岡西惟中(読み)オカニシイチュウ

デジタル大辞泉 「岡西惟中」の意味・読み・例文・類語

おかにし‐いちゅう〔をかにしヰチユウ〕【岡西惟中】

[1639~1711]江戸前期から中期俳人因幡いなばの人。号は一時軒など。西山宗因に師事し、談林随一の論客として知られた。著「俳諧蒙求」「近来俳諧風体抄」など。

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精選版 日本国語大辞典 「岡西惟中」の意味・読み・例文・類語

おかにし‐いちゅう【岡西惟中】

江戸前期の俳人、儒医宗因門人。号は一時軒、間々翁など。鳥取の人。談林俳諧を代表する理論家で、宗因の俳諧評価をめぐって中島随流と論争した。著「近来誹諧風体抄」「誹諧破邪顕正返答」など。寛永一六~正徳元年(一六三九‐一七一一

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朝日日本歴史人物事典 「岡西惟中」の解説

岡西惟中

没年:正徳1.10.26(1711.12.5)
生年:寛永16(1639)
江戸前期の俳人。因幡国鳥取に生まれ,のちに備中岡山に移りさらに大坂に移住する。早くから和漢の学を学んだが,『心正筆法論』を著すほど書道にも造詣が深かった。俳諧は20歳代から作り始め,談林俳諧が流行するといち早く談林派に転向し,岡山にありながら談林派を代表する俳諧師として活躍した。彼は実作よりも論書に本領を発揮し,『渋団返答』『俳諧蒙求』『俳諧或問』などの論書を次々に刊行し,もともと理論的根拠をもたなかった談林俳諧に,『荘子』に基づく寓言説を導入して,その理論的根拠を打ち立てた。談林俳諧の最盛期の延宝6(1678)年,40歳のとき居を大坂に移して,実作と理論の両面にわたって活躍し,井原西鶴と並んで西山宗因門の両翼と目されるに至った。理論家としては談林俳人の中では群を抜いていたが,それだけに衒学的で自我意識が強く,同門のなかからも反感を買った。宗因流の正当な後継者は自分だという気持ちが強かったから,宗因死後は談林俳諧の指導者として活躍するもくろみがあったと思うが,この性格が災いして同門の信望を得ることができなかった。また延宝末年には談林俳諧は事実上終焉のときを迎え,談林俳諧の理論家として知られていただけに彼は活躍の場を失った。宗因死後は俳諧の第一線から退き,漢詩,和歌,書などを楽しんで余生を送った。<参考文献>上野洋三「岡西惟中論」(『文学』1970年1月号)

(田中善信)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡西惟中」の意味・わかりやすい解説

岡西惟中
おかにしいちゅう

[生]寛政16(1639).因幡
[没]正徳1(1711).10.26. 大坂
江戸時代前期~中期の俳人。名,勝。通称,平吉。岳西氏,松永氏ともいう。別号,一時軒,草庵,一瓢子,竹馬童子など。西山宗因の門。和歌,連歌,書道,漢詩もよくし,博学多識,談林の第一の論客であった。晩年は俳諧から離れた。『俳諧蒙求 (もうぎゅう) 』 (1675) ,『誹諧破邪顕正返答』 (80) など著書多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡西惟中」の解説

岡西惟中 おかにし-いちゅう

1639-1711 江戸時代前期-中期の俳人。
寛永16年生まれ。西山宗因に師事する。談林派を代表する論客として知られたが,同門の反感をかって俳壇をしりぞいた。正徳(しょうとく)元年10月26日死去。73歳。因幡(いなば)(鳥取県)出身。名は勝。字(あざな)は赤子。通称は平太。別号に一時軒,一有,間々翁,時適。著作に「俳諧蒙求(はいかいもうぎゅう)」「俳諧破邪顕正返答」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡西惟中」の意味・わかりやすい解説

岡西惟中
おかにしいちゅう

惟中

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