長崎県島原半島(しまばらはんとう)の中央部にある火山群の総称。西日本火山帯に属する。古くは温泉岳(うんぜんだけ)とも書かれた。富士山とともに国の特別名勝に指定されている。この火山群は、北側の千々石(ちぢわ)断層と、南側の布津(ふつ)、金浜(かなはま)両断層の間にある雲仙地溝内におもに噴出した、デイサイトと安山岩からなる複合火山である。約50万年前に活動を開始し、前期には火砕流やマグマ水蒸気爆発を中心とする噴火がおきていた。その後、溶岩流や溶岩円頂丘(溶岩ドーム)を中心とする噴火活動に移行した。活動の中心は雲仙地溝の西部で始まり、約15万年前からは、東側の、現在の普賢岳(ふげんだけ)の位置に移動した。
平成新山(後述)の噴火前に記録されていた噴火は、1663年(寛文3)と1792年(寛政4)の2回しかない。1792年には、デイサイト溶岩の流出のあと、強い地震によって東山麓(さんろく)にある古い溶岩ドームである眉山(まゆやま)が大崩壊し、岩屑なだれが有明海(ありあけかい)に突入して津波を引き起こした。この津波によって島原半島内や天草(あまくさ)、肥後(ひご)(熊本県)の沿岸で死者約1万5000人を出し、有史以来、日本最大の火山災害となった。この岩屑なだれによって生じた流れ山によって島原湾内に多くの小島が生じた。これが秩父ヶ浦(ちちぶがうら)から島原港外にかけて散在する九十九島(つくもじま)である。
1990年(平成2)から始まった噴火では、約4000年ぶりに溶岩ドームを山頂部につくる本格的な噴火活動がおこった。成長中の溶岩ドームが崩れて火砕流(熱雲)が繰り返し発生した。1991年6月3日には、火砕流で43名の犠牲者が出た。1995年2月に終息した火山活動で形成された溶岩ドームは長さ1.8キロメートル、幅0.8キロメートル、高度差約0.4キロメートルの大きさで、平成新山と命名され、国の天然記念物に指定された。
雲仙岳には平成新山(1483メートル)、普賢岳(1359メートル)、国見岳(くにみだけ)(1347メートル)、妙見岳(みょうけんだけ)(1333メートル)の諸峰があり、妙見岳には仁田(にた)峠からロープウェーが架設され、妙見岳から天草、阿蘇(あそ)、長崎方面への展望はすばらしい。春のツツジ、冬の霧氷の見物も仁田峠―妙見間を核としている。また、これらの山々に自生するミヤマキリシマ、イヌツゲ、シロドウダンは国指定天然記念物。標高約700メートルの地点には温泉地があって、雲仙天草国立公園の観光基地をなしている。2009年(平成21)には、普賢岳を含む島原半島全体が「島原半島ジオパーク」として世界ジオパークに認定された。
[石井泰義・諏訪 彰・中田節也]
『西日本新聞社編・刊『'91雲仙岳噴火報道写真集』(1991)』▽『長崎新聞社編・刊『鳴動普賢岳雲仙岳噴火写真・記録集』(1992)』▽『土質工学会・地盤工学会編・刊『雲仙岳の火山災害――その土質工学的課題をさぐる』(1993)』▽『森田敏隆写真『日本の大自然22 雲仙天草国立公園』(1995・毎日新聞社)』▽『高橋正樹・小林哲夫著『九州の火山 由布・鶴見岳 九重山 阿蘇山 雲仙岳 霧島山 桜島』(1999・築地書館)』▽『朝日新聞社編・刊『週刊続日本百名山29 朝日ビジュアルシリーズ英彦山・由布岳・阿蘇山・大崩山・雲仙岳』(2002)』
長崎県島原半島の主部を占める活火山。古くは温泉岳とも書かれ,この呼称で特別名勝に指定されている。主峰普賢岳(標高1359m),平成新山(1483m)を中心に,国見岳(1347m),野岳(1142m),九千部(くせんぶ)岳(1062m),絹笠山などの多くの山体からなる複合火山で,これらを取り巻いて広大な裾野が発達している。火山景観を主とする豊かな観光資源に恵まれ,中央部は雲仙天草国立公園に属する。島原湾に面して,東山麓に島原市がある。
雲仙岳の中央部には,東西性の千々石(ちぢわ)断層と金浜-布津断層に挟まれた幅約8kmの陥没地である雲仙地溝が横断している。その落ち込みは約200mで,地溝内には東西性活断層が発達している。地溝の西端は橘(千々石)湾に連なる。この橘湾はほぼ円形の陥没地で千々石カルデラと呼ばれ,地下深部にはマグマ溜りの潜在が想定されている。
主峰の普賢岳は一つの溶岩円頂丘が寄り添ったもので,有史時代の3回の噴火は,いずれも普賢岳である。1663年(寛文3)の噴火では九十九(つくも)島火口で噴煙を上げ,溶岩を北方へ約1.5km流した。噴出地点は北東山腹の鳩穴付近で古焼溶岩(500万m3)と呼ばれていた(1990年の噴火で埋没)。噴火の翌年には赤松谷に土石流が発生し30余人が死亡した。
1792年(寛政4)の噴火では地獄跡火口で噴煙を上げ,溶岩は北東山腹から噴出し,50日間にわたって約3km流れ下った。新焼溶岩(2000万m3)がそれで,先端が焼山である。噴火開始3ヵ月前から地震が頻発したが,噴火停止ほぼ1月後の強震で隣接の眉山が大崩壊し,0.34km3の岩屑が有明海になだれ込み,大津波を誘発した。被害は有明海沿岸ほぼ全域に及び,死者1万5000人に達する日本最大の火山災害となった。対岸の熊本県(当時の肥後国)でも被害は甚大で,〈島原大変肥後迷惑〉として伝承されている。この大崩壊で眉山山頂は約150m低くなり(1997年現在標高819m),島原の海岸線は約800m前進した。島原港や市街地南部一帯に散在する九十九島や小丘は,その名残の流山である。また,地割れの発生や海底に噴出していた地下水が出口をふさがれて地上に湧水群を生じた。
1990年から95年にかけての噴火では2億m3のデイサイト溶岩を噴出し,新たな溶岩円頂丘を形成,普賢岳をさらに肥大化させた。この溶岩円頂丘は普賢岳東端から東斜面にかけて成長したもので,その比高は西側で156m,東側斜面では約630mである。また南北の短径約800m,東西の長径は約1200mで,平成新山と命名された。この噴火では約1年間の前駆地震活動があり,震源は橘湾地下深部から普賢岳山頂に向かって波状的に移動した。90年11月17日に地獄跡火口と九十九島火口で噴煙活動を開始,翌年2月12日には新たに屛風岩火口からも噴火を始めた。5月20日から地獄跡火口で溶岩噴出を開始,その翌年末にはいったん低調化したものの93年2月には再活発化し,消長を繰り返しながらも95年2月まで続いた。この間,溶岩円頂丘を成長させ,その過程で局部的に崩落し火砕流を数千回も頻発させた。流下距離が4kmをこえる大火砕流は約10回,東麓の島原市,南高来郡深江町(現,南島原市)にかけて死者44人,焼損家屋約800棟の大惨事をもたらした。また豪雨により土石流も頻発し,約1700棟が損壊したが,死者は出なかった。雲仙岳では,このような大噴火が数千年間隔でおきている。
さまざまな泉質の温泉が湧出しているのも雲仙火山の特徴である。西海岸の小浜温泉が食塩泉,中央山岳地帯の雲仙温泉が硫黄泉,東海岸の島原温泉が重炭酸土類泉~重曹泉である。これらはいずれも西側橘湾地下深部のマグマ溜りに由来するが,泉質の多様性は,マグマ発散物が東側へ斜めに上昇し温度が低下する過程で成分が変化するからである。これらの温泉群は国道57号線で結ばれていて,雲仙観光の中心地である雲仙温泉では〈地獄めぐり〉が楽しめる。
平成新山を除く山体の多くは森林でおおわれ,標高1100m以上の山頂部は落葉広葉樹林,約600~700m以下の低所は常緑広葉樹林,両者の中間部は混交林となっている。急な山地斜面で橘湾に望む西麓部を除き,標高数百m以下の山麓部には緩傾斜の火山麓扇状地が広く展開し,集落や耕地が分布している。雲仙地区は雲仙天草国立公園に属し,ツツジ(天然記念物の池の原ミヤマキリシマ),紅葉(天然記念物の普賢岳紅葉樹林),霧氷(普賢岳,国見岳,妙見岳,野岳などの山頂部)など,四季を通じて変化に富む景色が楽しめる。雲仙温泉には,これらを紹介したビジターセンターがある。
執筆者:太田 一也+横山 勝三
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(井田喜明 東京大学名誉教授 / 2007年)
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…しかし,74年(安永3)子の忠寛の代に,宇都宮の松平氏と再び交換転封となり,以降島原藩は松平氏7代を経て明治維新を迎えた。 島原に再入封した6代忠恕(ただひろ)の時代,92年(寛政4)雲仙岳が大爆発して被害は肥後,天草にもおよび,藩財政の窮乏を促進した。7代忠馮(ただより)は藩政改革を実施し,三府法(糺司,勘定,米金の三府)によって財政運用の適正化を図る一方,農民永保法(相続方仕法)を施行して農村の救済にあたったが,疲弊した農村は容易に復興しなかった。…
※「雲仙岳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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