日本大百科全書(ニッポニカ)「五畿七道」の解説
五畿七道
ごきしちどう
律令制(りつりょうせい)の基本行政単位である国の上部に設定された地方行政上の地域区分。五畿は山城(やましろ)(京都府)、大和(やまと)(奈良県)、摂津(せっつ)(大阪府・兵庫県)、河内(かわち)(大阪府)、和泉(いずみ)(大阪府)の5か国。大化改新の詔(みことのり)(646)には「畿内国(うちつくに)」の東西南北の境界を示しており、692年(持統天皇6)には大倭(やまと)、河内、摂津、山背(やましろ)の「四畿内」と称される範囲であった。五畿となるのは、河内に設置された和泉監(いずみのげん)がいったん廃止ののちに和泉国となった757年(天平宝字1)以後のことである。五畿は、都城の所在した大和、山城をはじめ、京職(きょうしき)に準ずる摂津職支配下の摂津など、首都圏ともいうべき要国であって、政治、経済、文化の中心地域。畿内制設定の当初は、畿内は畿外から軍事的に防衛され、また官人を任用する王城周辺の特別地域であり、大宝令(たいほうりょう)でも調(ちょう)の半分と庸(よう)が免除されるといった優遇がなされていた。七道は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道をさす。東海道14か国は安房国(あわのくに)が復活した757年、東山道9か国は諏訪国(すわのくに)を廃した731年(天平3)に確定したが、その後771年(宝亀2)東山道に所属する武蔵国を改めて東海道所属とした。北陸道7か国は加賀国(かがのくに)を分置した823年(弘仁14)、山陰道7か国は丹後国(たんごのくに)を設置した713年(和銅6)、山陽道8か国は安芸(あき)・周防(すおう)両国界が定められた734年(天平6)、西海道9国2島は多褹島(たねがしま)が大隅国(おおすみのくに)にあわせられた824年(天長1)に最終的に確定した。南海道6か国だけは当初から変化がなかった。七道はそれぞれ京師(けいし)から放射状に発する同名の官道で結ばれており、巡察使や問民苦使(もみくし)などの地方監督官の派遣や、政策の伝達、実施なども畿内・道ごとに行われることが多かった。大陸、半島に近い西海道は内治、外交、国防上の重要地域として大宰府(だざいふ)の統轄下に置かれていた。七道に編成された諸国には、大・上・中・下の等級があったが、都からの距離によって近・中・遠国の区分もなされた。五畿七道の区分は以後日本の地方区分の基本となった。
[金田章裕]