帝釈寺(読み)たいしやくじ

日本歴史地名大系 「帝釈寺」の解説

帝釈寺
たいしやくじ

[現在地名]香住町下浜

下浜しものはま集落の南西部にあり、高野山真言宗に属する。喜見山と号し、本尊帝釈天。創建年代は未詳であるが、裏書に天文一七年(一五四八)の年紀がある帝釈寺縁起によれば、法相宗の道照が大宝二年(七〇二)諸国行脚の途中当寺の荒廃をみて旧地中興鎮守は八幡大菩薩で、天文年中覚善が高木因幡守沙弥道勝の外護をうけて再興したが、その後また回禄したという。本尊の木造帝釈天倚像(県指定文化財)には、正安三年(一三〇一)七月一〇日の年紀と「大願主高階氏女」、「勧進僧日龍」の胎内銘がある。


帝釈寺
たいしやくじ

[現在地名]高田町上楠田

上楠田かみくすだの南東にある。梵天山と号し黄檗宗、本尊は釈迦如来。建仁元年(一二〇一)の高良宮造営田数注文の下宮拝殿料所として三毛みけ北郷一〇〇町の中に「末弘」二〇町があり、これに「加帝尺寺定」とみえる。ここから鎌倉時代初期にすでに帝釈寺が建立されていたこと、および同寺が国衙領末弘名の一部として高良こうら(現久留米市)造営料賦課の対象となっていたことがわかる。


帝釈寺
たいしやくじ

[現在地名]宮崎市下北方町 戸林

大淀川の左岸下北方しもきたかた丘陵の南西端にあり、東に名田中みようでなか池・同下池を望む。善法山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。推古天皇の時代秦川勝が詔勅により建立し善法山帝跡寺と号した。藤原(平)景清が再興し帝釈寺と改めたという。また応永一二年(一四〇五)には曹洞宗寺院として再興、伯州より大海を招いて開山としたと伝える(宮崎県史蹟調査)。その後衰微していたというが、寛延三―四年(一七五〇―五一)の宮崎騒動の際、当寺など八ヵ寺は百姓の他国への逃散を押止め、連署して延岡藩宮崎役所に願書を提出している(同四年「万覚書」内藤家文書)


帝釈寺
たいしやくじ

[現在地名]箕面市粟生外院

高野山真言宗。宝生山と号し、本尊は帝釈天。寺伝によれば推古天皇二一年、聖徳太子の開創という。「三代実録」元慶四年(八八〇)一二月四日条にみえる清和天皇の諸山巡歴の記事に清和天皇が勝尾かつお寺を訪れたことが記されるが、その折、天皇は当寺をも訪れ、勝尾寺を弥勒浄土都率の内院に比し、当寺を外院に擬して宝生山三天寺と勅号を下したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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