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巫蠱の乱 ふこのらんWu-gu; Wu-ku

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

巫蠱の乱
ふこのらん
Wu-gu; Wu-ku

中国,漢の征和2 (前 91) 年戻太子 (れいたいし) 劉拠が起した乱。蠱とは木の人形を土中に埋め,巫 (みこ) に祈らせて願いをかなえたり,人を呪い殺すという迷信。前漢の武帝は末年衛皇后をうとんじ,その子戻太子を廃そうとした。太子の悪口をいう者がふえていた征和1 (前 92) 年,宮廷内に巫蠱が起り,翌年丞相公孫賀らが連座して獄死した。衛氏と反目していた江充はこれを利用して,太子宮から木人形が発見されたと上奏した。太子と皇后は江充を斬ろうとして挙兵したが,死者数万に上る激戦の末,5日で敗れ,湖県泉鳩里の民家でともに自殺した。のち壺関三老茂らの上書で,太子の無実が明らかとなると,武帝は江充一族を滅ぼし,子思宮を造ってみずからを慰めた。

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世界大百科事典 第2版の解説

ふこのらん【巫蠱の乱】

中国,前漢武帝末の内乱をいう。巫蠱とは木の人形などを地中に埋めて呪詛を行う呪術をいう。皇太子戻太子は武帝に疎まれ,外戚衛青も死んで孤立していた。時に武帝が病み,巫蠱によって武帝を呪詛した容疑で丞相らが処刑された。戻太子と反目していた江充はこの機に乗じて巫蠱の罪に陥れようとしたため,迫(ひつぱく)した戻太子は挙兵して江充を殺害,鎮圧されて自殺した(前91)。後に冤罪(えんざい)が判明して武帝は悔恨し,民間の動揺も続いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

巫蠱の乱
ふこのらん

中国、前漢の武帝(ぶてい)(在位前141~前87)末期の内乱。木製の人形を地中に埋め、巫(みこ)によってこれに呪(のろ)いをかけ、目的とする人物の寿命を縮めようとする邪術を巫蠱という。衛(えい)皇后の子の拠(きょ)(諡(おくりな)は戻(れい)太子)は皇太子にたてられて以来二十数年が過ぎた。このころになると衛氏一族の統領、大将軍衛青(えいせい)もすでに亡く、その勢力に影がさし始めていた。武帝と皇太子の間柄も順調ではなかった。従前から皇太子と反目していた直指繍衣使者(ちょくししゅういししゃ)(三輔の監察官)の江充(こうじゅう)は、66歳の武帝の衰えと身の保全を考え、紀元前91年7月、皇太子が武帝を呪詛(じゅそ)していると上奏した。当時、病を得て甘泉(かんせん)宮に避暑中の武帝がこの告訴を受けて皇太子宮の地下を掘らせたところ、針の突き刺してある人形が6個発見された。江充の策略である。もはや戦うのみと断じた皇太子は先手を打って江充を斬(き)り、未央(びおう)宮を占領。武帝もただちに長安城内建章宮に帰り、両軍は5日間にわたって戦った。死者は数万に及んだ。皇太子は敗れ、20日ほどのち、湖(こ)県(陝西(せんせい)省)の民家に隠れているのが発見され、2人の王子ともども縊死(いし)したとも討ち死にしたともいわれる。乱後まもなく皇太子の冤罪(えんざい)を知った武帝は、江充の遺族を族滅するとともに、湖県に思子(しし)宮を建てて自らの過ちを悔い嘆いた。武帝の後半期は巫蠱の災いが多いが、これら事件の背景には、儒教思想家の董仲舒(とうちゅうじょ)らにみられる「災異説」や武帝の神仙趣味など、神秘的な傾向を示す当時の時代思潮の存在があった。[春日井明]

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