平林たい子(読み)ヒラバヤシタイコ

デジタル大辞泉 「平林たい子」の意味・読み・例文・類語

ひらばやし‐たいこ【平林たい子】

[1905~1972]小説家長野の生まれ。本名タイ各地放浪し、職を転々としながらプロレタリア作家として出発。第二次大戦後はしだいに反共的姿勢を強めた。作「施療室にて」「かういふ女」「砂漠の花」など。

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精選版 日本国語大辞典 「平林たい子」の意味・読み・例文・類語

ひらばやし‐たいこ【平林たい子】

  1. 小説家。本名タイ。長野県出身。諏訪高等女学校卒後上京、当時のアナーキスト芸術家たちと交わり、作家活動を営む。のち、プロレタリア文学の一方の代表的作家となるが、第二次世界大戦後は急速に反共的傾斜を示した。著「施療室にて」「かういふ女」など。明治三八~昭和四七年(一九〇五‐七二

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20世紀日本人名事典 「平林たい子」の解説

平林 たい子
ヒラバヤシ タイコ

昭和期の小説家



生年
明治38(1905)年10月3日

没年
昭和47(1972)年2月17日

出生地
長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)

本名
平林 タイ

学歴〔年〕
諏訪高女〔大正11年〕卒

主な受賞名〔年〕
朝日新聞懸賞小説〔大正15年〕「残品」,渡辺賞(第3回)〔昭和4年〕,女流文学者賞(第1回)〔昭和22年〕「かういふ女」,女流文学賞(第7回)〔昭和43年〕「秘密」,日本芸術院恩賜賞(第28回・文芸部門)〔昭和46年〕

経歴
13歳で作家を志し県立諏訪高女に首席で入学。土屋文明に学び、国木田独歩志賀直哉に傾倒。卒後上京して電話交換手、女給などを転々。堺利彦の知遇を得るほか、アナーキスト等と交わり、山本虎三と満州朝鮮を放浪。帰国後の昭和2年懸賞小説に「嘲る」が入選、同年「文芸戦線」に発表した「施療室にて」でプロレタリア作家として認められ、以後体験に根ざす反逆的作品で、昭和期の代表的女流作家となった。12年には人民戦線事件で検挙される。戦後は反共的姿勢に転じ、文化フォーラムの日本委員として活動、安保反対闘争、松川事件の無罪判決などを批判し、物議をかもす。代表作に「かういふ女」「地底の歌」「秘密」「敷設列車」「私は生きる」のほか、「平林たい子全集」(全12巻・潮出版社)がある。死後、平林たい子文学賞が設定された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平林たい子」の意味・わかりやすい解説

平林たい子
ひらばやしたいこ
(1905―1972)

小説家。明治38年10月3日長野県に生まれる。家は旧家であったが没落の一途をたどっていた。県立諏訪(すわ)高等女学校を卒業後、上京して中央電話局交換手になるが、しだいにアナキスト・グループに近づく。満州(中国東北)を放浪し、帰国後、『文芸戦線』同人の小堀甚二と結婚する。1927年(昭和2)5月『大阪朝日新聞』の懸賞短編小説に『嘲(あざけ)る』が入選し、文壇に登場した。同年6月、労農芸術家連盟に参加し、『文芸戦線』に発表した『施療室にて』(1927)で新進プロレタリア作家として認められる。37年、人民戦線事件で検挙されるが留置中に腹膜炎で重態となり釈放された。この体験を踏まえて第二次世界大戦後『かういふ女』(1946)を執筆し、第1回女流文学賞を受賞。50年代には長編自伝小説『砂漠の花』(1955~57)や懐古集『自伝的交友録・実感的作家論』(1960)などを精力的に執筆した。晩年、難病と闘いつつも『宮本百合子(ゆりこ)』(1971~72)を書き継いだが、肺炎のため昭和47年2月17日没。没後、平林たい子文学賞、諏訪市に記念館が設けられた。

[金井景子]

『『平林たい子全集』全12巻(1976~79・潮出版社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「平林たい子」の意味・わかりやすい解説

平林たい子 (ひらばやしたいこ)
生没年:1905-72(明治38-昭和47)

小説家。本名タイ。長野県諏訪郡中洲村生れ。諏訪高等女学校卒業後上京し,電話交換手,店員などの職についたが,アナーキスト・グループに近づき,虚無的生活におちいった。1924年には,朝鮮,満州を放浪,施療病院で女児を出産したが,病死させた。そういう痛烈な生活をリアルに作品化した《嘲る》(1926),《施療室にて》(1927)によって,プロレタリア文学の新進作家として認められた。27年《文芸戦線》同人小堀甚二と結婚,戦争中は夫婦ともに検挙されたり,病気に倒れたり,苦難つづきであった。戦後旺盛な創作活動を再開,《かういふ女》(1946),《地底の歌》(1949),《砂漠の花》(1957),《秘密》(1967)などを残した。没後平林たい子文学賞が設定された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平林たい子」の意味・わかりやすい解説

平林たい子
ひらばやしたいこ

[生]1905.10.3. 長野,中洲
[没]1972.2.17. 東京
小説家。本名,タイ。 1922年県立諏訪高等女学校卒業後,社会主義運動を志して上京,電話交換手,女給などを転々としながらアナキストグループに近づいたが,関東大震災を機とする弾圧で検挙され,釈放後,中国大陸,朝鮮を放浪,その間の経緯を書いた『施療室にて』 (1927) や,『大阪朝日新聞』の懸賞当選作『嘲る』 (26) で認められ,『文芸戦線』派の代表的な作家としてナップ派と対立,その後,文戦派から去り,ナップに間接的に協力した。第2次世界大戦後,『かういふ女』 (46) ,『私は生きる』 (47) などで盛んな制作力を示したが,共産党への不信,旧ナップ派への反発などから反共色を強めた。ほかに『鬼子母神』 (46) ,『地底の歌』 (48) ,『自伝的交友録・実感的作家論』 (60) や,遺作となった批判の書『宮本百合子』 (71~72) などがある。没後,恩賜賞 (71年) が贈られた。

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百科事典マイペディア 「平林たい子」の意味・わかりやすい解説

平林たい子【ひらばやしたいこ】

小説家。本名タイ。長野県生れ。諏訪高女卒。社会主義運動を志して上京,職業を転々としながらアナーキスト・グループに接近した。同棲,生活破綻,放浪など,アナーキストたちとの酷烈な生活をリアルに描いた《嘲る》が1927年の大阪朝日新聞の懸賞に当選。同年《施療室にて》を《文芸戦線》に発表してプロレタリア作家として認められた。戦後に《かういふ女》《地底の歌》《砂漠の花》などがある。没後,平林たい子文学賞が設けられた。
→関連項目壺井栄

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平林たい子」の解説

平林たい子 ひらばやし-たいこ

1905-1972 昭和時代の小説家。
明治38年10月3日生まれ。小堀甚二(じんじ)と結婚するが,のち離婚。昭和2年「嘲(あざけ)る」が「大阪朝日新聞」の懸賞に入選。ついで「文芸戦線」掲載の「施療室にて」でプロレタリア作家としてみとめられる。のち「文芸戦線」から脱退。22年「かういふ女」で第1回女流文学者賞を受賞。47年芸術院恩賜賞。昭和47年2月17日死去。66歳。長野県出身。諏訪高女卒。本名はタイ。作品に「地底の歌」「砂漠の花」など。
【格言など】理想的な良人! そんなものは世の中に存在しない(「良人論」)

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367日誕生日大事典 「平林たい子」の解説

平林 たい子 (ひらばやし たいこ)

生年月日:1905年10月3日
昭和時代の小説家
1972年没

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