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下村観山 しおむら かんざん

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美術人名辞典の解説

下村観山

日本画家。和歌山県生。名は晴三郎。東美校卒。狩野芳崖橋本雅邦に学ぶ。日本美術院創立に参加し、横山大観菱田春草と共に活躍、またその再興にも尽力する。東美校教授・帝室技芸員。昭和5年(1930)歿、58才。

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デジタル大辞泉の解説

しもむら‐かんざん〔‐クワンザン〕【下村観山】

[1873~1930]日本画家。和歌山の生まれ。本名、晴三郎。狩野芳崖(かのうほうがい)橋本雅邦に師事。日本美術院の創立に参加。卓抜した技法により、伝統的画風を現代に生かした。作「白狐」「弱法師」など。

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百科事典マイペディアの解説

下村観山【しもむらかんざん】

日本画家。本名晴三郎。和歌山市生れ。1881年一家で上京。狩野芳崖橋本雅邦に師事した後,東京美術学校に学ぶ。その後母校の助教授,教授を勤め,また日本美術院の創立,再興にも活躍し,その間文部省留学生として渡欧もした。
→関連項目小村雪岱菱田春草横浜美術館横山大観

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

下村観山 しもむら-かんざん

1873-1930 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治6年4月10日生まれ。狩野芳崖(かのう-ほうがい),橋本雅邦(がほう)にまなぶ。明治27年母校東京美術学校(現東京芸大)助教授。31年辞任し,日本美術院創立に参加。36年ヨーロッパに留学。40年文展の審査員をつとめ,「木の間の秋」を出品。大正3年横山大観らと日本美術院を再興した。昭和5年5月10日死去。58歳。和歌山県出身。本名は晴三郎。作品に「白狐」「弱法師(よろぼし)」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

下村観山

没年:昭和5.5.10(1930)
生年:明治6.4.10(1873)
明治から昭和にかけての日本画家。和歌山市生まれ。下村豊次郎,寿々の3男。本名晴三郎。狩野芳崖,橋本雅邦に師事。明治23(1890)年,すでに観山を名乗る。27年に東京美術学校(東京芸大)を卒業し,同時に同校助教授となるが,31年の同校騒動により,同志と連袂辞職し日本美術院創設に加わる。苦難の五浦時代を経て大正3(1914)年,横山大観らと日本美術院を再興し,主導的役割を果たす。代表作に「木の間の秋」(1907,東京国立近代美術館蔵),「弱法師」(1915,東京国立博物館蔵)などがあり,6年に帝室技芸員となる。8年に帝国美術院会員に推挙されるが,大観と共に辞退し,在野を貫く。やまと絵,琳派,宋元画の手法を究め,その卓抜した筆技は近代日本画家中屈指といえる。

(藤本陽子)

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世界大百科事典 第2版の解説

しもむらかんざん【下村観山】

1873‐1930(明治6‐昭和5)
日本画家。本名晴三郎。和歌山市に生まれる。家は代々,紀州徳川家のお抱え能楽師であったが,明治維新後,父は篆刻(てんこく)や牙彫(げちよう)を業としていた。1881年一家が上京,観山ははじめ藤島常興,ついで狩野芳崖について絵を学び,北心斎東秀の号を名乗って少年時から天才を噂された。その後,橋本雅邦につき,さらに89年東京美術学校に入学。94年卒業と同時に同校助教授に任ぜられるが,98年岡倉天心が美術学校を辞して日本美術院を創立するに際し,橋本雅邦,横山大観らとともに母校を退き,美術院正員となる。

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大辞林 第三版の解説

しもむらかんざん【下村観山】

1873~1930) 日本画家。和歌山県生まれ。狩野芳崖・橋本雅邦に師事。日本美術院創立に参加。漢画・大和絵・琳派などの技法を復活させ、気品に満ちた美しい色彩の作品を描いた。代表作「大原御幸」「弱法師」「白狐」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

下村観山
しもむらかんざん

[生]1873.4.10. 和歌山
[没]1930.5.10. 東京
日本画家。本名は晴三郎。家は代々幸流小鼓をもって紀州徳川家に仕えた。 1882年頃狩野芳崖,1886年橋本雅邦に師事。 1889年第1期生として東京美術学校に入学,観山の号を用いはじめる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

下村観山
しもむらかんざん
(1873―1930)

日本画家。家は代々紀州徳川家に幸流(こうりゅう)の小鼓(こつづみ)で仕えていたが、明治維新後、父豊次郎は篆刻(てんこく)を業とし和歌山に引き込んだ。観山はその三男として明治6年4月10日に生まれる。本名は晴三郎。1881年(明治14)一家とともに東京に移り、祖父の友人藤島常興に絵の手ほどきを受け、ついで常興の紹介で狩野芳崖(かのうほうがい)に師事、1886年には芳崖の配慮で橋本雅邦(はしもとがほう)の門に入った。少年の並々でない才能を見抜いた芳崖が、その前途を年下の僚友雅邦に託したものと思われる。1889年、この年開校した東京美術学校に入学、岡倉天心の薫陶を受け、1894年に卒業すると同校の助教授にあげられた。とくに仏画、大和絵(やまとえ)などの手法を研究して進境をみせ、卒業制作に『熊野観花(ゆやかんか)』がある。1898年、いわゆる美術学校騒動によって天心が校長の職を退くと行(こう)をともにし、天心を中心に同志によって創設された日本美術院に正員として加わった。『闍維(じゃい)』『日蓮上人(にちれんしょうにん)』『大原の露』などがこの時期を代表する。1901年(明治34)要請されて東京美術学校教授となり、1903年に水彩画研究のためイギリスに派遣され、1905年ヨーロッパを回って帰国。1907年、文部省美術展覧会(文展)が創設されると審査委員に推され、その第1回展に『木の間の秋』を出品して賞賛された。1914年(大正3)、横山大観、安田靫彦(やすだゆきひこ)らと日本美術院を再興。そこに『白狐(びゃっこ)』『弱法師(よろぼし)』『春雨』などの力作を次々に発表した。1917年帝室技芸員を命ぜられ、翌1918年には帝国美術院会員に推されたがこれを辞退した。卓抜な技法と清新な古典解釈がその画業を一貫している。昭和5年5月10日没。[原田 実]
『野間清六著『日本近代絵画全集18 下村観山』(1963・講談社) ▽細野正信編『下村観山』(1972・至文堂) ▽永井信一・難波専太郎解説『現代日本の美術1 下村観山他』(1976・集英社)』

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