奈良・平安時代,交通の要地,難所などに設けられた給食,宿泊の施設。行基(ぎようき)が畿内諸国の9ヵ所に設けたのが最初らしいが,それらはいずれも平城京に入る交通の要地にあり,調・庸の運搬や都の造営のために地方から徴発されてきたあと,食物もなく苦しんでいる人民を見かねて,その地の豪族からの援助を得て設けたものと解されている。東大寺でも761年(天平宝字5)朱雀路の南端に近い大和国十市郡池上郷の寄進地に宿泊棟や倉庫を建て,果樹を植えて布施屋とした。平安時代には,最澄が817年(弘仁8)ころらしいが東国への旅の際,信濃の長坂(神坂(みさか)峠)に広済,広拯(こうじよう)2院を建てた。835年(承和2)には太政官が大安寺の僧に監督させて美濃の墨俣(すのまた)河の渡し場の両岸に布施屋を設けさせ,また848年(嘉祥1)には前相模介橘永範の建てた布施屋の維持が困難となったので国費管理を決定するなど,いくつかの例が知られている。
→接待宿 →もてなし
執筆者:青木 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
旅行者に食料などを施して休息させる宿舎で、仏典には「福徳舎」とみえる。奈良・平安時代に、調庸(ちょうよう)の運搬や造営に徴発された人民は、都との往来の途中、病気や飢えのため死ぬ者が多く、彼らを宿泊させる施設として、交通の要地や難所に設けられた。8世紀前半、行基(ぎょうき)が畿内(きない)に九所の布施屋を建てたのがもっとも著名。東大寺も大和(やまと)国十市(といち)郡に布施屋を設けている。815年(弘仁6)最澄(さいちょう)は信濃(しなの)の長坂(神坂(みさか)峠)に広済(こうさい)、広拯(こうじょう)の二院を建て、835年(承和2)太政(だいじょう)官は大安寺僧に監督させて美濃(みの)の墨俣(すのまた)川の両岸に布施屋を造立した。なお、地方官が建てた同種の施設は、「救急院」あるいは「続命院」とよばれている。
[中井真孝]
古代,運脚や役民などの往還のために交通の要衝に設けられた宿泊施設。僧侶がかかわることが多く,行基(ぎょうき)は大和・摂津・河内・和泉の4国に9カ所,最澄は東山道の神坂(みさか)峠の両側に作ったという。東大寺も761年(天平宝字5)に大和国十市郡池上郷に作っている。835年(承和2)官符により東海・東山両道をつなぐ墨俣渡(すのまたのわたし)の両岸に設置され,その費用に救急稲があてられたように,国家が設置し保護したものもあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その点,詳細な史料の残る奈良時代の僧行基の活動は質量ともに特筆でき,後世の慈善事業に与えた影響も大きい。行基の多岐にわたる活動のうち具体的に知られる造営事業には架橋・直道・船息などの交通施設,池・溝・樋・堀などの灌漑施設のほか,役民・運脚夫らが飢えや病気で難渋した際に救済収容する布施屋(ふせや)といった救恤(きゆうじゆつ)施設がある。長距離の旅を強いられた律令制下の農民は途中で死亡する者も多く,政府の対策も不十分であっただけに注目され,のちに東大寺が大和に布施屋を設置し,平安時代には一部の地方官吏らにより続命院・救急院・悲田処ほか類似の施設が各地に設置された。…
※「布施屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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