日本大百科全書(ニッポニカ) 「巫蠱の乱」の意味・わかりやすい解説
巫蠱の乱
ふこのらん
中国、前漢の武帝(ぶてい)(在位前141~前87)末期の内乱。木製の人形を地中に埋め、巫(みこ)によってこれに呪(のろ)いをかけ、目的とする人物の寿命を縮めようとする邪術を巫蠱という。衛(えい)皇后の子の拠(きょ)(諡(おくりな)は戻(れい)太子)は皇太子にたてられて以来二十数年が過ぎた。このころになると衛氏一族の統領、大将軍衛青(えいせい)もすでに亡く、その勢力に影がさし始めていた。武帝と皇太子の間柄も順調ではなかった。従前から皇太子と反目していた直指繍衣使者(ちょくししゅういししゃ)(三輔の監察官)の江充(こうじゅう)は、66歳の武帝の衰えと身の保全を考え、紀元前91年7月、皇太子が武帝を呪詛(じゅそ)していると上奏した。当時、病を得て甘泉(かんせん)宮に避暑中の武帝がこの告訴を受けて皇太子宮の地下を掘らせたところ、針の突き刺してある人形が6個発見された。江充の策略である。もはや戦うのみと断じた皇太子は先手を打って江充を斬(き)り、未央(びおう)宮を占領。武帝もただちに長安城内建章宮に帰り、両軍は5日間にわたって戦った。死者は数万に及んだ。皇太子は敗れ、20日ほどのち、湖(こ)県(陝西(せんせい)省)の民家に隠れているのが発見され、2人の王子ともども縊死(いし)したとも討ち死にしたともいわれる。乱後まもなく皇太子の冤罪(えんざい)を知った武帝は、江充の遺族を族滅するとともに、湖県に思子(しし)宮を建てて自らの過ちを悔い嘆いた。武帝の後半期は巫蠱の災いが多いが、これら事件の背景には、儒教思想家の董仲舒(とうちゅうじょ)らにみられる「災異説」や武帝の神仙趣味など、神秘的な傾向を示す当時の時代思潮の存在があった。
[春日井明]