下村観山(読み)シモムラカンザン

デジタル大辞泉 「下村観山」の意味・読み・例文・類語

しもむら‐かんざん〔‐クワンザン〕【下村観山】

[1873~1930]日本画家。和歌山の生まれ。本名、晴三郎。狩野芳崖かのうほうがい橋本雅邦に師事。日本美術院の創立に参加。卓抜した技法により、伝統的画風を現代に生かした。作「白狐」「弱法師」など。

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精選版 日本国語大辞典 「下村観山」の意味・読み・例文・類語

しもむら‐かんざん【下村観山】

  1. 日本画家。本名晴三郎。和歌山県出身。狩野芳崖、橋本雅邦に師事。東京美術学校在学中、岡倉天心に認められる。のち日本美術院の創立に参加。作風は、伝統的日本画のもつ格調の高さを現代に生かし、すぐれた色感を示している。作品に「白狐」「弱法師(よろぼし)」など。明治六~昭和五年(一八七三‐一九三〇

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改訂新版 世界大百科事典 「下村観山」の意味・わかりやすい解説

下村観山 (しもむらかんざん)
生没年:1873-1930(明治6-昭和5)

日本画家。本名晴三郎。和歌山市に生まれる。家は代々,紀州徳川家のお抱え能楽師であったが,明治維新後,父は篆刻(てんこく)や牙彫(げちよう)を業としていた。1881年一家が上京,観山ははじめ藤島常興,ついで狩野芳崖について絵を学び,北心斎東秀の号を名乗って少年時から天才を噂された。その後,橋本雅邦につき,さらに89年東京美術学校に入学。94年卒業と同時に同校助教授に任ぜられるが,98年岡倉天心が美術学校を辞して日本美術院を創立するに際し,橋本雅邦,横山大観らとともに母校を退き,美術院正員となる。以来,日本美術院が日本絵画協会と連合して開催した共進会に,洋風の陰影法と色彩感覚をとりいれた《闍維(じやい)》,大和絵研究に基づく《修羅道絵巻》,色彩によって空間を処理してゆく没線描法ともいうべき,いわゆる朦朧(もうろう)体の《大原の露》など,近代日本画の方向を暗示する作品を発表した。1903年ふたたび東京美術学校教授となり,文部省留学生として渡欧する。留学中は主としてロンドンで,ラファエル前派などの模写にとりくみ,洋風の写実における色彩の方法,人物像における表情などを研究した。05年帰国し,07年第1回文展に際して審査員に選ばれたが,自らも《木の間の秋》を出品,声価を得る。長く解散状態にあった日本美術院を,横山大観,安田靫彦らと苦難の末に再興,観山は《白狐》を出品した。続く第2回展には《弱法師(よろぼし)》を発表している。お抱え能楽師の家に生まれたことによるのか,その作風は静のうちに動勢を感じさせる一方,華麗な装飾美をあわせもち,ことにその描線の美しさをあげることができる。とりわけ前期の作品に秀れたものがあり,強い影響を後進に与えた。大正中期以降の秀れた作品としては《天心先生》《維摩黙然》,またモナ・リザの顔を模した《魚籃観音》などがある。なお17年,帝室技芸員に任ぜられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下村観山」の意味・わかりやすい解説

下村観山
しもむらかんざん
(1873―1930)

日本画家。家は代々紀州徳川家に幸流(こうりゅう)の小鼓(こつづみ)で仕えていたが、明治維新後、父豊次郎は篆刻(てんこく)を業とし和歌山に引き込んだ。観山はその三男として明治6年4月10日に生まれる。本名は晴三郎。1881年(明治14)一家とともに東京に移り、祖父の友人藤島常興に絵の手ほどきを受け、ついで常興の紹介で狩野芳崖(かのうほうがい)に師事、1886年には芳崖の配慮で橋本雅邦(はしもとがほう)の門に入った。少年の並々でない才能を見抜いた芳崖が、その前途を年下の僚友雅邦に託したものと思われる。1889年、この年開校した東京美術学校に入学、岡倉天心の薫陶を受け、1894年に卒業すると同校の助教授にあげられた。とくに仏画、大和絵(やまとえ)などの手法を研究して進境をみせ、卒業制作に『熊野観花(ゆやかんか)』がある。1898年、いわゆる美術学校騒動によって天心が校長の職を退くと行(こう)をともにし、天心を中心に同志によって創設された日本美術院に正員として加わった。『闍維(じゃい)』『日蓮上人(にちれんしょうにん)』『大原の露』などがこの時期を代表する。1901年(明治34)要請されて東京美術学校教授となり、1903年に水彩画研究のためイギリスに派遣され、1905年ヨーロッパを回って帰国。1907年、文部省美術展覧会(文展)が創設されると審査委員に推され、その第1回展に『木の間の秋』を出品して賞賛された。1914年(大正3)、横山大観、安田靫彦(やすだゆきひこ)らと日本美術院を再興。そこに『白狐(びゃっこ)』『弱法師(よろぼし)』『春雨』などの力作を次々に発表した。1917年帝室技芸員を命ぜられ、翌1918年には帝国美術院会員に推されたがこれを辞退した。卓抜な技法と清新な古典解釈がその画業を一貫している。昭和5年5月10日没。

[原田 実]

『野間清六著『日本近代絵画全集18 下村観山』(1963・講談社)』『細野正信編『下村観山』(1972・至文堂)』『永井信一・難波専太郎解説『現代日本の美術1 下村観山他』(1976・集英社)』


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20世紀日本人名事典 「下村観山」の解説

下村 観山
シモムラ カンザン

明治・大正期の日本画家 東京美術学校教授。



生年
明治6年4月10日(1873年)

没年
昭和5(1930)年5月10日

出生地
和歌山県和歌山市

本名
下村 晴三郎

学歴〔年〕
東京美術学校(現・東京芸術大学)〔明治27年〕卒

主な受賞名〔年〕
ニンマンドゥール・カンボージュ勲章(フランス)〔昭和3年〕

経歴
家は代々紀州徳川家に小鼓で仕える能楽師。14年一家で上京。狩野芳崖に師事、19年橋本雅邦に入門。東京美術学校の第1回生として入学、翌年より観山と号し、狩野派に加え大和絵を習得。岡倉天心に認められ、27年卒業と同時に助教授に抜擢される。31年学校の内紛のため天心が校長を辞したのに殉じて辞職。以来天心主宰の日本美術院創設に参加。この頃「闍維」「日蓮上人」「大原の露」などを発表。34年再び美校教授となり、36〜38年イギリスに留学。40年文展開設後は審査員として活躍。41年美校教授を辞任。大正3年日本美術院を再興、「白孤」「弱法師」「春雨」などの名作を発表。6年帝室技芸員となり、翌7年帝国芸術院会員に推されたが、辞退した。他に歴史画絵巻「大原御幸」「魔障図」「天心先生」などが著名。伝統的日本画のもつ格調の高さを現代に生かした点に特色がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下村観山」の意味・わかりやすい解説

下村観山
しもむらかんざん

[生]1873.4.10. 和歌山
[没]1930.5.10. 東京
日本画家。本名は晴三郎。家は代々幸流小鼓をもって紀州徳川家に仕えた。 1882年頃狩野芳崖,1886年橋本雅邦に師事。 1889年第1期生として東京美術学校に入学,観山の号を用いはじめる。 1894年卒業後同校の助教授を務めたが,1898年岡倉天心に従って辞職。日本美術院の創立に参加し,横山大観菱田春草らとともに院展で活躍。 1901年母校の教授,1903年文部省の命でイギリスに留学。 1905年帰国後は天心,大観,春草,木村武山とともに茨城県五浦 (いづら) で画道に精進。広く古典の技法に精通し,卓越した技法で気品高い数々の作品を発表。 1907年より文部省美術展覧会 (文展) 審査員となったが,1914年これを辞退し,大観らと日本美術院を再興。 1917年帝室技芸員となり,1919年帝国美術院会員に推されたが辞退。 1928年フランス政府よりコンマンドゥール・カムボーシュ勲章を受章。主要作品『木の間の秋』 (1907,東京国立近代美術館,重要文化財) ,『大原御幸』 (1908,同) ,『鵜』 (1912,東京国立博物館) ,『弱法師 (よろぼうし) 』 (1915,同,重文) 。

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百科事典マイペディア 「下村観山」の意味・わかりやすい解説

下村観山【しもむらかんざん】

日本画家。本名晴三郎。和歌山市生れ。1881年一家で上京。狩野芳崖橋本雅邦に師事した後,東京美術学校に学ぶ。その後母校の助教授,教授を勤め,また日本美術院の創立,再興にも活躍し,その間文部省留学生として渡欧もした。大和絵や宋元画の研究に基づく格調高い筆致と鮮やかな技巧により,明治期には橋本雅邦を継ぐものと高く評価された。代表作《木の間の秋》《弱法師》など。
→関連項目小村雪岱菱田春草横浜美術館横山大観

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朝日日本歴史人物事典 「下村観山」の解説

下村観山

没年:昭和5.5.10(1930)
生年:明治6.4.10(1873)
明治から昭和にかけての日本画家。和歌山市生まれ。下村豊次郎,寿々の3男。本名晴三郎。狩野芳崖,橋本雅邦に師事。明治23(1890)年,すでに観山を名乗る。27年に東京美術学校(東京芸大)を卒業し,同時に同校助教授となるが,31年の同校騒動により,同志と連袂辞職し日本美術院創設に加わる。苦難の五浦時代を経て大正3(1914)年,横山大観らと日本美術院を再興し,主導的役割を果たす。代表作に「木の間の秋」(1907,東京国立近代美術館蔵),「弱法師」(1915,東京国立博物館蔵)などがあり,6年に帝室技芸員となる。8年に帝国美術院会員に推挙されるが,大観と共に辞退し,在野を貫く。やまと絵,琳派,宋元画の手法を究め,その卓抜した筆技は近代日本画家中屈指といえる。

(藤本陽子)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「下村観山」の解説

下村観山
しもむらかんざん

1873.4.10~1930.5.10

明治・大正期の日本画家。和歌山県出身。紀州徳川家に仕えた能楽師の家に生まれる。上京して狩野芳崖(ほうがい)・橋本雅邦(がほう)に師事,早熟ぶりを示す。東京美術学校卒業後助教授となる。1898年(明治31)日本美術院創立に参加。1903年渡欧してイギリス水彩画などを学ぶ。14年(大正3)日本美術院を再興し,横山大観とともに中心的存在となった。古典研究に優れる。帝室技芸員。代表作「弱法師(ようぼうし)」(重文)「木の間の秋」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下村観山」の解説

下村観山 しもむら-かんざん

1873-1930 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治6年4月10日生まれ。狩野芳崖(かのう-ほうがい),橋本雅邦(がほう)にまなぶ。明治27年母校東京美術学校(現東京芸大)助教授。31年辞任し,日本美術院創立に参加。36年ヨーロッパに留学。40年文展の審査員をつとめ,「木の間の秋」を出品。大正3年横山大観らと日本美術院を再興した。昭和5年5月10日死去。58歳。和歌山県出身。本名は晴三郎。作品に「白狐」「弱法師(よろぼし)」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「下村観山」の解説

下村観山
しもむらかんざん

1873〜1930
明治・大正時代の日本画家
和歌山県の生まれ。狩野芳崖・橋本雅邦に学び,東京美術学校卒業後,日本美術院の創立に参加。洋画の表現もとり入れるとともに古画の研究により,格調正しい技法を示した。代表作に『木の間の秋』『大原御幸』『天心先生』など。

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367日誕生日大事典 「下村観山」の解説

下村 観山 (しもむら かんざん)

生年月日:1873年4月10日
明治時代;大正時代の日本画家
1930年没

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