改訂新版 世界大百科事典 「平群氏」の意味・わかりやすい解説
平群氏 (へぐりうじ)
大和平野西部の平群谷に大きな勢力を持っていた古代豪族。《古事記》の孝元天皇段では葛城臣,蘇我臣,波多臣,巨勢臣,紀臣などとともに,建内(武内)宿禰の後裔氏族と伝えている。このうち紀臣を除けばいずれも大和平野に居住する臣姓の豪族である。《日本書紀》は仁徳紀に平群氏の祖である木菟(つく)宿禰(平群木菟)が仁徳天皇と名を交換したとあり,また履中朝に至り国事にあずかるようになったと記している。しかし木菟宿禰は伝承上の人物に過ぎず,平群氏の台頭時期は平群真鳥が大臣(おおおみ)となった雄略朝以降と考えられる。平群真鳥は武烈朝に至るまで大臣の地位にあり,とりわけ武烈朝においては国政をもっぱらにするとともに,天皇の位を奪うことを企てていたという。また真鳥の子の鮪(しび)は,海柘榴市(つばいち)の歌垣で物部影媛をめぐり武烈と争い,不遜な言動があった。こうしたことが原因となり,真鳥と鮪は武烈天皇の意を受けた大伴金村の攻撃を受け,滅亡する。一方《古事記》は清寧天皇段に,志毗臣が後の仁賢天皇と歌垣で菟田首の女を争ったと伝えるに過ぎず,《日本書紀》の記述とかなりの差異がある。平群谷には勢野茶臼山古墳(すでに消滅)や烏土塚古墳など,6世紀前半に築造された前方後円墳(横穴式石室を持つ)が分布している。これら古墳の築造年代は平群真鳥が権力を握っていたと伝えられる時期とやや隔たりがあるものの,平群谷の平群氏が強大な勢力をもつ豪族であったことを物語っている。なお《古事記》と比較して,《日本書紀》は平群氏関係の記事が詳細である。この点については,681年(天武10)3月の帝紀および上古諸事の記定作業に平群子首が加わっている事実が注目される。
執筆者:和田 萃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報