州流兵学の祖で永禄(えいろく)4年9月10日の川中島の決戦で戦死したとされる。享年69歳? 架空人物ともいわれたが,信玄の書状に菅助の名があり実在視されるようになった。「甲陽軍鑑」や講談では稀有(けう)の戦略家としてえがかれている。名は晴幸。号は道鬼斎。通称は勘助ともかく。

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世界大百科事典 第2版の解説

やまもとかんすけ【山本勘介】

1493?‐1561?(明応2?‐永禄4?)
戦国時代の軍師。〈勘助〉とも書く。《甲陽軍鑑》によれば,武田信玄に仕え軍師として活躍したが,川中島の戦で作戦失敗の責任をとり,69歳で戦死したという。講談や大衆文芸,映画等によって有名であるが,実在したかどうかは不明。弘治3年(1557)6月23日付の市河藤若あて武田信玄書状に〈山本菅助〉の名が見えることから,しだいに実在の人物と考えられるようになっている。【笹本 正治】 山本勘介は《甲陽軍鑑》《北越太平記》などの俗書や講談に,短軀,跛足,眇眼の智将として描かれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山本勘介
やまもとかんすけ
(1500―1561)

室町時代の兵法者。晴幸(はるゆき)ともいい、法名は入道道鬼(にゅうどうどうき)。讃岐(さぬき)(香川県)に生まれる。山口へ行き大内義隆(よしたか)に仕えたのち浪人し、武田晴信(はるのぶ)(信玄)に仕官。兵法に優れ、軍師として重用され、軍略、築城、甲州法度(はっと)の草案など、抜群の功績をあげた。1561年(永禄4)9月10日、武田・上杉の川中島合戦において「きつつきの戦法」を提案し、大激戦の結果、壮烈な討ち死にを遂げた。甲州流兵法の祖とされ、徳川の軍学者小幡景憲(おばたかげのり)によって勘介の名は全国的に広まった。架空の人物といわれたこともあるが、「市川文書」発見で実在が証明され、また『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』(山口県文書館)によって、山口で勘介の子孫が毛利に仕えたことが明らかになっている。[渡辺勝正]

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