島尾敏雄(読み)シマオトシオ

デジタル大辞泉 「島尾敏雄」の意味・読み・例文・類語

しまお‐としお〔しまをとしを〕【島尾敏雄】

[1917~1986]小説家神奈川の生まれ。戦争体験を描いて作家としての地位を確立。超現実的な作風を示す一方、心因性疾患の妻との生活を描き、独自の世界を築いた。作「出発は遂に訪れず」「死のとげ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「島尾敏雄」の意味・読み・例文・類語

しまお‐としお【島尾敏雄】

  1. 小説家。横浜市生まれ。九州帝国大学卒。海軍予備学生となり、「震洋特攻隊指揮官として奄美諸島加計呂麻基地に待機中、敗戦を迎えた。戦後、戦争体験を描いた「出孤島記」、あるいは戦後社会の不安を描く「単独旅行者」で文名を得る。ほかに「夢の中での日常」「死の棘(とげ)」など。大正六~昭和六一年(一九一七‐八六

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20世紀日本人名事典 「島尾敏雄」の解説

島尾 敏雄
シマオ トシオ

昭和期の小説家 鹿児島純心女子短期大学教授。



生年
大正6(1917)年4月18日

没年
昭和61(1986)年11月12日

出生地
神奈川県横浜市

学歴〔年〕
九州帝国大学法文学部東洋史科〔昭和18年〕卒

主な受賞名〔年〕
戦後文学賞(第1回)〔昭和25年〕「出孤島記」,芸術選奨文部大臣賞(第11回・文学・評論部門)〔昭和35年〕「死の棘」,毎日出版文化賞(第26回)〔昭和47年〕「硝子障子シルエット」,読売文学賞(第29回・小説賞)〔昭和52年〕「死の棘」,谷崎潤一郎賞(第13回)〔昭和52年〕「日の移ろい」,日本文学大賞(第10回)〔昭和53年〕「死の棘」,日本芸術院賞(第37回・文芸部門)〔昭和55年〕,川端康成文学賞(第10回)〔昭和58年〕「湾内の入江で」,野間文芸賞〔昭和60年〕「魚雷艇学生

経歴
第2次大戦中は特攻隊隊長。昭和22年神戸外専(現・神戸市外国語大学)講師となり、「VIKING」に参加。23年第一創作集「単独旅行者」を刊行し注目される。「近代文学」「序曲」同人となる。25年特攻体験4部作のその1「出孤島記」で第1回戦後文学賞を受賞。27年上京するが、妻の神経症発病に伴い30年奄美大島に移住。この間「死の棘」(平成2年映画化)「日のちぢまり」など、いわゆる病妻物の作品を発表。33年鹿児島県立図書館奄美分館長、50年から鹿児島純心女子短期大学教授。52年神奈川県に転居。この間、米国ソ連東欧インドなどへ旅行。56年日本芸術院会員となり、58年「湾内の入江で」で川端康成文学賞を受賞。同年再び鹿児島郊外へ移住。ほかの代表作に「夢の中での日常」「出発は遂に訪れず」「日の移ろい」「魚雷艇学生」があるほか「島尾敏雄全集」(全17巻 晶文社)がある。平成12年福島県小高町に埴谷・島尾記念文学資料館がオープンする。13年には家族など47人が寄稿した小論文やエッセイをまとめた「島尾敏雄」が刊行される。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島尾敏雄」の意味・わかりやすい解説

島尾敏雄
しまおとしお
(1917―1986)

小説家。大正6年4月18日、横浜に生まれる。父は絹織物貿易商で、幼時はしばしば父母の故郷福島県で過ごす。のちに父母とともに神戸に移住し、県立第一神戸商業から長崎高商(長崎大学の前身)に進む。中学時代より同人雑誌を出し続けた文学少年であった。1939年(昭和14)に同人雑誌『こをろ』で矢山哲治、阿川弘之(ひろゆき)、真鍋呉夫(まなべくれお)を知り、九州帝国大学に進学(1940)して庄野(しょうの)潤三と親しくなる。九大は法文学部経済科に入学したが、のちに東洋史に変更、43年に庄野とともに堺(さかい)市の伊東静雄を訪ね、処女作『幼年期』を自家版で発行。この年9月に繰り上げ卒業、海軍予備学生となり、第一期魚雷艇学生として激しい訓練を受ける。その後、第18震洋隊指揮官となり奄美(あまみ)諸島加計呂麻(かけろま)島へ行き、そこで旧家の娘長田ミホと親しくなる。後の妻である。45年8月13日特攻命令が下ったが、待機中に15日を迎えて終戦となる。この3日間の生死幽明の境がその後の島尾文学の原点になる。死と直面しつつ、ミホへの愛に悩む原体験であった。のちにこれが『出発は遂(つい)に訪れず』(1962)で作品化される。ほかに『夢の中での日常』(1948)、『単独旅行者』(1948)、『出孤島記』(1949)、『贋(にせ)学生』(1950)、『死の棘(とげ)』(1960~76)などの力作がある。妻の心因性疾患のため、妻の故郷奄美大島に1955年(昭和30)移住した。第三の新人の代表的作家である。85年『魚雷艇学生』で野間文芸賞受賞。芸術院会員。昭和61年11月12日没。

[松本鶴雄]

『『島尾敏雄全集』全17巻(1980~83・晶文社)』『『島尾敏雄非小説集成』全六巻(1973・冬樹社)』『饗庭孝男編『島尾敏雄研究』(1976・冬樹社)』

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百科事典マイペディア 「島尾敏雄」の意味・わかりやすい解説

島尾敏雄【しまおとしお】

小説家。横浜市生れ。関東大震災後,神戸に移る。九大文科卒業後,海軍予備学生。特攻隊指揮官として出撃命令を受けた2日後,敗戦。戦後,神戸で創作活動を展開,《出孤島記》(1949年)で第1回戦後文学賞受賞。1952年上京。1955年神経を病んだ妻とともに奄美大島に移住。1956年カトリック受洗。代表作に《出発はついに訪れず》《日の移ろい》《死の棘(とげ)》《夢の影を求めて》など。
→関連項目小川国夫小栗康平安岡章太郎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島尾敏雄」の意味・わかりやすい解説

島尾敏雄
しまおとしお

[生]1917.4.18. 横浜
[没]1986.11.12. 鹿児島
小説家。 1943年学徒出陣のため九州大学文科を繰上げ卒業。海軍予備学生となり,特攻隊隊長として赴任した奄美群島加計呂麻 (かけろま) 島で恋愛,のちこの恋人と結婚。 47年神戸外国語大学講師となり,『島の果て』 (1948) ,『出孤島記』 (49) などで戦時下の極限状況を原体験にもつ作家として出発。 55年神経を病む妻の故郷奄美大島に移住して『離脱』 (60) ,『死の棘』 (60) ,『日のちぢまり』 (64) など生や愛の根源に迫る力作を書いた。ほかに『夢の中での日常』 (48) ,『われ深きふちより』 (55) ,『出発は遂に訪れず』 (62) など。 81年日本芸術院賞受賞。芸術院会員。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島尾敏雄」の解説

島尾敏雄 しまお-としお

1917-1986 昭和時代後期の小説家。
大正6年4月18日生まれ。海軍の特攻隊指揮官として奄美(あまみ)で終戦をむかえる。戦争体験をえがいた「出孤島記」「出発は遂(つい)に訪れず」,超現実的な「夢の中での日常」などで新しい文学の旗手となる。心をやんだ妻ミホとの交渉をえがいた「死の棘(とげ)」で昭和53年日本文学大賞。56年芸術院賞。60年「魚雷艇学生」で野間文芸賞。昭和61年11月12日死去。69歳。神奈川県出身。九州帝大卒。

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事典・日本の観光資源 「島尾敏雄」の解説

島尾敏雄

(鹿児島県大島郡瀬戸内町)
かごしま よかとこ100選 浪漫の旅」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

367日誕生日大事典 「島尾敏雄」の解説

島尾 敏雄 (しまお としお)

生年月日:1917年4月18日
昭和時代の小説家。鹿児島純心女子短期大学教授
1986年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島尾敏雄の言及

【加計呂麻島】より

…大島海峡に臨む薩川湾は1920年から第2次大戦終了まで軍港として利用された。作家島尾敏雄が大戦末期特攻隊長をしていた所で,《出発は遂に訪れず》などの小説で有名になった。〈ノロ(祝女)〉の神事や〈諸鈍(しよどん)シバヤ(芝居)〉など古い民俗や風習が残っている。…

※「島尾敏雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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